第1話-2
「あー疲れた……」
四十人分の食器を洗い、残渣はトイレ用の穴に一緒に投げ込んでおく。洗うための水は共用の物を使えるのでありがたいが、そのうち自分で汲んでこいとか言い出しそうだ。
「あーあ……肉もこんなに残ってら……」
ステーキも十枚くらいは余っていた。食いかけ、吐き戻したものっぽいのもある。汚い。しかし一人二枚で八十枚なので、そのうちの十枚ならまだましか。足りないと言われるよりはいくらかいい。
あとで髪の毛も洗っておかないといけない。まさか初日からスープを被るような目に合うとは思わなかった。全く、散々だ。
洗い物は籠に入れて水を切っておく。明日の朝ごはんの下ごしらえも残っている。四十人の食事というのは、単純に量が多い。面倒だし、均質に仕上げるというのも中々骨が折れる。
これで俺のスキルがまともなスキルならいいのだが……俺のスキルは、魔獣料理だ。
この世界で魔獣料理は一般的なものではない。というより、魔獣なんか人は食べない。普通の生物と違い、魔界の毒素のようなものが血肉に混ざっているので、妙なえぐみのような味があるのだ。だが味以前に、魔獣は食材とは認識されていない。魔界からどこかの門を使って人間の世界に送り込まれているといわれるが、要するに魔界の得体のしれない邪悪な生物なのだ。食うという選択肢がない。
十分に血抜きして水洗いすれば食べれることは俺が実証済みだが、それは日本人で言えば、その辺の野良犬や野良猫を食べる様なものだ。国によっては食うのかも知れないが、少なくとも俺が知る範囲ではこの世界に魔獣を食う習慣はない。一種の禁忌だろう。
はあ……魔獣料理。最初に取得したスキルは余程のことがないと覆らない。剣士から槍使いに派生することはあるが、魔法使いになることはない。それと同じ程度に、一度魔獣料理のスキルを得た俺が、普通の人間用の料理スキルを身に着けることはできないのだ。全然系統が違う。あるとすれば、魔獣の煮込みとか焼き物とか特化したスキルだけだ。
そしてそのスキルが俺をこんな過酷な仕事に従事させている原因でもある。普通の料理スキルなら雇ってくれる店はそれなりにあるが、魔獣料理なんて、誰も求めていない料理のスキル持ちを雇ってくれる店はない。それどころか、変な奴を雇っていると店の格が落ちるからと嫌がられる。
はあ。これからの前途を考えると溜息しか出ない。俺を雇ってくれるのは、味を気にしないけだもののような連中だけだ。
そうは言っても仕事なのでやることは片付ける。
ジャガイモの芽を取って皮を剥いて水にさらしておく。本当はあまり長く放置したくないが、朝になってからやるのは多分無理だ。人参も一緒に水にさらしておく。
肉は冷蔵の魔法をかけ直しておく。俺のスキルは魔獣料理だが、最低限の火魔法、水魔法に氷魔法も使える。使い道はあまりないが風魔法も使える。火の調整とか干物を作るのに使えるらしい。魔法は色々種類が使えて便利だが、しかしランクは低いので戦闘には全く役に立たない。
野菜も泥を洗って芯だけ取っておく。キノコも軸を全部切り落として四つぐらいに切っておく。朝のスープは何にするか。まだ牛乳があるから、それを使ってクラムチャウダーにでもするか。
まあこんなもんだろう。後は明日の朝起きてからやるしかない。最後に俺と一緒に雇われた鶏に餌をやっておく。十羽いる。毎日の卵係だ。
「あー疲れた……」
さっきからそれしか言っていない。しかし疲れているんだからしょうがない。リザードマンを退治する前に、俺の方がくたばってしまうのではなかろうか。
「敵襲ー!」
「え?」
俺は鶏の入っている檻に鍵をかけ、顔を上げた。
「敵……?」
何だろう。誰かが酔っぱらってふざけているのか?質の悪い冗談だ。
「敵だ! リザードマンだ!」
叫びながら、遠くから誰かが走ってくる。討伐隊の一人だ。
近くの奴らはまだ座ったままで、酒を飲みながら走ってくる奴を見ていた。
「リザードマンが来るかよ。香は焚いてるし、火のあるところに来たりはせんだろ」
「誰だあいつ? ゲランだっけ?」
「さあ。知らない顔の方が多いからな」
緊張感のない会話。俺はもしかして本当に敵襲かと思ったが、どうやら違ったらしい。つまらないいたずらのようだ。
「何だ、驚かせやがって……」
俺は鶏の餌袋に封をする。今日は疲れた。さっさと寝よう。
そう思って伸びをした瞬間、俺の頬を何かが掠めた。
熱い。何かが頬をこすっていった。誰かが物を投げたのか? 頬に違和感がある。右手で触れると、ぬるりと温かい感触があった。
血――だった。頬が五センチほどすっぱりと一文字に切れ、血がトロトロと流れていた。それを自覚した瞬間に、頬の熱さは痛みへと変わっていった。
何だ? 悪ふざけにも程がある。何を投げたのか知らないが、危険じゃないか。
こちらに走ってきていた男はなおも叫ぶ。
「敵だ! リザードマンが多数! 総員戦闘態勢を――」
言葉の途中で男は転んだ……顔から思い切り地面に突っ込んでいく。ひどい倒れ方だ。そして、倒れた背中に何かが生えている。暗くてよく見えないが、あれは……槍だ。刺さってる? 死んで……いる?!
「何だ……リザードマンだ!」
「全員武器を取れ! 本当に来ているぞ!」
「くそったれ! 魔獣除けの香はどうなってるんだよ!」
そこら辺で座っていた連中が血相を変えて奥の荷物へと走っていく。荷物は荷馬車の中だが、既に外に出してあった。そして戦士たちは次々と剣や槍を手に戻っていく。
甲高い声が聞こえた。虫の羽音と鈍い音が重なり合ったような声。人間とは異質なものだったが、それが声だと分かった。リザードマンの咆哮。
遠くから何かが飛んでくる。月明かりでわずかにその姿が見える。投擲用の槍に見えた。
そしてそれが降り注いでくる。
本数は数十本だろうか。それがすごい速さで飛んできて地面に突き刺さる。地面だけではない。何人かの戦士が槍の犠牲となった。頭や体を刺し貫かれ、地面に縫いとめられる。手足をやられた奴もいる。そして、もう一回。同じように槍が降ってくる。
「嘘だろ! 何だ……何なんだよ!」
俺は鶏の餌を放り投げる。逃げなければ。しかしどこへ? どうなってるんだ!
槍の一本が俺の横を通り抜け鶏小屋に直撃した。織が壊れ、鶏たちが逃げ惑う。狭い檻の中で鶏が走り回り、仲間にぶつかり合ってバタバタと羽ばたいている。俺も鶏と同じだ。危険がすぐそこまで迫ってきているのに、どうしたらいいのか分からない。
野営地のかがり火の向こう。僅かな月明かりの下で影がうごめく。
奴らの姿が炎に照らされる。光沢のある鱗の体。風のように速く駆け抜ける。その手には剣や盾を持ち、まだ混乱している討伐隊に一斉に襲い掛かってきた。
叫びが聞こえた。人の叫びと、リザードマンの叫び。剣と剣がぶつかり、盾と盾が打ち合う。
リザードマンの剣が降り降ろされ、酔っぱらってふらついていた奴が殺される。そのリザードマンを後ろから別の戦士が槍で突き殺す。その戦士に横からリザードマンが飛び掛かり、その牙で戦士の喉元を食いちぎっていく。
殺して、殺されている。干戈の音が響き、悲鳴と怒号が飛び交う。血の臭いが風に乗ってこちらまで漂ってくる。
何てことだ。ここが……こんな風に戦場になるなんて。
ついさっきまでのんきに飯を食って、酒を飲んでいたじゃないか。
リザードマンだってこんな所には来ないはずだ。山の麓辺りに潜んでいるって言ってたじゃないか。
「そんな馬鹿な……」
俺が戦いに巻き込まれることはないと言っていたじゃないか。なのに、ここはもう戦場だ。死の足音が、すぐそこまで近づいてきている。
見たところ、討伐隊の方が劣勢だった。いきなり襲われて、装備が十分じゃない。素手のまま殺されている奴もいるし、武器は持っていても防具のない奴もいる。
リザードマンは当然武装している。魔獣のくせに盾を持ち胸当てまで身に着けている奴もいる。ただでさえ鱗で頑丈なのに、余計に質が悪い。
討伐隊の戦士の一人が槍を振り回しリザードマン三匹と渡り合っている。強い奴もいるが、しかし、討伐隊の戦士はじりじりと数を減らされている。
また一人、リザードマンにやられた。さっきの槍の戦士も……殺された。何故だ? こんなにリザードマンは強いのか? それとも、討伐隊が弱かったのか。
もう討伐隊は数えるほどしかいない。
逃げなければ。
俺はまだ鶏の織の前に立っていた。頬の血は乾きかけていた。だが、まだどうするべきなのか分からなかった。
逃げる場所はない。近くに林があるが、確かにそこなら隠れられるだろうが、こんな夜中に一人で森に入るなんて自殺行為だ。別の魔獣に殺される。
何か隠れられる場所は? 馬車の下や、荷物の箱の中とか? さっきの武器の入っていた箱は?
その箱の方に目を向けると、そこにも死人がいた。殺され、そして今はリザードマンに食われている。数体のリザードマンが、争うようにして死体を食っていた。
「いやだ……そんな……死ぬなんて、食われるなんて……」
俺は周囲を見回す。生きている戦士はどこにいる? その近くに逃げれば、あるいは助かるかもしれない。
だが――いなかった。生きている戦士は、もうどこにもいない。四十人いたはずなのに……一人もいなかった。全員、ただの死体になっていた。
日本から異世界に来て半年。最初はひどい目にも遭ったが、しかし死ぬほどではなかった。危険な魔獣に遭遇したことは数えるほどで、遠巻きに眺めやり過ごした。
今俺が直面しているのは、明らかな死の危険だ。リザードマンはさほど危険な魔獣ではないとされているが、現実はどうだ? 四十人の戦士が殺された。慢心があったにしても、全滅とは。
そして俺は戦士じゃなく、頼れそうな戦士たちはもう一人もいない。みんなリザードマンの餌だ。
じゃあ、俺は死ぬのか?
死にたくない。しかし、それを阻むものは何もない。
リザードマンの一人が俺に気づいた。その瞳に炎が映り込み、赤く燃えている。パチパチと何度か瞬きをした。そして身をかがめ、つるりとした体が月明かりを宿し俺に向かって走り出した。
「ひぃ?!」
俺は後ろに下がった。鶏の檻に足を取られて後ろにひっくり返る。鶏の叫びが聞こえた。羽毛が舞い、俺は横に転がって尻餅をつく。
リザードマンは五メートル程の距離にいた。身をかがめ、状態を地面と平行にしてこちらを向いていた。口の隙間から舌がしゅるりと伸びる。蛇のように二股に分かれた舌だった。
ああ、死ぬ。
そう思った。俺は殺されて、食われるんだ。いや、食い殺されるのかも知れない。苦しいのは、痛いのは嫌だ。いっそ自分で……。俺は包丁に手を伸ばしかける。
全てを諦めた時、声が聞こえた。
「あなた、まだ生きてるのね?」
場違いな声だった。澄んだ、女の人の声。
「ちょっと待ってなさい。トカゲを、片付けるから」
「え……?」
そこにいたのは、帽子を被った女性だった。
・誤字等があればこちらにお願いします。
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