第2話 何人も狼を殺してはならない

「ただいまー」


 家に帰りテントの中に入ると、小さくて暖かい何かが足元にぎゅっと飛びついてきた。俺は元気だなぁと思いながらその小さい何かを受け止める。妹のジェネットだ。遅れてやってきた母さんがあらあらと言った様子で、そんな様子を微笑ましく見ていた。


 最近、俺の妹は歩けるようになり動きが活発になった。どうやらかなりお転婆なたちらしい。母さんや俺が目を離すといつのまにか遠くに移動していることが多々ある。元気なのは嬉しいことだが、まだ妹は物事の分別がついていないために色々と危なっかしいところがある。面倒をみているこちらとしてはかなり冷や冷やさせられるのだ。


 それでも、こうして自分を兄と慕い、拙い足取りで駆け寄ってきたは満面の笑みで抱き着いて出迎えてくれる妹は可愛かった。世話をするのは大変だが、その分喜びも多い。


「おかえりなさい、ギルバート」

「ただいま、母さん」


 あうあうと言う妹の頭を撫でながら、自分を出迎えてくれた母さんに笑顔を向けると、俺は今日の稼ぎが入った袋を母さんに渡した。母さんはいつもありがとうねとお礼を言いながらその袋を受取る。ご飯ができているから食べましょうという母さんの言葉で、俺は足元にいた妹を抱き上げながら家の奥へと入った。


 遊牧民族である俺たちはあまり家具を持たない。だから、食事を取るときも布をしいてそこに皿や鍋を並べるだけだった。まだ乳離れしていない妹に授乳をしながら、母さんは食事を取る俺に今日の出来事を聞いてくる。真っ先に思い浮かんだのはあの胸糞わるいできごとだったが、話してもいい思いはしなのでそれ以外の話題を探して母さんに話した。妹ができてから町に行くことが難しくなった母さんは、楽しそうに町の話を聞いている。そんな母さんの様子を見て、きっと本当は母さんも町に行きたいんだろうなと俺は思った。


「そういえば母さんにプレゼントがあるんだ」


 妹が寝て、俺と母さんだけの時間になった時、俺は懐にしまっていたブレスレットの入った袋を取り出して母さんに渡した。母さんは袋から中身を取り出すと、驚いたように目を見開く。そして、大切そうにそれを両手で軽く握ると泣きそうな顔で「ありがとう、嬉しい」と笑った。


 母さんは大事そうにブレスレットを左腕につけると、キラキラとした目でその腕を眺めた。やはり、母さんも女性。こういったアクセサリーは好きなようだ。喜んでもらえてよかったと俺は思った。


 次の日、羊の出産を手伝ってくれという同じ一族のエリックの頼みを受けて、俺は自分の家の隣にあるエリックの家を訪れていた。俺たちは複数の家族が集まって生活を共にしている一族だ。皆それぞれ家畜を飼っていて、自給自足の生活を行っている。基本的にはそれぞれが自立して生活を行っているのだが、生きていくうえでどうしても人手が必要なときはある。そんな時はお互いが助け合い一緒に乗り越えていくのが、俺たち一族の風習だった。


 そして、この一族には族長がいて全体の方向性を決める長がいた。遊牧民族ならではの引っ越しも、族長が大地の様子を見てタイミングを決めている。冬になって町の近くに俺たちが移動してきたのも族長の判断があったからこそだ。


 エリックはそんな族長の息子で、跡継ぎだった。俺と歳も変わらないくらいで、ちょっと羊馬鹿なところはあるが、誰にでも気さくで思いやりのあるいいやつだ。エリックが時期族長なら俺たち一族は安泰だなと思っているくらいだった。


「初産だからさ、ちょっと時間かかりそうなんだよな」


 産気づいた羊のようすを見守りながら、エリックは心配そうにそう呟いた。羊が産気づいてから既に結構な時間が経っている。エリックの不安が分かる俺はそうだなと頷いた。


「もう少し様子を見ても出てこないようなら、引っ張って介助してやろう」

「そうだな」


 母さん羊は陣痛が酷いのか先ほどからそわそわと動いている。何度か寝っ転がっては子どもが産まれてこず、再び立ち上がるを繰り返していた。


「逆子なのかもしれないな。そろそろ介助した方が良いかもしれない」


 俺はエリックと共に母さん羊をなだめながら子羊の足を引っ張った。やはり逆子だったようだ。なんとか無地に引っ張り出し、無事に子羊が生まれたことに俺たちは安堵した。


「よかった…よく頑張ったなぁ。偉いぞぉ」


 エリックはおろおろと泣きながら、嬉しそうに親子の様子を眺めていた。そんな彼につられて俺も少し心がじんわりする。これまでも生命の誕生の瞬間には何度も立ち会ってきているが、やはり何度繰り返しても感動は変わらない。この緊張感と感動は何度味わっても嫌ではなかった。


 子羊の世話をある程度手伝ったところで、俺は自分の羊の世話があるからと帰ろうとした。すると、ちょうどテントから外に出てきたエリックの父親ダミアンとエリックの祖父であり族長のグスタフがこちらへとやって来た。


「よう!無事に生まれたようだな」

「ふぉっふぉ、エリックも大分、羊飼いらしくなってきたようじゃのぅ」


 どうやら羊の出産が気になって来たらしい。元気そうに母さん羊の乳を飲んでいる子羊を見て、二人とも微笑ましそうな笑みを浮かべていた。


「いつもありがとなギルバート、エリックのこと、これからもよろしく頼むぜ」


 ダミアンさんは俺を見てニッと笑みを浮かべた。その言葉に俺も静かに頷く。


「俺もエリックにはお世話になっていますから。お互い様です」

「ふぉっふぉ、ギルバートはいい子に育ったのう。バートとは偉い違いじゃ。今頃あやつも、お主の成長を天国で喜んでいるだろうよ」


 バートは俺の父親だ。俺が5歳だった時には病気で亡くなっている。周囲の話では父は結構なやんちゃ坊主だったらしい。よく羊には飽きたからと空に飛んでいる鳥を打ち落としては、周囲を驚かせていたようだ。


 正直、父の記憶は殆どない。覚えているのはよく遊んでもらっていたことと、いつも楽しそうで笑っていたことぐらいだ。


 でも、父と過ごした記憶がある俺はまだ幸せな方だ。妹のジェネットは父の記憶も、本当の家族の姿も知らない。ジェネットは俺が見つけた捨て子だ。2年前、今と同じ冬の寒い日に赤子だったジェネットは捨てられていた。ちょうど家に帰ろうとしていた俺は、凍傷寸前の死にかけた赤子を見て、助けなきゃと思った。どんな理由があろうとも生まれた奇跡は変わらない。常に命と共に生きている遊牧民族だからこそ、尊い生命が簡単に捨てられることがあってはならないと、幼いながらにも俺は理解していたのだ。


 俺は胸に抱きながら必死に家に帰った。必死の形相で赤子を抱えて戻って来た俺を、母さんは直ぐに理解し赤子を温めるための準備をしてくれた。そして、二人で必死に赤子の看護をして、赤子は何とか一命を取り留めた。こうしてジェネットは俺の妹として母さんに育てられることになったのだ。


「引き留めて悪かったな。お前も自分のとこの仕事があるだろう。もう帰っていいぜ」

「ふぉっふぉ。何かあった時はエリックをこき使って良いぞ。いつでも頼ってもらっていいんじゃからな」

「はい。ありがとうございます」


 エリックの家族に別れを告げると、俺はエリックの家を後にして自分の家に戻った。いつものように天幕を開けてテントの中に入ろうとして、勢いよくやって来た何かにぶつかった。驚いて見れば、それは青ざめた表情で立ちすくむ母さんの姿があった。


「どうしたの?母さん、そんなに慌てて…」

「ジェネットがいないの!」

「…え?」

「あの子が昼寝をしているうちに洗濯をしていたのだけれど、テントに戻ったらあの子の姿が消えていて。テントの隅々まで探したけれどどこにもいないの!」


 なんということだ。どうやら俺たちは妹の身体能力を見誤っていたらしい。寝ている妹をテントに残すときは、木枠を囲って作った簡易ベッドに妹を寝かせている。妹の身体よりはるかに大きく作っているので、妹が抜け出すのは困難なはずだ。だが、どうやら妹は乗り越えてしまったようだ。テントには扉がない。妹でも簡単に外に出られる。


 俺たちは急いで外に出て妹を探した。あの足ならそう遠くには行っていないはずだ。だが、なかなか見つからなかった。俺はエリック達にもジェネットが消えたことを話し、捜索を手伝ってもらった。ふと、甲高い悲鳴が外に響いた。母さんの声だ。俺は急いで声の方へと向かう。


 たどり着いた先には、真っ青な表情で立ちすくむ母さんと、今にも狼(ヴォルクス)に襲われそうな妹の姿があった。俺は咄嗟に腰につけていた猟銃を抜く。普段から野生動物に襲われる危険が高い俺たちは、基本的に猟銃を身に着けているのだ。


 バーンとけたたましい音が周囲に響いた。弾は見事に命中し、狼は息絶えて地面に倒れる。俺は恐怖で固まっている妹へ駆け寄ると、思いっきり妹を抱きしめた。妹は安堵したのかうわーんと盛大に声をあげて泣き始める。俺は妹の身体を確認して怪我がないことをたしかめると安堵の息を漏らした。


 そして、冷静になったところで、自分のしでかした行いにハッとした。血を流して横たわる狼。既に息はなく、ピクリともしない。


 殺してしまった。狼を殺してしまった。


 妹が助かったはずなのに、母さんも、いつのまにかやって来ていたエリック達の家族も、皆表情が暗かった。


 ダミアンが横たわる狼に近づき、何かを確認して、静かに首を横に振る。その瞬間、周囲の人たちの顔が曇った。


「駄目だ。魔石持ちだ。時期に知られる」


 ダミアンの言葉に母さんは泣き崩れた。ダミアンは静かに俺に近づき、俺から妹を預かると、視線で母さん親の元に行くように促した。俺は大人しくそれに頷き、母さんの元へと行く。母さんは俺が近づくと、俺を思いっきり抱きしめて、ごめんねと繰り返す。


 そんな母さんにいたたまれなくなって俺も自然と涙を流した。ごめんね、母さん。親不孝な子どもでごめんね。


『何人も狼(ヴォルクス)を殺してはならない。殺した者は犯罪奴隷へと降格し、生涯その罪を償わなければならない』(ディアブル法典4条)


 この国の国教で、狼は神獣として扱われている。俺たち遊牧民族からすれば羊を食べてしまう狼は敵であり、邪魔な存在であるが、国民にとっては違うのだ。崇め祭り、敬う存在なのだ。


 そんな神獣である狼を保護するために、神殿が狼に魔石を埋め込み管理している。狼を殺せばその魔石から情報が神殿へと伝わり、すぐさま神獣を殺した大罪者として犯人を捕らえにくる仕組みだ。


「でも、ギルバートは妹を助けるために殺したんだ。事情を話せば…!」

「無理だ。俺ら遊牧民の命より神獣の命の方がはるかに重い。これが貴族なら違ったかもしれないけどな」

「…そんな」


 ダミアンの言葉にエリックは悔しそうな顔で俯いた。この場にいる皆、狼を殺してはいけないなんていう馬鹿げた法律を良く思っていない。それでも、どんなに馬鹿げている法律でも、法である以上法治国家であるこの国では従わなければならないのだ。


―ああ、あの町で見かけた親子と同じだ。幸いなのは捕まる対象が母さんやジェネットではなく、俺自身であることか…。


 ふと、空にけたたましい咆哮が響いた。空を見上げれば複数の小さくて黒い影がこちらに向かって飛んできている。あれは神殿に仕える騎士達が乗る竜だ。犯罪者をいち早く捕まえるため、彼らは竜に乗り、犯罪があった現場まで駆けつけてくる。ああ、終わりだなと俺は思った。


「ギルバート…」


 母さんが不安そうな表情で俺を見つめる。俺は泣きはらした不細工な顔を袖で拭って、母さんに精いっぱいの笑顔を見せる。


「大丈夫だよ。母さん。俺、そう簡単に死なないから。犯罪奴隷には一定の功績を残すことで、釈放してもらって市民に戻してもらえる救済制度があるって聞いたことがある。すぐに良いことを沢山して、戻ってくるよ」


 本当は物凄く不安だ。犯罪奴隷から市民に戻ってくる人がほんの一握りしかいないなんて事実を俺は知っている。だから、こうして母さんと話せるのも最後かもしれないってことも分かっている。でも、俺がここで不安な表情を浮かべたら、母さんはきっと立ち直れない。例え俺がいなくなったとしてもジェネットが傍にいるから。だから、だから―


「…だからさ、それまでジェネットのことよろしく。俺が戻ってきたとき、またジェネットと会えるように、俺の分までジェネットを幸せにしてあげて。俺のことはジェネットに伝えないで。自分のせいで兄が犯罪奴隷になったなんて事実、あの子には知ってほしくないから。これは俺が俺の意思でしたことだ。ジェネットは何も悪くない」


 俺は震える手をぎゅっと握りしめてそう言った。母は涙をながらしながらも、俺の目を真っすぐ見て静かに頷く。


 そのやり取りの後、騎士たちは直ぐに俺たちのところに降り立った。魔石を確認し、犯人が俺であることを確認すると俺を頑丈な枷と鎖で拘束する。


 母も族長たちも何も言うことなく静かにその光景を見守っている。いや、正しくは何も言わないんじゃない。何も言えないのだ。反抗すれば俺だけでなく、反抗した者も捕まりかねない。明らかな事実があるのに騎士に逆らい身内をかばうことは違法なのだ。


 こうして俺は神獣を殺した大罪者として神殿に送られた。そして、犯罪奴隷として地獄の日々を送ることになったのだった。

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