第2話 記憶喪失の少女

 それから約10分後、俺は再び先ほど居た診療室の中に逆戻りしていた。あれから急患の知らせを聞いてすっ飛んできた爺さんは俺の顔を見るなり「やったなお前」という顔をしながらもなぜか俺を呼び戻したのだ。しかし……爺さんはどうやら身振り手振りで俺に“本名を言うな”といっている。はたしてそこにどのような理由があるのかはわからないが、ここは爺さんの言うとおりにした方がいいんだろう。


「まったく……懲りないのぉ」

「うっせぇ。喧嘩してわりぃか!」

「ここはお前のためだけの診療所じゃないんじゃぞ……」

「んなこたぁわあってる!」


 先ほど治療したところを治してる“ふり”をして先ほどやった会話を繰り返す。先ほどと違うのは一人の少女――佐奈がいることだ。俺と爺さんの会話を聞いてなぜかニコニコしている彼女は、一通りのままごとが終わると俺たちに話しかけてきた。


「お二人とも仲がいいんですね」

「仲がいいとかそういうもんじゃあねぇけど……」

「そうですか……あ、そういえばお兄さん、お名前は?」


 まずい、名前を聞かれた。横目でちらっと爺さんの方を見ると、カルテと思しきものに×印を書き込んでいる。つまり正体を明かすなということだろう。しかし……頭に×を入れているのにはあとで物申すとしよう。


 ……せめて、△だ。


「お、俺は……そう、槇原和正だ」

「槇原和正さんっていうんですね! 今は思い出せないんですけど……和正さんにとっっても名前が近い幼馴染のお兄ちゃんがいたんですよ。今もこのあたりに住んでるかはわかりませんけどね。あ、私は佐奈っていいます。よろしくお願いしますね!」


 慌てて作った偽名はほぼ俺の名前にちょっと足しただけの単純なもの。爺さんもこの名前を聞いた瞬間に頭を抱えたが、それでも佐奈はあっさりと偽名の方を本名と思い込んで理解を示した。確かに別れてから10年も経っているとはいえ、俺の名前を思い出せないのか……?


 あれだけ、いろいろなことをして遊んだり、離れ離れになっても手紙や年賀状のやり取りがあったのに。


 どういうことなんだ。


「佐奈くん、とりあえずワシらはこれからちょいっと話があるから病室で待ってておくれ。すぐに行くからのぉ」

「あ。はい! じゃあお茶淹れて待ってますね! そうだ、和正さんも今度一緒にティータイムでもどうですか?」

「あ、ああ。ちょっと考える……」

「はい、是非!」


 ティータイムという単語に少々動揺を覚えながらもそう返事すると、佐奈は元気よく立ち上がって診療室を出て行った。足取りは軽い。表情も明るい。声もいい。何故入院しているかがまるでわからない。


「まったく、なんという偽名じゃ……もうちょっとこう、ひねったのは出せんのか」

「うっせーわ! こんな不意打ちで来るとか思ってなかったんだよ!」

「はぁ……まあチンピラのアホに無茶振りするワシもワシか」

「頭悪くて悪かったな!」


 俺の偽名に呆れる爺さんとそれに対して応戦する俺はまたしばらく顔を突き合わせて視線でのバトルをすると……今回は爺さんが目をそらしてカルテの方に向かった。つまり、俺の疑問を全部言っていいんだろう。


「あれ、佐奈……だよな」

「ああ。お前が10年前に別れたあの女の子で違いない」

「じゃあ、なんでここに入院なんかしているんだ……見た感じどこも」

「まあ、そうじゃな……お前には話すか。どうせここに今後も数十回と訪れるはずじゃ」


 そういった爺さんは佐奈のものと思しきカルテを一瞬見ると、まっすぐな目で俺に話しかけてきた。


「あの子は……記憶喪失じゃ」

「記憶、喪失……?」

「ああ。脳にできた悪性の腫瘍のせいで記憶障害が起こっている。聞く限り発症した6年前以前の記憶はほぼ忘れているそうじゃ」


 脳腫瘍、生きるためにとても重要になるところに腫瘍ができてしまうこと。あらゆる世代に起こるが場所によって手術するのは難しい。高齢者が多いこの村でもよく聞く病名だけに俺は一瞬視界が真っ白になる……。


「佐奈の場合、“グリオーマ”と呼ばれるものじゃな。早期にわかれば手術はできたが……いかんせん増殖が速い部類じゃ。既に身体のあちこちに転移してしまっているそうじゃ」

「じゃ、じゃあ……」

「本来ならもう生きているのは絶望的じゃな。ただ、丁度2年ほど前に“アンドロメダシン”の施術を受けているそうじゃ」


 “アンドロメダシン”はあらゆる症状の末期症状の進行を一時的に抑制するものすごく強いい薬。2~3年は症状を抑制できるが身体への負担が凄まじく一度投与したら二度と使えない。


 要するに、余命宣告だ。


「そうか……」

「幸い、腫瘍は転移してるとは言ったが脳以外の場所は転移しにくい場所にあるそうじゃ。それに脳の腫瘍も取り出せないわけじゃないんじゃ。ただ、手術するにはものすごくリスクが高いんじゃよ」


 爺さんはそういうが、それでも救いにはならないだろう。アンドロメダシンを投与されて2年がたっているということはもう既に余命は少ない。記憶が戻る可能性も少なく腫瘍を切除するにしてもリスクが高すぎる。そして、俺ができることは……ない。


 昔、口約束したその約束も果たすことなく、このままだと俺よりも若い佐奈はこの世から消えちまう。


 今回に限って言えば、俺は非力だ。


「まあ、そういうことじゃ。これを言いたくないからワシは佐奈と会わせたくなかったんじゃが……しょうがない。お前にもちょっと協力してもらおう」

「……協力? なんのだ」

「佐奈が最期まで楽しめるようにじゃよ。それに、もしかしたら記憶を取り戻すかもしれんじゃろ。その希望があるかもしれないから佐奈の両親は四葉町じゃあなくてここを入院先に選んだんじゃからな」


 そこまで言うと、爺さんはカルテをしまい席を立つと「ティータイムでもしてくるかの」と言い診療室を出て行った。最終的に一人取り残された俺はこれからどうするかを考えていた。


 爺さんが言った“楽しめるように”は言われたからにゃ協力はする。だが、その中で自分がやれることがあるのか。そしていつまで一緒にいられるのか。


 まだ右手が痛む中、俺はこぶしを握り締めながら結論を出そうと必死だった。



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