第300話物語 物語は続くよどこまでも

 今日も今日とて旅をしている私たちは、今日も今日とて宿に泊まっていました。

 夕飯を食べ、お風呂も入ってあとは眠るだけ。そんな夜の静かな時間に、ペンを動かす音と本をめくる音が聴こえます。

 いつからか習慣になっている勉強の時間。やらなくても怒るひとはいませんが、なんとなく続けているものでした。字を読むことも書くことも必要なかった私。けれど、ペンで字を綴ることや本をめくる感覚は悪くありません。知らない言葉を知り、知らない物語を知っていく。ほんとうならもっと幼い頃にすることでしょうが、少し遅い学びに溺れることに抵抗はあまりないのでした。

 夕飯時にはおいしそうなスープとオムライスが置かれていたテーブルには勉強道具が広がり、魔王さんは私の邪魔にならないように大好きなおしゃべりを封印しているようです。

 黙々とペンを動かす私をにこやかに見守り、読書をしたりお茶を飲んだりしています。

 カメラに伸ばそうとする手を必死に抑え、苦しげな顔をしていることも知っています。大変やかましい表情ですが、無言を貫いているのでよしとしましょう。

 勉強に対して知識のなかった私は、つい嫌なものだと考えていました。学習の機会を失ってきた私を想い、魔王さんが教鞭を執ることもありましたが、なんでしょうね、あの、なんというか、教え方がね……。

 ふとペンを止め、これまでの日々を思い返します。

「とりあえずドリル十冊やってみましょう」とか。

「『転生したらお姫様でした~竹の中は案外住み良い~』を最初から最後まで写してみましょう」とか。

「ぼくの言う単語を一秒以内に書けるように練習しましょう」とか。

 ちょっと嫌なんですよね。正直に言うとね。

 最後のやつはいい? 私も一瞬そう思いましたけど、付け足して言われた言葉でため息が出てしまったのです。

「まずは三時間」ですって。嫌ですよね、ふつうに。

 善意でやってくれているんですけど、嫌だなぁという感情が勝ってしまい、これではよくないと思ってお断りしたんです。

 とはいえ、そこからは独学。ゆっくりですが読み書きができるようになっているのはわかりますが、独学ゆえに上げ止まっていることを感じていました。方法も知識もないままでは、限度というものがあります。

 魔王さんからいただいた教材はあらかたやってしまいましたし、繰り返し使っているので覚えてしまったくらいです。何か別の方法を考える必要がありそうでした。

 魔王さんに案を訊く? うーん、もうそれ以外にないように思います。

 悩みつつ、ちらりと目をやると、魔王さんはカップ片手に本のページをめくっていました。読書タイムに入ったようです。邪魔するのは悪いですよね。どうしましょうか。

 行動を決めかねていると、私の視線に気がついた魔王さんがこちらを見ました。

「どうしましたか?」

「……なんの本を読んでいるのかなと思いまして」

「これですか? かぐや姫さんの本ですよ」

 差し出された本のタイトルは……ええと。

「可愛い子、には旅を、させよ……?」

「よく読めました。『可愛い子には旅をさせよ~もちろん私もついていく~』という旅物語です。娘の成長のために旅という修行を課したものの、心配でついていく母目線で繰り広げられるコメディ作品なんですよ。読みますか?」

「だいじょうぶです」

 結構ですの方のだいじょうぶです。

「人気シリーズでこれは第十二巻です。娘に恋人ができるかもしれない展開に母のどきどきが止まらない回になっています」

「ああ……がんばってほしいですね。はい」

 私にはまだ早い世界です。いろんな意味で。

 でも、読書ですか。易しく書かれた童話はよく読みますが、魔王さんが読んでいるようなタイプは試したことがありませんね。文字数が多い分、字の勉強にはいいかもしれません。読んでみたいものもありませんが、試すくらいはいいように思います。

 魔王さんが読書をしている時、笑ったり泣いたり表情が豊かです。手の中の世界には、一体どんな物語があるのだろうと思ったことは多々ありました。

 私にも読めるでしょうか。楽しめるでしょうか。

 できれば、あまり記憶に残らないものがいいです。悲しい話だった時に困ります。どうせ読むなら、少しくらいはくすっとしたいものですが、私は感情が死んでいますからね。

 魔王さんのようにはいかない。……本を読むことすら。

 私は、くすくすと笑いながら読む魔王さんから目を逸らし、迷うペン先を動かすことができないまま無為に時間を過ごしました。

 翌日、宿をあとにして歩いていた私は、今後の勉強について考えました。

 一生懸命やっているつもりですが、すらすらと書けないし読めない。何かが障壁になっている感じがしてもやもやします。

 ……読むなってことかな。

 今日は勉強せずにだらだらしてしまおうかと思っていた時のことです。

「勇者さん、危ないです」

 突然、魔王さんが腕を掴んで止めました。何かと思った瞬間、目の前に意味のわからないスピードで落ちてきたのは竹。

 ……竹?

 風をきって地面に突き刺さり、唖然としているともう一本落ちてきました。

 二メートルほど感覚をあけて刺さった二本の竹。

 私が困惑を口にする前にさらに降ってきた竹は横向きに落下し、縦に突き刺さっている竹のてっぺんに着地しました。

 …………なに? 幻覚?

 それはまるで門のようでした。三本の竹によって作られた門。

 きっと夢を見ているのだろうと脳に言い聞かせた時、竹で区切られた空間から光が放たれました。まぶしい。あれかな。朝日かな。夢から覚めるための光かな。

 なにやら仰々しい音楽も聴こえます。笛の音でしょうか。鈴の音もあるような。

 私は頭痛を感じながら……あ、脳の疲労による頭痛です。それを感じながら、光が消えるのを待ちました。知らずのうちに手が大剣に伸びていますが、まあ幻覚でしょう。うん。

 竹の門からゆっくりと現れたのは、濃い緑色の髪をした少女……いえ、女性でしょうか。

 うつくしい模様の服はゆったりと広がり、裾を引きずりそうです。

 きれいに切り揃えられた前髪の下では瞳は閉じられ、その色はわかりません。

 ひどくゆっくり歩いてくる様子は、まるでどこかのお姫様のご登場を思わせました。いや、見たことはないんですけどね。想像でね。

 一歩踏み出す足は、つま先で地面を感じてから全体をおろす。丁寧に、丁寧に歩いてきます。

「……あら、段差ですわ。どこかしら……この辺?」

 小さな声でなにか聞こえました。

 つま先で場所をちょいちょいと確認しているようです。

 ……見えないなら目を開けたらどうですかね。

 謎のステップを入れつつ、そのひとはやがて私たちの前で立ち止まりました。

 なぜぶつからなかったか、ですか? この女性が薄目で位置を確認したからです。そのあとすぐに目を閉じましたけど。

 立ち止まったあと、何かを思い出したように光の中に手を突っ込み、大きな道具を取り出して己の横に置きました。ラジカセみたいなものでしょうか。あそこから仰々しい音楽が流れているようです。

 地面に引っかかった服の裾を引っ張り、袖を直し、すっと体の前で手を重ねます。

 そして、優美な雰囲気を纏いながらゆっくりと目を開きました。

「お初お目にかかります、勇者様。わたくしは魔族のひとり、かぐや姫と申します。やっとお会いできてうれしいですわぁ」

 穏やかな声色にゆったりとしたしゃべり方。あまり聞いたことのない丁寧な言葉遣い。雰囲気も相まって、とても幻想的で上品だと思いました。

 ……直前の諸々がなければ、ですが。

「魔王様もお久しゅうございます。ご息災でいらっしゃるようで、わたくしも安心でございます」

「こうして会うのは千年ぶりでしょうか? 本を送ってくれるのでよく会っている気分ですよ」

「楽しんでいただけていますかしらぁ? であれば作家冥利に尽きるというものです」

 魔族嫌いの魔王さんですが、かぐや姫さんに対する態度は穏やかに見えました。特に殺伐とした空気になるわけでもなく、ふつうに会話しているようです。

 とはいえ、相手は魔族。警戒の色を隠しながら私とかぐや姫さんの間に入ってきました。

 それに気がついたのか、かぐや姫さんは微笑みながら一歩下がりました。

「相変わらず、不思議な魔王様ですねぇ。では、礼儀としてまずわたくしの目的からお話いたしましょう」

「そうしていただけるとありがたいです」

 かぐや姫さんは私に向き直ると、豪華な服の隙間から何かを取り出しました。

 メモ帳とペンでした。

「これですわぁ」

「作家ならもう少し説明をですね」

「あらあら、失礼いたしました。何を隠そう、わたくしの目的は勇者さんへの取材です」

「……取材?」

 耳慣れない単語に、思わず声が出ました。

「実はわたくし、今スランプなのぉ」

 頬に手を当てて困ったように笑うかぐや姫さん。

 あれ、なんだか聞いたことのある単語ですね。たしか、魔王さんに届いた手紙にそんな話があったような……?

「たしか、大富豪とか七並べとか」

「それはトランプ~」

「失礼しました。えびですね」

「それはシュリンプ~」

 ……なかなかやりおる、このひと。

「やだぁ、勇者様ったらおもしろいお人ですわねぇ。このかぐや、気に入りましたわ」

 今ので気に入られても。

「こほん、というわけでして」

 どういうわけだ。

「スランプゆえ、新作を書くためのネタを探しておりましたところ、魔王様からお手紙をいただきまして」

 確認のために魔王さんを見ると、彼女は否定せずに頷きました。

「魔王様、滅多に手紙を書かれないのですけれど、珍しく届いたので何事かと思いまして。内容は勇者様、あなたについてでしたわぁ」

「私?」

 それはたしかに珍しいですね。魔族に私のことを教えるなんて、いつもの魔王さんでは考えられないことです。何か理由があるのでしょうね。

 私の視線に、魔王さんは冷や汗を垂らしながら目を逸らしました。

 あ、これは後ろめたい理由ですね。教えろ。

「かぐや姫さんがスランプだという手紙をもらってから、少し考えることがありまして……。物語のネタがないなら、勇者さんを題材にした作品を書くのはどうかと思ったんですよ。勇者を主人公にした作品は星の数ほどありますが、ほとんど想像によるものです。売れっ子作家さんのかぐや姫さんの文才による勇者さん、きみの物語が読みたくて……えへへ……」

 なるほど、いつもの欲望ですね。このやろめ。

「かぐや姫さんの性格は長年の付き合いで知っていますし、ぼくとしても友好的な知り合いなので他の魔族よりは心配はありません。魔力の強い魔族ではありますが、創作にしか興味がないのでいいかなぁ~と……。えへ」

「魔王さんの言い分はわかりました。殴っていいですか?」

「ま、魔族の悩みを解消するのは魔王としての仕事でもありますから!」

「いつもの発言を振り返ってください」

「ご、ごめんなさい~~!」

 私にほっぺをつねられたまま、魔王さんはひんひん言っています。

 一連の会話を見ていたかぐや姫さんは、驚きつつもうれしそうに笑っていました。

「とっても仲がよろしいのですねぇ」

「そう見えます?」

「はい、見えますわぁ」

 ……そうですか。お好きなように。

 かぐや姫さんは何かを思い出したように手を叩き、服の隙間から小さな紙を取り出して私に手渡しました。

「今のわたくしは魔族ではなくライトノベル作家ですわ。改めまして、よろしくお願いいたしますね」

 片方の頬が伸びたまま、魔王さんが「めいひというやふれふ~」と説明しました。

「めいひ?」

「名刺、ですわ。わたくしの挨拶ですわね」

 もらった紙にはなにやら文字が。

「た……け? ええと、かぐや……」

「竹中かぐやと申します。わたくしのペンネームですのよぉ」

 魔王さんが「作家としての名前です」と付け足します。なるほど。

「ぜひ、かぐやと呼んでくださいませ」

「かぐや姫さんではないのですか?」

「それは昔の呼び名ですわ。もうわたくしを姫と呼ぶ人はいませんから」

 彼女は少しだけさみしそうに言いました。

 私はそうですか、と言って名刺を鞄にしまいました。

「それならぼくもペンネームの方で呼ぶとしますよ」

「お任せいたしますわぁ」

 かぐや姫さん改めかぐやさんは、微笑を湛えながら「そういうことですので、どうかご協力いただけないかしらぁ?」と頬に手を当てました。

 取材……。断る理由はありませんが、私でいいのかという疑問はありました。

 たぶん、おもしろいことはありませんよ。勇者といってもやる気のない私ですし、世間一般のイメージからはかけ離れています。想像によって描かれた勇者の方がよっぽど勇者らしいと思います。

 躊躇う私に、彼女は「お気になさらないでください。勇者様はいつも通りで構いませんわ。わたくしはたしかに勇者を主題にした作品を書くためにやって参りましたが、取材をするのはあなたです。あなたという勇者様なのですよ」と優しく言います。

 うーん、いつも通りでいいのなら、少しなら……。

 普段と同じように過ごしている姿を見せるだけで、困っている誰かが助かるなら……と思いました。かぐやさんは作家として人間も魔族も楽しませているひとでしょう。そんなすごいひとが頼ってくれているのなら、断るわけにはいきませんね。何もできない私を取材してもらうだけで、大きな力を持った人の役に立つのです。

 私はこくりと頷きました。

「わかりました。よろしくお願いします、かぐやさん」

「こちらこそ、ですわぁ」

 隣で魔王さんが小さくガッツポーズしたのが見えました。欲望の権化。

 ……まあ、私もひとのこと言えませんけどね。

 そういうわけで、私たちはひとまず三にん体制で行動することになりました。

 私を観察したいと言うかぐやさんは数歩下がった位置につき、私たちを見ています。

 いつでもメモを取れるようにでしょうか。メモ帳とペンを手に持ったまま、にこにこと穏やかな表情で見守っているようです。

 見られるのは苦手ですが、今回はガマンしましょう。それに、悪意のない視線は不快感を連れてきません。これなら問題なく取材されることができます。

 とはいえ、背後に誰かがいるというだけで、私はどうにも落ち着かない気分になるのです。まだよく知らない相手ですし、なにより魔族です。

 顔を魔王さんの方に向けるフリをしながら横目でうしろの様子を窺いました。

 濃い緑色をした髪はとても長く、地面につかないか心配になるほどです。それをきれいに編み込んだり結ったり、髪飾りをつけたりと上品な仕上がりになっています。

 何重にも重なる色とりどりの服が上品さをさらに引き上げているように思いました。

 動きにくそうな服、という感想が真っ先に出てきて申し訳なさを覚える私。

 ……仕方ないじゃないですか。重そうだし、暑そうだし。布団にはなりそうですけど。

 一国のお姫様にふさわしい姿の彼女の瞳は赤く染まっています。

 けれど、優しげな目元がおそろしさを消している。彼女が魔族だということを忘れてしまうくらい、穏やかな空気をまとっているのです。

 すべての魔族が、みんなこうだったら世界は平和だったのでしょうか。

 ふと、そんなことを考えてしまうくらいに、かぐやさんは穏和な微笑みを浮かべているのでした。

 背後を気にしながら歩いていると、こどもが泣きながらなにかを叫んでいるのが聞こえました。場所は? 近い。魔の気配は? ない。

 私は大剣をそのままに走り出し、えんえん泣いている少女を見つけました。

 大粒の涙がとめどなく流れ落ち、小さな顔がびしょぬれです。

 私はフードを深く被って顔を隠しながら近寄りました。

「……どうしました?」

 全体的に黒い服ですし、大げさな剣も背負っているのでこわかったのでしょう。少女はびゃっと身体を震わせてまた涙を流しました。

「あ、怪しい者ではありません」

 見た目は怪しいですけど。

 私は小走りで近寄ってきた魔王さんを前に突き出し、「勇者ですよー。勇者。わかりますか?」と手を振りました。あ、魔王さんの手を、です。

「……勇者さま?」

「そうです。どうして泣いていたんですか?」

「ママと……はぐれちゃって……うえええええええん!」

 思い出して悲しさがあふれたのでしょうか。言った途端にとんでもない泣き方をされました。ま、迷子ですね。わかりました。でも、とりあえず泣き止んでほしい……。

 私は鞄から飴を取り出し、魔王さんのうしろから伸ばしました。この方法、私がよくやる戦法です。便利ですよ。

「あめ? ありがとう!」

「それを食べながらお母さんを探しましょう。どこではぐれたかわかりますか?」

「んとね、パン屋さんの前で待っててねっていわれて、ちょうちょを追いかけたらはぐれちゃったの」

「パン屋さんですか。まずはそこへ行ってみましょう」

 私は魔王さんの手を動かし、少女に差し出しました。彼女はうれしそうに繋ぎ、涙はいつの間にか引っ込んだようでした。

 ずっと黙っていた魔王さんが「ぼくは勇者じゃありませんよ」と、皆さんご存じのことを言ってきます。仕方ないでしょう、少女はあなたを勇者だと思っているのですから。

 はぐれてからどのくらいの時間が経ったかはわかりません。きっと母親も探しているでしょうが、パン屋に行くのが最適だと思われました。すれ違いにならないことを祈ります。

 かぐやさんはというと、薄い布で顔を隠しながらうしろをついてきています。ひらひらして飛んでいきそうな布を気にすることなくペンを動かしているようでした。歩きながら書くとは器用なひとですね。

 やがてパン屋が見えてくると、少女は弾かれた様に「ママ!」と走り出しました。店の前でしきりにきょろきょろしていた女性がその声に反応し、走り寄ってきます。

「どこに行っていたの! 心配したでしょう!」

「ちょうちょみつけた!」

「そう……。私もごめんなさい。ひとりにするんじゃなかったわ。さ、帰りましょう」

 母親に手を引かれた少女はくるりと振り返り、「ありがとー! ばいばーい!」と手を振りました。私たちの存在に気がついた母親は深くお辞儀をし、感謝の意を示しました。

「お気をつけて~」

 魔王さんも手を振り、二人が去ったのを確認すると、

「これが勇者様の日常ですのね……! すてきですわぁ」

 かぐやさんがうっとりと微笑みました。

「勇者さんはこどもの泣き声に敏感なんですよ。気づくのがとっても早くて、なんだかんだ言いながら助けに行くのがとってもかわいらし――ぐはぁ⁉」

 みぞおちに一発。

「ばか言わないでください。泣き声がうるさいから泣き止ませるために行っただけです」

「飴を渡すのも、まるで息をするように滑らかな動作で――えびゅあぁ」

 横腹に一発。

「こどもは食べ物を渡すと泣き止むって決まっているんです。世界の真理です」

「ぼく、そんな真理知りませんよう……」

「今日はあれです、かぐやさんが取材をするということで、勇者っぽいことをしているだけです。それだけです何にやにやしてんですかもう一発殴りますよ」

「わぁぁぁぁ~やめてくださいぃぃ~えへへへ~ひぃえすみません~」

 そう言いつつも顔ににやけが止まらない様子の魔王さん。かぐやさんも、うふふと笑っています。あっちでもこっちでもにこにこと……。調子が狂いますね。

 その後、私はにこにこーずからの視線を感じながら勇者業をこなしました。言っておきますけど、かぐやさんの取材のためです。

 魔物を倒すのも、人間を助けるのも、落とし物を届けるのも、ケガをした動物を病院に連れて行くのも、すべて取材に役立つからやったことです。

 かぐやさんは慣れた様子でペンをさらさらと動かし、たまにノールックでメモをしていました。すごい。

 ただ書くだけなのに、滑らかなペンの動きはうつくしいものでした。つい見惚れていると、それに気づいた彼女は「なんでしょう?」と言いたげな顔でこちらを見ました。

「……取材、こんな感じでだいじょうぶそうですか?」

「ええ、とてもよいですわぁ。勇者様はお疲れではございませんか?」

「このくらいなら」

「あら、さすがですわねぇ」

 かぐやさんはうんうんと頷き、メモをします。今の流れで書くことあったでしょうか。

 ぺらりとメモ帳をめくりながら、彼女は「ところで……」と改まって言葉を続けます。

「このかぐや、もっと密着した取材をしたいと思うのです」

「勇者さんはスキンシップが苦手ですよ」

「あ、そういう意味の密着ではなくてですね」

 かぐやさんは服の隙間からおもむろにカメラを取り出しました。

 なんでも出てくるな、あの服。

「メモでは記録に限界がございまして、色彩、状況、躍動感、表情など、写真や動画でしかわからないこともあるのです。のちの執筆の際にも、より的確に描写するための材料となりますわ」

 たしかに、走り書きよりは写真の方がいいでしょうね。

「ですが……、お手紙によれば勇者様は写真も動画も苦手でいらっしゃるとのこと。こうして取材できているだけでもありがたいことですが、内なるわたくしが抑えきれません。す、少しでよろしいので、カメラを使う許可をいただきたく……!」

「カメラですか」

「もちろん、得たデータの悪用は一切いたしませんわ。用途はすべて執筆の参考資料。月に持ち帰って厳重に保存いたします」

 かぐやさんはぐいぐいと近寄って力説します。

「数枚、数秒でも構いませんの。勇者様の物語を書くためにどうか! わたくしの作家人生の新たな扉を開くために!」

「あ、新たな扉って」

「かつてないリアリティを持ちながら圧倒的なファンタジーの物語を描くことですわ!」

「は、はあ。リアリティでファンタジーですか」

「これまでのわたくしの作品は、妄想九十九パーセント、事実一パーセントでした」

 そう言われても、私にはよくわかりません。とりあえず、何も言わずに彼女にお話していただくとしましょう。

「わたくしは書きたいのです。妄想百パーセント、事実百パーセントの物語を!」

 ……ん? どっちも百パーセントですけど、いいんですか?

「あー、つまりですね、すべて事実でありながら、まるですべて空想の世界の出来事のような物語を書きたいのでしょうね」

 魔王さんが解釈を述べました。ああ、なるほどです。なるほど……? いえ、ごめんなさい。なるほどじゃないです。よくわかりません。

「勇者さんという実在の人物の物語を書きながら、きみが辿る物語はフィクションの世界そのもの。読者は空想の物語として楽しみつつ、その中には純度百パーセントの現実性が潜んでいるってことですね」

「説明ありがとうございます。私にはどうすることもできません」

 フィクションであり、ノンフィクションということですね。ふむ、よくわからん。

「その物語を書くことができれば、わたくしはひとつ上のステージに上がれるのです」

「というと?」

「ふふ、わたくしが筆をとり続ける理由。それが形となって現れるのです」

 かぐやさんはメモ帳を大事そうに手で包み、ちらりと魔王さんを見ました。ほんのわずかな視線の動き。私の位置からしかわからないものでした。

「そのためには、勇者様、より詳しく、より鮮やかにあなたのことを知りたいのです。いかがでしょうか?」

 かぐやさんが書きたいという不思議な物語のことはわかりました。その理由に事情があることも窺えたので、私は少し躊躇いつつも承諾しました。

「構いませんよ」

「ほんとですか⁉」

「ただ、写真や動画の方のデータはあとで消してほしいのです。物語が完成したら不要になるはずですし、あまり、その……残っていてほしくなくて」

「……。はい、わかりましたわ。お約束は守ります」

「締切は守ったり守らなかったりしていますよね」

 おそらく、魔王さんの言葉はかぐやさんにとって不都合なものだったのでしょう。笑顔にぴしっとヒビが入ったような気配がしました。

「ま、守っていますわぁ。たまにぎりぎり……ちょっとオーバーするだけです……」

「それを守っていないと言うんですよ」

「あぁぁぁれぇぇぇぇ~……」

 およよ……と袖で目を隠すかぐやさんは、潤んだ瞳で「ですが、勇者様との約束は必ずや! 必ずやお守りいたします!」と懇願してきました。

 心の底からのお願いなのでしょう。涙目で頼み込む彼女が気の毒になり、おもしろくもあり、私は「いいですよ」と再度承諾します。

 不覚にも、普段のカメラマン魔王さんによって少しずつ撮られることに慣れている自分がいました。悪意をもってカメラを構えるのでないなら、たぶんだいじょうぶでしょう。

 取材も撮影も物語のモデルも、すべて私の苦手な分野のものだと思います。でも、少しのガマンで数え切れない読者さんを楽しませるかぐやさんの役に立てる。それはたしかに、うれしいことだと思いました。そして、ほんの少し、ほんの少しですよ? 楽しみ……かもしれません。なにぶん初めてのことです。私の中の好奇心が目を覚ましているのでしょう。満面の笑みでカメラを掲げるかぐやさんも、彼女によって描かれる物語を心待ちにしている魔王さんも、どちらも楽しそうです。邪魔してはいけませんね。

 さて、カメラでどんな私を撮られるのか……と思っていた時。

 魔王さん、かぐやさんではない魔の気配を感じました。

 あ、これはかなり強いかもしれません。場所は? 数は? 周囲に人間は?

 ここからではわかりません。移動しなくては。

 視線をやると、魔王さんも気配を察知したようで頷きました。かぐやさんも喜びの顔をすぐに引っ込めて仕事モードに切り替えたようです。

「お邪魔はいたしません」

「どうだか……」

 若干呆れた様子の魔王さん。なんでしょうか。なにかかぐやさんに問題が?

 とはいえ、気にしている暇はなさそうです。私は魔の気配を辿るように進んでいきます。あった。村です。被害は? 見た感じ、まだない。魔族もしくは魔物はどこに。

 大剣に手をかけながら走っていると、地震に似た揺れが辺りに響きました。

 同時に爆発音も聴こえます。音から推測するに、火薬……?

 村に近づいてくると、ちらほらと脱出してくる人間たちの姿が見えました。黒色の煙が立ちのぼっている場所に行けばよさそうですね。ですが、パニックに陥っている村人たちは思考が短絡的になり、放っておくのは危険です。現に理解不能な行動をとっている人が見えました。

「魔王さん、彼らを頼んでもよろしいですか」

「それは構いませんが、この気配はかなり強い魔物だと思いますよ。油断はしないでくださいね」

「はい。では、あとで」

 魔王さんが人間たちに向かって行ったのを確認することなく、私は煙の方へ足を進めます。かぐやさんも一緒です。

 このひとの強さはわかりません。長寿だからといって強いというわけでもないでしょうし、どのような力があるのかも知りません。なるべく危険のないようにしますが、こればかりは相手によりますからね。

 煙を発しているのは大きな倉庫のようでした。火薬があったならば、まだ残っている可能性は高いですね。魔なるものは……倉庫の中。

 火の手が上がる中でも気にすることなく暴れまわっているようです。そのまま焼け死ぬのなら、倉庫の手前で待機しているのも――。

「……こども?」

 泣き声。これは幼いこどもの泣き声です。魔物じゃない。動物とも違う。

 魔物が暴れる音と資材が転げる音、ばちばちと燃え上がる火の音の向こうでこどもが泣いている。いや、私の気のせいでしょうか……?

 私は小さく息を吸い、止めました。目を閉じ、聴力に意識を集中させます。

「…………」

 魔物の唸り声を消し、火の音を消し、求める声だけを手繰り寄せる。

「…………」

 ……見つけた。やはりいた。こどもが取り残されている。

 魔物は暴れることに夢中で私に気がついていません。ならば。

 私は大剣を脱ぎ捨てると燃える倉庫に走り出しました。

「勇者様⁉ 危険ですわ!」

「かぐやさんはここで待っていてください! すぐ戻ります!」

 身軽になった私はかぐやさんの制止の声を背中に受けつつ、物が散乱する倉庫に滑り込みます。火の手が回る前にこどもを見つけて脱出。問題ありません。やってみせます。

 皮膚をじりじりと焼く熱気が周囲の空気を焦がしていくようです。息苦しさを感じながら、私は泣き声を探します。

 我を失っている魔物はむしろチャンス。勝手に暴れていなさい。

「どこにいますか! 助けにき――げほっ……うっ」

 叫んだ瞬間に喉がやられる。だめです、大声は出せない。泣き声も大きくない。

 こうなったら、片っ端から探すしかありません。幸い、私は走るのが速いので。

 なるべく呼吸を小さくし、体勢を低くして駆け抜けます。

 木材の隙間、いない。折り畳み式の椅子の裏、いない。積み上がった箱の隅、いない。

「どこにいるんですか……!」

 火が付き、ばきばきと倒壊する柱を避けます。舞い上がる粉塵と火の粉が視界をくらませる。はやく見つけないと……。

「……! いた、見つけた!」

 倒れた柱の向こう、棚によって作られたわずかなスペースで幼子がうずくまっている。

 駆け寄り、手を差し出しました。

「そこの子、聞こえますか。助けに来ました。はやくこっちへ!」

 ぬいぐるみを抱きしめながら顔をうずめていた少女は私の声にぱっと顔を上げました。けれど、隠す時間のなかった私の目を見て後ずさります。

「や、やだ……!」

 魔族だと思われたのでしょう。当然です。同じ色をした魔物がすぐ近くで暴れているのですから。

 ……こわいですよね。わかりますよ。でも、許してください。あなたにはきっと、死んでしまったら悲しむ人がいるはずです。あなたの無事を祈っている人がいるはずです。ここで死ぬのは正しくない。

 私は使うつもりで準備していた魔法を発動させました。するすると伸びた茨が少女の体に巻き付き、私のところまで連れてきます。

「や、やめて! たすけて!」

 脱いだローブで受け止めると、泣きじゃくり抵抗する少女を抱きしめ、「ごめんなさい」と謝って外まで走ります。

 あっという間に広がった火の海が逃げ場を奪っていきます。魔物も迷惑なのに、火まで……。厄介ですね。

 暴れていた少女が激しくせき込み、ぐったりと頭をうずめます。

「だいじょうぶですか⁉ しっかり……けほっ……っ」

 まずい。早く外に出なくては。行く先はほとんど火。少女は私の腕の中。

 でも、行くしかないですね。

 私は足に力を入れて走り出します。辛うじて生き残っている場所を瞬間的に判断し、がれきを飛び越え、降りかかる火の粉を避け、走る。

 髪の先が燃えようとどうでもいい。ローブにくるんだ少女を離さないように強く抱きしめました。

 くらくらと霞む視界に「がんばれ」と激励し、夢中で足を動かします。

 そして、肺が悲鳴をあげた時、目の前にまぶしい光が射しこみました。

 外。脱出できた。……よかった。

「勇者様!」

 待っていたかぐやさんが駆け寄り、背中をさすってくれました。私は絶え絶えの息のまま、少女を託そうと顔を上げた時。

 魔物の叫び声が聞こえました。強い魔力を背後から感じる。勇者に気づいた。

 大剣……!

 私は少女をせめて少しでも遠くに、と転がすと、放り投げた大剣を引き抜きました。

「離れていてください……!」

 かぐやさんに叫び、体勢を整えます。

 うまく体に力が入りませんが、仕方ありません。

 かぐやさんたちに被害が及ばぬよう、私は倉庫内の魔物に近寄ります。放出される熱気が魔物の悪意をエスカレートさせているようです。燃えながら唸り声をあげ、私に向かって攻撃をしかけてきます。これはどうする。避ける? 避けられる? 剣で受け止めて流す? 避けたり流したりしたら少女に当たる可能性がある。それなら、受け止めて跳ね返す? 攻撃は斬れる?

 ……頭が働かない。感覚が鈍っている。正解の選択肢がわからない。

 剣を持つ手も震えている。こわいものですね、火というものは。

 私は本能に任せて剣を構えました。

 魔物の攻撃。右斜め上から。受け止めて踏ん張る。……攻撃が重い。私じゃ受け止めきれない。

「……っうぅ!」

 腕全体に鈍い衝撃が走り、弾かれました。まずい、こどもが……!

 魔物を見ながら視線を動かすと、かぐやさんが少女を遠くに移動させているのが見えました。

 ああ、よかった。ありがとう、かぐやさん。

 あの位置ならだいじょうぶだと信じます。私は大剣を横向きに持ち、体重をかけて魔物に斬りかかろうとしました。その瞬間のことです。体の底でぞわっと気持ちの悪い感覚が染み渡ったのは。

 しまった、死角から攻撃されている。私の剣が魔物を斬るのがはやい? 攻撃が直撃するのがはやい? どっち――。

「勇者様、危ない!」

 かぐやさんの叫ぶ声とともに、体に覆いかぶさる感覚がありました。けれど、大剣には『斬った』感覚もあったのでした。

「あ……」

 横向きに飛んだ斬撃は、魔物を真っ二つにしていました。きれいに分かれた体がぼとりと地面に落ち、ゆっくりと消えていきます。流れる血は魔物のものと、もうひとつ。

「かぐや……さん……」

「おケガはありませんか? うふふ……、わたくし、離れているように言われた勇者様のお言葉、さっそく破ってしまいましたわぁ……」

 魔物からの攻撃をその身で受け止めたかぐやさんの体には、魔力で作られた鋭い刃物が刺さっていました。黒々と滲むそれは、槍の先端部分に似た形をしています。

 かぐやさんを傷つけているのはそれだけではありません。背中に刺さった刃物とは別に、脇腹部分を斬ったのは私の剣。

 魔物を殺した勢いのまま彼女もえぐり、勇者としての力が魔なるものを滅殺せんと広がっていきます。きれいな服が血で汚れ、剣身に沿って地面に滴っていく。

「あ、あの……かぐやさん、だいじょうぶ――」

 彼女を支えようと手を伸ばした時、私の目に入ってきたのは地面でした。

 あれ、どうして。なんで倒れたんでしょうか。

 燃え盛る倉庫と赤く染まっていく地面。剣を握る感覚もなく、私の意識が消えていきます。

 うまく息ができない。肺が痛い。ぼうっとする頭で考えるのはふたりのこと。

 あのこどもも……かぐやさんも……はやく治療しなくてはいけないのに……。

 すべてが薄れていく私は、遠くで魔王さんの声を聴いた気がしました。


 〇


 次に目を開けた時、そこは知らない部屋でした。

 まだぼやける視界が天井や家具を混ぜ合わせた変な景色を捉えます。

 少し息苦しい。体が重くて起き上がるのがおっくうです。いえ、起き上がれない。思った以上に体は鉛のようでした。

 わずかに動かしたてのひらが、ふわりとした手触りの毛布に触れます。胸の辺りまでかけられ、私のすぐそばには赤い目をした黒猫のストラップが置かれています。

 これは、魔王さんの……。

 靄がかかったような頭が少しずつ出来事を思い出していきます。

 そうだ、こども。かぐやさん。あのふたりは無事でしょうか? 倉庫の火事は? 魔物はあれ一体だけ? 見落としは?

 働き始めた途端、いくつもの疑問が渦巻いて頭が痛い。ここがどこかはわかりませんが、行かないと。

 私は何倍にも重くなったと感じる体を無理やり起こし、ベッドから降りようとして転げ落ちました。い、痛い……。靴はどこですか。ていうか、いつもの服じゃないですね。宿屋で貸してくれるルームウェアみたいなものです。そこで気がつきましたが、あちこち手当てされているようです。私、いつケガしましたっけ。

 床に激突した痛みと相変わらず重すぎる体に動けないでいると、ばたばたと走る音が聞こえました。

「勇者さん⁉ なにしてるんですか!」

「魔王、さ……けほ」

 喉が詰まってうまくしゃべれません。ひりひりして痛い。掠れた声のせいで痛みが増した気がしました。

 慌てて駆け寄った魔王さんは、椅子に置いてあったカーディガンを私にかけて「だいじょうぶですか?」、「まだ動いちゃだめですよ」とベッドに戻そうとします。

「医療行為ですのでお許しを」

 そう言うと、ひょいと抱き上げて元いた場所に私を座らせる魔王さん。直接肌に触れないよう、ひらひらした袖を引っ張っているのが見えました。

 安静にしているよう指示し、黒猫のストラップを置き直すと「お水持ってきますね」と立ち去ろうとしました。思わずひらひらを掴み、「待ってください」と引き留めます。

「こ、こどもがいた、と思うんですけど、どうなったかご存じですか? あと、私のそばにかぐやさんが……ケガをして、いたはずなんです。彼女は無事ですか。魔物の攻撃と、私の剣が当たって、ケガを……」

「勇者さん」

 魔王さんは私と目線を合わせて微笑みました。

「ふたりとも無事ですよ。だいじょうぶです。生きています」

「そう、ですか……」

「詳しくはお水を持ってきてからお話いたしますね。しばしお待ちを。あ、何度も言いますが絶対安静で!」

 ビシッと指をさし、魔王さんは部屋の向こうに消えていきました。と、思ったら、ひょいと顔を出して「その黒猫ちゃん、ぼくだと思ってそばに置いといてくださいねっ」と言ってきました。放り投げました。

 それはそうと、ふたりとも無事。……よかった。まずは安心です。こどもの方は目立ったケガはなさそうでした。でも、かぐやさんは……。

 彼女もここにいるのでしょうか。落ち着かない心の底が私を動かそうとしますが、また魔王さんに怒られてしまいますね。

 約束を破ってしまったと笑ったかぐやさんが頭から消えません。どうして助けてくれたのでしょう。

 ……いえ、どうしてなど考えるまでもありません。

 私が死んだら取材ができないから。それ以外の理由は思いつきませんし、ないでしょう。

 魔族が勇者を助けるなんておかしな話。いつも隣に魔王さんがいるからついわからなくなる。

 私は勇者で、彼女たちは魔なるもの。敵対関係にある者たちです。

 それでも、助けてもらったことは事実。傷つけたことも事実。ありがとうを言って、はやくごめんなさいを言いたかった。

 落ち着かない。優しい笑顔に絆されそうになる私も、それに甘えようとする奥底の私も。

 何度魔なるものたちの命を奪ったかわからない剣の感触が、今日は少し違う気がしました。思わず手首を握りしめ、痛みでそれを消し去ろうとしました。

「お待たせしました~。新しいガーゼが見当たらなくて、少し遅くなってしまいました」

 戻ってきた魔王さんの声でパッと手を離します。

「はい、どうぞ。お水、飲めそうですか?」

「……はい。ありがとうございます」

「ゆっくりでいいですので」

 魔王さんはベッド脇の椅子に座り、救急箱を膝の上に置きました。

 勇者さんが気になっていることをお話しますね、と口を開いた魔王さんは、私と別れてから見つけるまでの出来事を話し始めました。

「勇者さんに言われて村人たちの避難誘導にあたったぼくは、最も強い魔力を持った魔物以外にも低級が暴れているのを見たんです。それらを倒しつつ、逃げ遅れた人やケガ人を安全な場所まで連れて行きました。例のごとく、ぼくは勇者だと勘違いされまして、その辺はスムーズにいったと思います。そんな時、火の手があがる方に行こうとする男性を見かけまして、危険なので止めたんですよ。そしたら、煙がのぼる場所は村の資材を貯蔵する大きな倉庫だと言い、娘がいるかもしれないと言うではありませんか。逃げていればいいですが、残っていたら大変です。制止を振り切って走る男性を追い、ぼくも倉庫に向かいました。そこで見たのは、燃え盛る倉庫と倒れている勇者さんとかぐやさん。少し離れたところに少女もいました。男性の反応から娘さんだとわかったので、そちらはお任せしてぼくはきみたちのところに行ったんです」

 魔王さんは、やや申し訳なさそうに目を伏せました。

「ごめんなさい。もっとはやくに行くべきでした。勇者さんにケガを負わせてしまった。魔王失格です」

 悲しい声色でしたが、魔王失格という言葉に困惑し何も言えませんでした。

 ……魔王失格ってなに。いや、この空気で訊けませんよ。場を考えてください、私。

「ふたりとも気を失っているようでしたので、村の人たちに宿を借りて運んだのです。診療所にはケガ人がいますからね。事情のあるぼくたちは宿の方が落ち着けると思いまして。あ、倉庫の火災はすでに鎮火しましたよ。村人たちががんばったようです」

「そうですか。よかったです」

「少女も命に別状はないとのことです。煙を吸って意識を失ったようですね。すり傷などはありますが、数日後にはきれいに消えるものですよ」

 ……よかった。何度目かもわからぬ同じ言葉で安堵し、私は小さく息を吐きました。

「かぐやさんは……?」

「彼女は――」

 何かを言うとした魔王さんは、何かが落下する大きな音を聞いてため息をつきました。

「またですか……。じっとしているように言ったんですけどねぇ」

「何の音ですか?」

「彼女、ぼくから安静命令を受けたのをいいことに、ここぞとばかりに執筆をしようと参考資料やらなんやらを積み上げて埋もれているんです。これまで出版された勇者に関する書物も広げているので、それが崩れた音でしょうね」

「元気、そうですね……?」

「ええ、元気ですよ。だから、勇者さんはしっかり休んでください。きみも煙を吸っていますし、ケガもしています。かぐやさんのことは気にしなくていいですよ。魔族はきみが思っている以上にしぶといですから」

 呆れたように、おかしそうに、魔王さんは笑って消毒液を取り出しました。

 と思えば、今しがたの表情が消え、とても申し訳なさそうな顔になった彼女は「ごめんなさい」とまた謝ってきました。

「医療行為とはいえ、きみに断りなく触れましたし、着替えもさせました。も、もちろん変なことはしていませんよ! 神に誓って――いえ、アレには誓いたくないですね。勇者さんに誓って何もしていません」

 青い目が真っ直ぐに私を見ます。

 まったく、不思議なことで謝るのですね。いつもは散々くっつこうとするくせに、こういう時はちゃんと線を引くのですから。

 でも、そのおかげで私も緊張を解いていられるのです。

「構いません。手当て、ありがとうございました」

「お許しがいただけたということで、さらにくっついてケガの治療を――むぶぁぅ」

「させるか」

 黒猫のストラップを魔王さんの顔面に押し当て、気味の悪い動きをしていた手を阻止しました。

「……こほん、それはそうと勇者さん、細かい傷がたくさんありましたけど、お気づきでした? 火傷がなくてよかったですが、あちこち灰で黒かったですし、服の裾は燃えていましたよ」

「まあ、燃える倉庫の中に突撃したので、それくらいはあるでしょうね」

「もう、危険なことをするんですから!」

 頬を膨らませて立腹を表す魔王さんは、手で『触れてよいか』と尋ねます。

 頷いて応えます。彼女が示した手の甲にはガーゼ。それを取ると、いつ切ったのかわからない傷がありました。新しいガーゼに浸み込ませた消毒液が鋭い痛みとなって効いていきます。

「ですが、よくがんばりましたね」

 軽く握られた手をじっと見ていると、ふいに魔王さんが言いました。

「勇者として立派な行動でした。少女は助かり、魔物は倒された。村の被害はあるものの、死者はいません。物語がハッピーエンドを迎える材料はじゅうぶんです。きみの的確な采配と行動によるものでしょう」

 ですが、と魔王さんは不満そうな口をします。

「ぼくにとって世界で一番大切なのはきみです。危険なことはしてほしくありませんし、きみが嫌なことはしなくていい。それで誰かが死んだとしても、ぼくは責めない」

 不満そうな口が緩み、ふるふると首を振りました。

「そう言っても、きみはあれやこれやと理由をつけて走って行くのでしょうね。まったく、ほんとうに困った子です。それで? 今回はどんな内容で言い訳するのですか?」

 いたずらっぽく笑い、魔王さんは訊きました。

 言い訳。そうですね、今回は……。

「取材のためです。少しくらい派手な場面があった方がいいと思いまして」

「取材ですか。ふむふむ。そうですか。それなら仕方ないですねぇ」

「はい。仕方ないのです」

 魔王さんは「ほんとにもう」と困った様子でしたが、その顔は穏やかでした。

 一通りの処置が終わり、魔王さんの言いつけ通りにしばらく休みました。

 数時間後、多少軽くなった体で向かったのは隣の部屋。

 扉を開くと、そこには大量の本、本、本……。紙の束やよくわからないものまで、部屋を埋め尽くす量がありました。

 どこから持って来たんだ、この本……。まさか、服の隙間じゃないでしょうね? いや、魔族ですからね、ありえないことではない……でも、いやいやいや……。

 唖然と見ていると、本のタワーの隙間から「勇者様? あらぁ! こっちですわぁ、こっち!」と元気そうな声がしました。

 こっちと言われましても、どうやって行けと。

 魔王さんがため息をついたり吸ったりしながら魔法で片づけ、足の踏み場ができたところを縫ってベッドまで近づきました。

「んもー……。ぼくの仕事を増やすんですから。あ! ここさっき片づけたばかりなのに!」

 リスのごとく頬を膨らませた魔王さんがひょいひょいと魔法で紙束をまとめていきます。

 目の前に椅子がひとりでに動いてきました。おお、便利。

「まだ無理はしちゃいけませんからね。座っていてください」

「わかりました」

 椅子に腰かけ、にこにこしているかぐやさんを見ました。私と同じルームウェアに身を包み、長い髪を大きな三つ編みにして胸の前に垂らしています。手には見慣れてきたペンを持ち、ベッドの上の簡易机には何枚もの紙が広がっています。ベッドは数え切れないほどの本で埋まり、かなり寝づらそうです。下手に動かしたら、どこになんの本がわからなくなりそうでしたが、魔王さんはお構いなく魔法で浮かせていました。

 かぐやさんの様子だけを見ると元気そうですが、ケガをしたのは事実です。魔王さんのようにあっさり治るとは思えませんし、空元気の可能性もあります。

 私は遠慮がちに口を開き、「ごめんなさい」と謝りました。

「あなたは取材に来ただけなのに、危険な目に遭わせてしまいました。助けてくれたのに、ケガまで負わせてしまった。ごめんなさい。ケガ、どれくらいひどいですか……」

 魔王さんのように真っ直ぐ見ることができず、私は視線を落として自分の手を握りました。

 ……あ、いけない。ありがとうを言っていません。ちゃんと言わないと。この流れで感謝を述べてもいいのでしょうか。変じゃないでしょうか。いや、言わないよりはよっぽど……。

「勇者様、顔を上げてくださいませ」

 悶々と考えていた私に、かぐやさんは静かな声で言いました。

「わたくしは魔族です。ゆえに、ちょっとやそっとのケガではなんともありませんわ。それに、あの行動はわたくしの意思によるもの。あなたが気を病む必要は一切ございません」

「……でも」

「それより聞いてくださいませ! わたくし、世紀の瞬間をカメラに収めることができましたの!」

「は、はい?」

 目をきらきらさせてカメラを抱きしめるかぐやさん。唐突なテンションの変化に驚きました。

「勇者様には待っているよう言われましたけれど、わたくし、居ても立っても居られなくなりまして、つい突撃してしまいました! おかげでこんなすばらしい資料が……はぁぁぁぁ~、月から来たかいがありましたわぁ……」

 カメラに頬ずりするかぐやさん。だいじょうぶでしょうか、このひと。あの時、頭打った?

「魔物からの攻撃は……」

「あれはなんともありません。あの程度、わたくしには効果のないことですから」

 ……まじですか。え、でも、めちゃくちゃ辛そうでしたよね。死にそうな雰囲気出していたじゃないですか。演技ですか? 演技なんですか⁉

「彼女が安静にしている理由は勇者さんの攻撃をくらったからですよ。まあ、作家のくせに安静という言葉の意味を知らないようですが」

「動かしているのは頭と腕だけですわぁ」

「動かしている時点で安静とは言わないんですよ」

「あぁぁぁれぇぇぇ~。うふふふ」

 楽しそうに頬に手を当てるかぐやさん。あれ? 魔物からの攻撃がダメージゼロだとすると、ぜんぶ私のせいってことですよね。

 思いっきり刺さっていたあれがダメージゼロなんですよ? それじゃあ、私の攻撃はどれだけ……。

 やっぱり、私が勇者だから、でしょうか。魔なるものへの威力が出てしまう。

 意図していなかったことですが、負わせた傷は変えられない。

 治癒魔法とか……だめです。私、治癒魔法使えないんでした。それに、勇者の魔法では逆効果かもしれません。

 魔王さんのお叱りをのらりくらりと対応していたかぐやさんは、私が羽織っているカーディガンをちょいちょいと引っ張りました。

「聞いてくださいませ!」

 先ほどと同じノリです。

「わたくし、生まれて初めて勇者様の攻撃をこの身に受けましたの! はうぅぅぅぅ……、これが勇者の力というものなのですね! わたくし、歓喜のあまり出血が止まりませんわぁ。これがほんとの出血大サービスってね、うふふふ……!」

 ノリがこわいです。かぐやさん、おかしくなっちゃったよぉ……。

 引き気味で作り笑いを浮かべていると、横から風をきって本が飛んできました。かぐやさんの額にゴールイン。

「あぁぁぁれぇぇぇ~……」

「鎮まってください。勇者さんが困っていますよ」

「失礼しました。このかぐや、勇者の力を受けることを夢見ておりましたゆえ、此度は宿願を果たすことができて大慶至極、有頂天外でございますわぁ~!」

 よくわかりませんが、とてもうれしそうなのでよしとしま……よしとしていいのでしょうか。

「はっぴー、はっぴーです。うふふふ」

 よしとしましょう。

「これで、かつてなくつぶさに描写することができますわ。我が身をもって得た感覚、誰にも書けないリアリティで稀有な作品をこの手で……! うふふふ、浮かびますわ、感じますわ。わたくしの脳内で比類なき物語が誕生するのを……! ああ、はやく文章にしなくては。具現化しなくてはいけませんわ!」

 高らかにペンを掲げた瞬間、魔王さんにばこんと頭を叩かれるかぐやさん。かなり厚い本で叩きましたけど、だいじょうぶなんでしょうか。

「あ、ん、せ、い!」

「も、もうだいじょうぶでございます。それに、この痛みが消えないうちに書かなくてはなりませ――ぴぃぁ! 魔王様、わたくしの担当様の次におそろしいですわぁ……」

 しゃべっている時に三度目のお咎めをくらい、およよ……と頭を抑えるかぐやさんをよそに、魔王さんはやれやれと息をはきました。

「スイッチが入るとおばかさんになるんですよ、このひと」

 それは魔王さんも同じなような。

「元々、あわよくば死なない程度に勇者さんの攻撃をくらいたいと言っていたアブナイひとなので、きみが気を病む必要は一切ないのですよ」

「えっ、まじですか」

 そんな危険な願望があったんですか。仕事熱心というか、特殊な性格というか。

「実際に、とてもすてきな資料がわたくしの手に……! 虎穴に入らずんば虎子を得ず、ですわぁ。入ったのは勇者様の懐でしたけど~」

 懐というか、覆いかぶさってきましたけどね。

 ご機嫌なかぐやさんを見ていると、ぐるぐるとわだかまる胸の奥が溶かされていくようでした。でも、罪悪感は消えません。

「かぐやさん、助けてくださってありがとうございました。お詫びといってはなんですが、取材……好きなようにしていただいて構いません。私ももっとお力になれるようにしますので、遠慮なく言っていただければと……思います」

 きっと喜んでくれると思って提案しましたが、意外にも彼女は言葉に迷っている様子で頬に手を当てました。

「勇者様、もしかして、わたくしが取材の継続のためにあなたを庇ったと思っていらっしゃいますか?」

「違うんですか」

「違いますわ。わたくしはあなたを守るためだけに動きました」

「でも写真とか……」

「あらぁ、うふふふ、まさか狙って撮ったと思っていらっしゃいますの? こんなすてきな瞬間を? これは偶然の産物ですわぁ。衝撃で作動した結果、収められた勇者様の勇姿でございます」

 かぐやさんは愛おしそうにカメラを撫でました。

「あなたの生き様、勇気、優しさ、慈しみ……。わずかな時間ですが、そばで見ていたわたくしが目の当たりにしてきた勇者様の人となり。誰にも知られることなく消えてしまうはずだった命の輝きがここにはあるのです。そして、ここにも」

 くるりとペンを回したかぐやさんは微笑んで私を見ました。ペン先は私に向いています。

「最初から、何かあればあなたの命を優先するつもりでした。取材は二の次ですわ。……あら、驚いた顔ですわねぇ。うふふふ、不思議がることではありませんわ。だって、一秒、一瞬を積み重ね続ける至高の物語がここにあるのですから」

 柔らかな笑みが私を包みこみました。……ふわふわするようです。

 こんな風に言われた時、なんて返すのが正解なのでしょうか。

 かぐやさんの言葉は私にはもったいない。注がれる温かな視線が少しつらい。……けれど、うれしく思う私がいるのも確かです。まったく愚かで仕方のない。いっそ愚劣だと嘲笑ってくれれば安心するのに、魔王さんもかぐやさんも私がまだ詳しく知らない笑顔を向けてくる。困りました。困って正解がわからない。

 魔なるものを倒すのは日常です。勇者としては当たり前。そんな日々の中で、敵のはずのひとたちから悪意のない笑みを向けられるんですよ?

 最初から守るつもりだった? どうして。なんの得があって。

 素直にありがとうすら言えず、身を守るようにカーディガンを握りしめました。

「それとも!」

 唐突な声に驚き、下がっていた顔を思わず上げました。

「勇者様は、勇者なのに魔族であるわたくしにケガをさせてしまったことで心を痛めていらっしゃるのですか⁉」

 こ、声が大きい。顔が近い。あと、なんで目が輝いているんですか……。

「わたくしが魔族だってこと、ご存じかしらぁ?」

「それはもちろんです」

「では、なぜそんなにも、せっかくのおかわいらしい顔を歪めていらっしゃるのですか? もっと笑ってくださいませ。ほら、スマイルですわぁ~」

 自分の頬に指を当てて、首をこてんと傾げました。

 ……とってもいい笑顔ですこと。

 なんだかおもしろくて、呆れて、私は頬を緩めました。それを見て、かぐやさんもうふふと笑いました。

 本を持ちながら黙って様子を見守っていた魔王さんは、私たちの笑顔にほっと息をつきました。

「ところで勇者様? 先ほど、好きなように取材してよいとおっしゃいましたね?」

「え、ええ。私にできることなら……」

「ほどほどにしてくださいね、かぐやさん。きみも勇者さんも、まだ安静ですよ」

 さっそく飛んでくる魔王さんのお咎めに、かぐやさんは「もちろんですわぁ」と服の隙間に腕を入れ……。

「あ、ルームウェアでしたわ」

 と、本の下や布団の下やベッドの下を覗いたりひっくり返したりしたのち、

「やっぱりここでしたわぁ」

 と、服の隙間から紙束を取り出しました。

 どうなっているんだろう、あれ。魔法? 手品?

「これをお願いしたく思います」

「なんですか?」

「かぐや特製・百の質問表ですわぁ」

「多いな……」

 本音が漏れてしまった。いや、魔王さんの質問よりは少ないですね。許容範囲でしょう。

「質問はすべて紙に書いてありますし、回答も書いていただければわたくしはいつでも読み返せます。これなら、安静にしながらできますわ。よろしいでしょうか、魔王様?」

「百の質問ですか。……多いですね」

 あなたが言うな。

 いえ、それより、読んで書く……。

「……魔王さん、あの」

「はい?」

「ちょっと手伝ってほしくて……。読むのとか、書く――いえ、ごめんなさい。なんでもありません。だいじょうぶです、質問ですね。やっておきます」

 言いかけてやめました。これは私への取材ですし、お詫びでもあります。ひとりでやらないと。平気です、以前よりは読み書きはできるようになっています。わからない言葉は調べればいいでしょう。時間をかければ問題ありません。

 時間……。うっ、そう思うとちょっと数が多いですね。なるべくはやく終わらせた方がいいはずです。寝ずにやりますか。いつもの字の勉強だと思えばいいでしょう。

 そうなると、少しでも時間が惜しくなるものです。焦る必要はないのに慌てて立ち上がった私は、お間抜けを炸裂させて椅子に躓きました。

 紙の束が床に散乱します。ああ、やってしまった……。

「ご、ごめんなさい」

 みっともない姿を晒して恥ずかしい。これも記録されるのでしょうか。うぐっ、それは勘弁……。

「だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶです」

「いえ、こちらの方ですわ」

 かぐやさんはペンを持ち、空中に書くフリをしました。

「……へいき、です。た、ぶん」

 たどたどしく答える私に、彼女は椅子をぽんぽんと叩いて座るよう促しました。

 断るわけにもいかず、おずおずと再度座ると、魔王さんがペンを差し出しました。

 え、なに。なんでペン。受け取りますけど……。

「読み書きは苦手ですか?」

「苦手……かもしれません。勉強中なんですけど、うまく頭に入ってこなくて」

「そういう人もおりますわ。気にすることではありませんよ。向き不向きはあって当然です」

 ありがたい言葉ですが、これまで魔王さんとやってきたことの大体はなんとなくうまくできてきました。……なんて、自分でそう言うのはアレですけど。

 ただ、読み書きだけは上達が遅い。他のことより力を注いでいるつもりなのに、中々進まない気がして仕方ないのです。これまでのことは運が良かったとか、たまたま上手にできただけとか、そう思った方が説明がつくくらいに。

「読み書き以外はすんなりこなしちゃうんですけどねぇ」

 魔王さんも不思議そうにもらし、「毎日お勉強しているので、きっともうじきマスターできますよ」と慰めてくれました。

「毎日お勉強していらっしゃるのですか? とてもすてきですわぁ。よろしければ、どんな方法で学んでいるかお訊きしても?」

 毎日ではなく、ほぼ毎日です。やらない日もありますよ。やる暇のない日やどうしてもやる気のない日です。

 ええと、方法ですか。私は指を折りながらいつも行っていることを伝えます。

 教材に沿って文字を書く。書籍の文章を書き写す。

 教材の文章を読む。絵本を読む。覚えた内容と書いてある文字を照らし合わせて覚える。

 他にもいろいろ……。

 頷いて聞いていたかぐやさんは、私が使っている教材を見たいと言いました。

 魔王さんが持ってきてくれた教材をじっくりと眺めたかぐやさん。

 ぱたりと本を閉じて「とてもよく勉強していらっしゃいますわ。がんばっているのですね」と微笑みました。

 褒められた……? でも、能力が向上していないのですから、褒められるべきではありません。もっとがんばらなくてはいけません。

「簡潔に申し上げますと、勇者様の能力と教材のレベルが合っていないかと」

「レベル、ですか」

「はい。教材は初心者用。文字を学び始めたばかりの方には非常に有効なものです。入門として選んだ魔王様の判断は的確でしたわ。ですが、見た感じ勇者様の識字水準はすでにこれ以上に及んでいるはずです。勇者様、教材の内容はどの程度理解していらっしゃいますか?」

「自分では、ほぼぜんぶわかっていると思います。ていうか、覚えてしまったので……」

 理解と暗記は違うとわかっていますが、教材の内容は頭に入っているかと。

「では、教材のレベルを上げてもっと難しいことを学びましょう。勇者様ならば、それもすぐに吸収できると思いますわぁ」

「難しい教材ですか」

「もちろん、教材を渡して『はい終わり』とは言いませんわ。ええ、お任せください。このかぐや、燃えてきましたわぁ!」

 どこから取り出したか……あ、服の隙間でした。いつもと同じでした。服の隙間から取り出した眼鏡を勢いよくかけ、目をぎらつかせるかぐやさんはとても生き生きしていました。

「僭越ながら、わたくしが教鞭を執らせていただきます! さあ勇者様、文字を学んで読んで書いて学んで書いてすてきな識字ライフを送りましょう!」

 識字ライフってなに。

「ぜひ、わたくしの著書も読んでくださいませ~」

 あ、それはちょっと。

「ぼく、見学していてもいいですか?」

「勇者様がよければ構いませんわ」

 ちらりと私を見る魔王さん。見学って、私が勉強している姿を、ですよね。それなら、いつもとあまり変わらないと思います。誰かに教えられるのは久しぶりですね。

「いいですよ」

「わぁい! 静かにカメラを構えるだけにしますので!」

 没収しておきました。

「しょも……。では、黒猫ちゃんをぼくだと思って一緒に勉強がんばりましょうね……」

 肩を落とす魔王さんは私のルームウェアにストラップを潜り込ませ、うしろの方に下がりました。

 目にもとまらぬ速さで片づけをしていたかぐやさんは、テーブルに教材を広げます。

「では、まずはこの文章を読んでみてくださいませ。ゆっくりで構いませんわ。読めない場所があってもだいじょうぶ。少しずつ学んでいけばよいのですから」

 内心緊張しているのに勘づいているのか、彼女は私を安心させてくれる言葉をくれました。わかったフリをしても気づかれるでしょう。素直に、素直に……。

 ひとつひとつの言葉を声にし、時折詰まりながらも読み進めます。誰も何も言わないから、勝手に変なことを考えて焦ってしまう。読むのに必死で内容なんて入ってきませんでした。

「よろしいですわ。では、次は書いてみましょう。書かれている一番から十番までの言葉を真似てみてくださいませ。意味も一緒に覚えましょうね」

 教材を見ている私には、かぐやさんがどこを見ているかわかりません。でも、滑らかに場所を指定する彼女の指についていこうとペンを動かす私は、少々おかしな子に見えているはずです。呆れられていないといいのですが……。

 ひとりで勉強している時にはない緊張感がペンを震わせます。や、やめてください字が汚くなってしまうじゃないですか。いや、元々そんなにきれいな字でもありませんけど。せっかく教えてくれると言っているのに、見てくれているのに、やっぱりひとりがいいなどと思ってしまう。一言も言われていないのに、優しい期待が重く感じる。

 ……断ればよかったでしょうか。

「はい、よくできましたね。少し見せてくださいませ」

 教材をじっくりと見るかぐやさんに聞かれないよう、無言で息をはきました。

 魔物を倒すより力を使った気がします。変に心臓が鳴っている。

 はあ……妙に落ち着かない。

 その後、かぐやさんに言われるままペンを動かし口を動かし、個別指導の勉強が続きました。途中、私が指定されたことをこなすたびに彼女は賛辞を述べてくれました。でも、そんな風に言われることはやっていない。間違っていることも多くて褒められることなどない。

 しばらく経った頃、かぐやさんは「テストをしてみましょう」と教材を自分の方へ持っていきました。ページが見えないように抱え、別の白い紙をテーブルに置きます。

「テスト?」

「はい。勇者様がどのくらい覚えたかの確認ですわ。緊張しなくてよいのです。気楽に参りましょう~。では、今やったページの一問目、この言葉の意味はなんでしたか?」

「……一問目」

 かぐやさんはさらりと書いたきれいな文字を提示しました。

 今やっていたのは、単語の意味を学ぶページです。書く練習をしたら意味も一緒に覚えようとデザインされた教材。もちろん、知らないと使えないので意味も確認しました。確認したはずですが……。

「…………えっと」

 思い出せません。いえ、たぶん頭に入っていない。言葉をなぞって読んだつもりでいただけなのでしょう。書く方がよく見えるからと、ペンを動かすことに必死になってしまった。いけない。テキトーな言葉すら出てこない。「こんな意味だったかも?」という推測もできない。どうしよう、こんなに丁寧に教えてもらっていたのに。

「…………」

「忘れちゃいました?」

「……ごめんなさい」

「いえいえ。謝ることではございませんわぁ。また覚えればいいのですから。では、気を取り直して二問目の言葉は――」

 ペンを取ったかぐやさんが止まり、そのまま置いてしまいました。

 どうしたのでしょうか。気を悪くした? 怒られるでしょうか。いや、できなかったのだからそれは当然のこと――。

「勇者様」

「は、はい」

「勇者様はどうして字を学んでいらっしゃるのですか?」

「どうして、ですか……」

 そう言われても、理由なんて特に……。私が勉強しようと思ったきっかけは何でしたっけ。本や教材が鞄に入ったのはいつでしたっけ。

 魔王さんの日記を盗み読みしようとか、そんなテキトーな理由だった気もします。

 いつも、何も考えずに口からしゃべったことをそれっぽく積み立てて、私の理由にしているだけ。

 約束を果たしてもらう前の小さな旅。読み書きができて知識も有り、金銭の問題もクリアしている魔王さんが一緒にいるんです。私の役割なんて魔王さんが望むことくらいですよ。そこに読み書きは入っていません。手紙は……絶対に必要ではありませんよね。

 私はがんばることは向いていませんし、がんばりたくありません。

 毎日こつこつと勉強するなんて、私らしくありませんよ。

 そうですよ、私には読みたいものも書きたいこともない。

 魔王さんのように記録するとしても、自分のことなんて書きたくない。残したくない。

 ……あれ、じゃあ、私が字を学ぶ意味ってなんですか。これなら別に勉強しなくたって――。

 ふっと力が抜ける気がしました。気づかないフリをしていたことに気づいてしまったような。

「勇者さん、落としましたよ」

 魔王さんが視線を合わせてペンを差し出しました。いつの間にか、指からすり抜けてしまったようです。

「あ……。ごめんなさい。ありがとうございます」

「お疲れなら、一旦やめにしますか?」

「…………」

 迷って言葉が出ませんでした。どうしよう。どうしましょうか。

 でも、このままではかぐやさんに失礼です。せめて質問をすらすら読んで書けるくらいにはならないと。楽しそうにしているひとに水を差したくないのです。

「だいじょうぶです。がんばります」

「そうですか?」

「ひとりでできるようになるまでは勉強します。そのために学んでいるのですから」

 嘘ではありません。立派な理由でしょう。

 ぎゅっと握ったペンが妙に重い。でも、がんばります。ほんとうの最初よりはずいぶんできるようになってきたんですから、そのうち上達しますよ。かぐやさんの指導もありますし、教材も新しくなりましたから。

 深呼吸して取り掛かろうとした時、かぐやさんがぱたりと教材を閉じました。

「休憩も勉強の一環ですわ。少しリラックスするとしましょう」

「では、ぼくお茶淹れてきますね」

「あ……私もお手伝いします」

「お待ちくださいませ。勇者様はわたくしとお話しましょう?」

 カーディガンをつままれ、私は席を立つことができませんでした。

 お、お話……? ちゃんと覚えず質問にも答えず、真面目にやりなさいと言われるのでしょうか。そうですよね。せっかく教えてくれているのに、生徒にやる気がないんですから。ずっと穏やかな笑顔を浮かべていますが、内心は怒っているのでしょう。

 優しいひとが怒ると一番こわいと聞いたことがあります。

 ……いえ、怒らせるようなことをした私が悪いのです。しっかりお叱りを受けなくては。

「ずっと勉強で疲れましたでしょう。少しわたくしのお話を聞いてくださいますか?」

 あれ、お叱りではないのでしょうか。

 私はこくりと頷きました。

「むかーしむかし、あるところに、名前のない魔族がおりました」

 ……なんか始まった。

「その魔族は、特にやりたいこともないので世界を放浪しながら過ごしていました。そんなある日、通りかかった魔王城でつまらなさそーな顔でつまらなさそーに玉座に座っている魔王様をお見かけしたのです」

 おや、急展開。

「魔族も暇だったので、魔王城にお邪魔して謁見することにしたのだとか。その時、なんでもいいから話をするように言われ、魔族は放浪の旅の出来事をかなり盛ってお話しました」

 かなり盛ったんですね。

「すると、もっと話すように言われたので、魔族は記憶に残る出来事を片っ端から語ったそうです。そうして話しているうちに、話のストックが切れてしまったのです」

 どんだけ語ったんだ。

「仕方ないので、想像力を働かせてありもしない物語をでっち上げてお話したところ、そちらもお気に召したご様子でした。つまらなさそうだった魔王様が笑ってくださったのがうれしくて、物語を考えるのが楽しくて、魔族はいつしかのめり込むようになっていったそうです」

 かぐやさんはそこで言葉を区切りました。

 彼女の過去。魔王さんとの出会いの話ですね。

 息を吸ったかぐやさんは、「けれど」とさみしそうな声をしました。

「次第に、何もないところから物語を考えるのが難しくなり、それに応じて辛くなっていきましたわ。静かな方が頭も働くと思って月に引っ越しましたが、それもうまくいかず……。筆も進まず、魔王様に物語を話すこともできなくなり、わたくしは地上に戻って竹の中で悶々と考えていました」

 ……ん? 竹の中?

「その時、ピンポイントでわたしくの入っている竹を切るおじい様に出会ったのです。最初は驚きましたわ。なぜ場所がわかったのかと」

 たしか、光っていたからでしたよね。

「縮こまってネタを書こうと電気を点けっぱなしにしていたようでしたわぁ。うふふふ」

 電気の光なんかい、あれ。

「人間に見つかってどうしようかと思っていたわたくしは、優しい目をしたおじい様についていくことにしたのです。なにか、すてきな物語の気配を感じて……」

 かぐやさんは優しそうな目をしました。そして、どこか遠くを見ている気がしました。

「おじい様とおばあ様は、わたくしを実の子のように愛してくださいました。魔族だとは言えませんでした。魔族と人間は敵同士。奇跡のような関係を壊したくなかったのです。二人はわたくしの赤い目を見ても魔族だとは言いませんでした。もしかしたら、わかっていて言わなかったのかもしれません。それでも構いません。彼らから注がれる愛情はいつも温かったのだから。わたくしは魔族として生きてきて、人間を殺したこともあります。けれど、ここにきて人間の愛を知り、共存を知った。ずっと一緒にいたかったですが、魔族と人間は寿命が異なります。また、人間たちに有名になったことで魔族だと気づかれる可能性も出てきました。おじい様とおばあ様にご迷惑はかけたくない。わたくしは二人から離れる決心をしたのです。二人からいただいた愛、それを我が名として胸に抱いて」

 私の頭にはひとつの物語が浮かんでいました。

 彼女の話はあの物語に似ている。いえ、そのもの……。

「それが、『かぐや姫』だったのですね」

「はい。おじい様とおばあ様がわたくしにくださった名でございます。あの時より、わたくしは無名の魔族ではなく、人間を愛するかぐや姫となりました。そして、別れを告げて月へと旅立った。『かぐや姫』の物語の結末です」

 鞄の中に入っている一冊の本。彼女が魔王さんに語ったというかぐや姫の物語。

「けれど、わたくしの物語は終わりません。月に帰ったあと、わたくしは深い深い虚無を抱えました。愛する人たちと別れた悲しみ、痛み、さみしさ……。すでに高齢だった彼らはあっという間に消えていくでしょう。思い出はわたくしの中に残るだけ。それも、いつか薄れてしまう。愛にあふれた美しい日々が無くなっていく。とても耐えられませんでしたわ」

 かぐやさんはペンを取り、てのひらに置きました。

「だから、書くことにしたのです。記憶し、記録し、形に残す。わたくしがこれからも生きていくために、思い出を忘れないために。読み返して悲しむのは嫌でしたわ。わたくしが泣いたらおじい様とおばあ様が悲しんでしまう。そうならないように、読んで楽しめるものを、と思ったのです。事実も空想も交えて記録の世界をひとつの物語にしようと、わたくしは筆を執りました」

 とん、と置かれたのはきれいな装丁の本でした。知っている題名が書かれています。

「この瞬間も消えていく数多の物語。それを記録して形に残したい。それが、きっと誰かの支えになると信じているのです。わたくしが創作によって自己を得て、おじい様とおばあ様との時間によって愛を知り、今を生きているように。残されたものにとって、過去は生きる力をくれるものなのです」

 愛おしそうに本を撫でる彼女は、かつての記憶を思い出しているようでした。

「辛い時、悲しい時、さみしい時、うれしい時、なんでもない時、いつでも本を開けばおじい様とおばあ様に会えるのです。わたくしの書く物語はフィクションです。けれど、この中で生きているひとたちはたしかにいる。物語は、決して消えない愛なのですわ」

 かぐやさんは私を見て微笑みました。

「以上が、わたくしが文字を書き続ける理由。創作し、物語を紡ぎ続ける理由でございます。長らくお話を聞いてくださり、感謝申し上げますわ。うふふふ、いけませんわねぇ。勇者様が聞き上手だから、ついたくさんしゃべってしまいました」

「いえ、お話ありがとうございました。とてもよかったです」

 ほんとうに、とてもすてきな話だと思いました。彼女の言葉を聞けてよかった。

 だから、私は決めました。

「私、読み書きの勉強は辞めます」

「あらぁ、どうしてですか?」

「なぜ学んでいるかもわからない曖昧な私が勉強しては、あなたのような立派な理由を持っているひとに失礼です。教えていただく資格もない。もったいないです」

 もうやめよう。勉強なんてするんじゃなかった。

 彼女の高尚な目的を聞いて恥ずかしくなりました。

 同じ色をしているのに、こんなにも秘めている輝きが違う。真っ直ぐ見ていられなくて視線を逸らす私に、かぐやさんはずっと変わらない温かさをしたまま問いました。

「もう一度、同じ質問をしてもよろしいでしょうか。勇者様、なぜあなたは字を学んでいらっしゃるのですか?」

「それは……。私、は……、なぜって、理由……」

 彼女の話を聞いたあとでは、テキトーな理由を言おうとすることすらおこがましい。

 なんとなく? そんな漠然としたこと言えない。

 本を読みたくて? 読みたい本なんてないじゃないですか。

 字を書きたくて? 私の書く言葉になんの意味があるのでしょう。

 だめだ。なにも言えない。嘘をつくくらいなら、いっそ言わない方がいいです。

「……ごめんなさい」

「謝ることはありません。何も悪いことをしていないのですから」

「でも……」

「勇者様は、記録に残ることが苦手だとおっしゃいましたね」

「……はい。私は勇者ですが、立派な勇者ではありません。役に立つならと取材を引き受けましたが、勇者の物語を書きたいのなら、私じゃなくて次の人を見た方がいいです。きっと、すてきな物語になるはずですから」

「あなたの物語が消えてしまっても?」

「もとより、私は跡形もなく消えたいと思っている人です。何かを残してもらえるような人でもありません。私みたいな存在は残さない方が世のためになりますから」

 歴代の勇者さんたちに怒られそうな人生を送っていますからね。汚点ですよ、私は。

「勇者様がご自分の物語を嫌っても、あなたの物語を好きだと言ってくれるひとは必ずおりますわ」

「そんなひといな――」

 いない、と言おうとして、ルームウェアのポケットから顔を出す黒猫のストラップに気づきました。真っ赤な色をしたふたつの目がこちらを見ています。相変わらず趣味の悪い色です。誰も買わないでしょう。でも、あのひとは買った。とてもうれしそうに見せてきた。

「人間は儚いものです。わたくしたち魔族にとってあなた方の命は一閃。あっという間に消えてしまう。愛してしまえば、刹那の日々と引き換えに抗い難い悲しみに満たされるでしょう。けれど、わかっていても愛してしまう。だって仕方ありませんわ。もらった愛も、抱いた感情も、願ってしまった未来も、諦めた世界も……、そして、わたくしをわたくしとしてくれる過去も。すべて本物であり愛しいものなのですから。……ねえ、勇者様。あなたのそばにもいらっしゃるのではなくて? 愚かしくも人間を愛し、消える命を見届け続ける、そんなひとが」

 思わずポケットから取り出してしまっていたストラップを、ぎゅっと握りました。

 不吉な色。不幸の色。それなのに、あのひとが持っているからきれいに見えた。

 いつもいつも、恥ずかしげもなく「大好き」とか「きみが一番大切」とか、愚直に伝えてくるんですよ。私から良い反応をもらえなくたって、それすらうれしいことのように笑っている。私の行動も言葉もなにもかも、あのひとの目にはうつくしく映っているのかと思ってしまうくらい、差し出してくれるものがあたたかい。

 ちょっとしたことで笑ったり喜んだり、ころころと表情を変えるあのひとは楽しそうです。冷たくあしらうこともありますが、悲しませたいわけではありません。できれば、泣いている姿は見たくありません。それが誰であろうとも。

 たとえばもし、あのひとが心の底から泣いていたら……。

「…………それは、嫌……ですね」

 でも、いつかその日はくるでしょう。私たちの旅は明確な終わりを持って始まったものです。私のために泣いてくれると思っているなんてちょっと傲慢かもしれませんが、いつものあのひとを見ているとそう思わずにはいられません。

 人間である私には想像もつかないような長い時を過ごし、この旅が終わったあとも続いていくあのひとの人生。

 好きと言えば好きと返してくれるような、すてきなひとが現れることを願っていますが、いつになるかはわかりません。

 かぐやさんが見てきた空っぽの時間を過ごすのかもしれません。さみしいからとくっつき、やめろと殴られることもなくなるのかもしれません。いえ、くっつける相手もいないかもしれません。

 あのひとが冷たい場所でうずくまる。そんな未来でも、物語は癒すことができるのでしょうか。手を引いて支えてくれるのでしょうか。

 何も知らない私には、とても思えないことです。

 でも、祈ることくらいはできます。私のほんの一言、ぎこちない笑顔でもとっても喜んでくれるあのひとなら、拙い言葉でも見てくれるかもしれないから。

 勇者としてのやる気も責任も放り出し、怠惰を盾に立ち止まってばかりの私の隣にいてくれるあのひとの、小さな支えになれるのなら。

 立派とはいえなくても理由になる。

『私』が残ることは嫌です。ぜんぶ消えてほしい。でも、あのひとが悲しみ続けるのも嫌だから――。

 私は、どうしていいかわからなかったペンを握りしめ、かぐやさんを見つめました。

「もう一度、私に字を教えてください。……次は、がんばりますから」

「はい、喜んで承りますわ。それでは、先ほどの続きから参りましょう」

 乱雑に見えていた内容が、なぜかすっきりとしている気がしました。頭に入らなかった言葉の意味がどんどん入っていく。そうなると、少しずつ楽しくなるものでして。

 もうペンは震えませんでした。

 全然進まなかったページが風に吹かれたようにめくれていき、あっという間にひとつの教材が終わっていく。

 そんなことを繰り返し、気がつくと窓の外は真っ暗でした。

「はい、今日はここまでにしましょう。お疲れ様でしたわぁ」

 かぐやさんが終了を告げ、やっと時間の経過に適応しました。

「ありがとうございました」

「また明日も勉強しましょう。この調子なら、すぐに読み書きマスター勇者様になれますわぁ」

 読み書きマスター勇者とは。

 使った教材を片づけ、部屋をあとにしようと思った時、ふと思い出したことがありました。

「あれ、魔王さんどうしたっけ」

「……ここですよぉ」

 低い声がする方を見ると、扉の隙間から覗いている魔王さんがいました。

「なにしてるんですか」

「なにって、いつの間にか仲良くなってめちゃくちゃ字のお勉強をしているので、ちょっと入りづらくなって待っていたんですよう。ところで、お茶飲みます? すっかり冷めちゃいましたけど」

 あ、忘れてた。本気で。


 〇


 翌日からしばらく、私はかぐやさんによる個別指導を受けました。今までのことが不思議に思うくらいスムーズに勉強は進み、こなした教材が積み上がっていきます。

 何度か行った確認のためのテストも満点でした。えへん。

 見ただけで読むことを諦めていたような本もすんなり読めるようになり、その上達の速さにかぐやさんは褒めに褒め、魔王さんは「さすが勇者さん! 天才!」と横でやかましい。

 書く方も順調でした。かぐやさんが話す内容を文章に起こし、文中の少々難しい言葉の意味を私が説明する。魔王さんが「そんなの日常会話で使いませんよう……」と愚痴をこぼす横で、私は覚えたばかりの言葉をすらすらと書き連ねていきました。

「勇者様、のみ込みが早いですわぁ」

「かぐやさんの教え方がお上手なんですよ。私の力じゃありません」

「学びは意欲があってこそ。ですが、わたくしの日々の生活も少しは役に立っているようで何よりですわぁ」

 日々の生活というと、作家業でしょうか。そう思っていると、魔王さんが「こないだ始めたと言っていたあれですか?」と訊きました。あれ、とは。

「はい。おかげさまで生徒様も着々と増えております」

「生徒?」

「わたくしが教鞭を執るオンライン古典授業ですわぁ。今時はパソコンさえあれば地上に来なくても月から配信できるので大助かりしています。うふふふ」

「おん……? ぱそ……なに?」

 なんの言葉ですか? 習っていません、それ。

「そういうシステムがあるんですよ。文明レベルがそこそこのところで普及しているものですね。パソコンという機械で複数の人間と通信し、電波を使って映像や音声をリアルタイムで配信できるんです」

「……へえ、なるほど。……よくわからない」

 私にはまだ早い世界の話ですね。聞かなかったことにしよう。

「その姿で教えているんですか? さすがにアバター使用か、画面オフですよね」

「いえ、このままですわぁ」

「魔族だって騒がれませんでした?」

「わたくしが作家だと公言しているので、徹夜で目が充血していると思ってくださったようです。作家でよかったですわぁ。うふふふふ~」

 よくわからない話ですが、徹夜で充血はやばいと思います。ていうか、それで済むんですね、赤目問題。誰もがそれで納得するくらい、作家業はおそろしいというのが常識なのでしょうか。

「大変なんですね、作家さんって」

「違いますよ、勇者さん。このひとは自分を追い込むことでゾーンに入るタイプなので、いわゆるドM――」

「いやですわぁ、魔王様、天才って言ってくださいます?」

「きみはどちらかというとコツコツ努力型ですよ……」

「あらあら、うふふふ~。ところで魔王様、その椅子では腰に悪いですわ。こちらへどうぞ」

「ぼくはお年寄りじゃありませんよ」

「ご安心くださいませ。わたくし、ご高齢の方への対応は心得ておりますゆえ」

「だから、お年寄りじゃない!」

 そんなこんなで、私たちは短い時間をともに過ごしました。

 ずっと宿で勉強していたわけではなく、途中から旅を再開して勇者業をこなし、彼女の勇者取材も継続します。

 すっかり傷が癒えたかぐやさんはメモ帳とペンとカメラを目まぐるしく使いこなして私を記録していきました。もはや芸術。

 私が魔物と対峙している時、間に滑り込んできて二度目の大剣をくらいかけた時はひやひやしました。魔王さんにめちゃくちゃ怒られていました。

「ぼくはきみのそういうところを心配していたんですよ! テンション上がって無茶なことをしでかすそういうとこ! 勇者さんに謝ってください」

「ごめんなさいですわぁ~……」

 どっきどきしている心臓に手を当て、私は引きつった笑みで「だいじょうぶです」と答えました。だいじょうぶじゃないです。

 見かねた魔王さんがお菓子をくれました。そんなにこどもじゃない……けどもらいます。

 かぐやさんは私への取材以外にも、時折人間たちの様子を眺めてペンを動かしていました。すすす……と寄って何かを訊いたり、書いたりを繰り返しています。

「人間を攫う雪だるまの噂、ご存じだったら教えていただけますか?」

 どんな質問ですか。人間を攫う雪だるまって、それなんの妖怪――。

「……ん? なんだろう、引っかかりますね」

 なんとなーく、どこかで聞いたことがあるような……。

「有力な情報は得られませんでしたわぁ」

 残念そうなかぐやさん。どうやら、地上に来たついでに物語のネタを探しているようでした。

「生徒様から聞いた噂、もっと詳しい話を知りたかったのですが、どうやら難しいようです」

「ぼくも聞いたことありませんね」

「乱れた真っ白な髪を垂らし、雪玉に覆われた体でこどもたちに近寄ってくるというのが現段階で最も有力な情報です。勇者様、ご存じないかしら?」

 うーん、もしかして、それ……。

 私はちらりと魔王さんを見ました。頭を捻って考えているご様子。気がついたのは私だけみたいですね。

「たぶん、おもしろい話にはならないと思うので、人攫い雪だるまのことは忘れた方がいいですよ」

「あらぁ、そうですか?」

 はやめに消滅した方がいいです。黒歴史ですからね。……魔王さんの。

 そんな風に、穏やかだったり(主にかぐやさんの行動により)危険だったりした数日間の三にん生活も終わりを迎える日が来ました。

 かぐやさんの勇者取材も無事終わったようです。

 例の質問表ものんびりと回答して彼女に渡しました。

 読むのも書くのもはやくなったので、時間がかかったのは回答を考える方でしたね。

 不思議な質問が多く、たまに何をしているのかわからなくなることがあったので。

 かぐやさんが用意した教材をすべて終え、テストもまた満点をもらった日。

 彼女は「月に帰ります」と告げました。

「此度は誠にありがとうございました。とてもとてもすてきな時間を過ごすことができましたわぁ。勇者の資料もばっちりですし、わたくしの教授スキルもぐんと向上いたしました。これも勇者様のおかげですわぁ~」

「お礼を言うのは私の方です。教えていただきありがとうございました」

「うふふふ、またいつでも呼んでくださいませ」

 かぐやさんは魔王さんに視線を移すと、柔らかな笑みを浮かべました。

「わたくしの物語が必要なくなることを祈っておりますわ」

「……ぼくもそう思いますよ」

 ふたりの間に私の知らない空気が流れているのを感じました。長寿ゆえ、思うことがあるのかもしれませんね。

「魔王様は蝉ですが、勇者様は蛍。どうか後悔のなさらぬよう」

 唐突にかぐやさんが言いました。言葉の意味がよくわかりません。

 魔王さんは蝉? みーみーうるさいってことですか?

「きみもそう思います?」

「はい。だからこそ、字は必要なのです。必ず力になってくれるでしょう」

「そうですね。ぼくからもお礼を言わせてください。ありがとうございました」

「とんでもございません。わたくしとしても、蛍の淡い光がこのまま消えると思うと惻隠の情を抱かずにはいられませんでした。わずかでもお力になれたのなら、わたくしの意味があったというものです」

「ええ、ほんとうに」

 ふたりの会話の意味はわかりませんでした。けれど、悪いものではないと思います。

「あ、そうですわ。これをお渡ししなくては!」

 かぐやさんは何枚重ねか結局わからなかった服の隙間から金貨を取り出して手渡してきました。

「……えっ、なんですか」

「取材させていただいたお礼ですわ。遠慮なくもらってくださいませ」

「だ、だめです。いただけません。むしろ私が払うべき――ハッ」

 そうですよ、現役古典指導者から何日も字を教えてもらったのです。指導料? 払わなくてはいけません。

 お金お金……。……ない。なんにもないです。……ちょっとどうなの、私。

「足りませんかしら? では、二枚で」

「ちちちちち違いますやめてくださいだいじょうぶですほんと」

 ぶんぶん首を振る私に、かぐやさんはすっと顔を寄せて「あなたが字を学ぶ理由に使ってくださいな」と小声で言いました。

「な、なんでそれを……!」

 改めてペンを握った時から考えていたことが見透かされていると思い、驚きのあまり話しかけられた方の耳を隠してしまいました。

「うふふふ~。すてきな理由ですわ。ということで、はいどうぞ」

 金貨が三枚になっていました。なぜ増やす。

「わたくし、おかげさまでかなり儲かっておりまして。月にいると使い道もないので貯まる一方なのです」

 魔王さんみたいなことを言いますね。

「さあさあ~」

 躊躇っている間に次々と金貨が増えていきます。なに? 手品師なの?

「せめて銅貨にしてください」

「どうか、銅貨にしてくださいということですか? あらぁ、勇者様ったらほんとうにおもしろいですわねぇ。うふふふ~」

 笑いながら金貨を増やすかぐやさん。誰かこのひと止めてくださいよ。

「ふう、楽しかったですわ。では、これを」

 ひとしきり笑ったかぐやさんは服の隙間から取り出したものを私のてのひらに乗せました。銀貨でした。……いや、だからさ?

「間を取って、ですわぁ。うふふふ、それでは~」

 私が返却しようとした気配を察知したかぐやさんは、そそくさと後ずさり指をぱちんと鳴らしました。

 途端、空から竹が降ってきて門を作ります。またこれか。

 ところが、登場時とは違い、門の中は光で満たされていません。

 紙や本が散乱した床、こたつ、かごに入ったお菓子、いたるところに貼られた付箋、脱ぎっぱなしの服……。

 なんだか、生活感あふれる部屋ですね。もしかしてかぐやさんの自室――。

「あぁぁぁれぇぇぇ~!」

 ぱたぱたと両手を振り、露わになった部屋を光で隠すかぐやさん。

 息切れと乱れた服を直し、数秒後。

「それでは、魔王様、勇者様、また会いましょう」

 淑やかな笑みで礼をしました。

 ……うん、見なかったことにしてあげましょう。銀貨もらっちゃったし。

「勇者様、どうかお元気で」

 別れ際の常套句かもしれませんが、かぐやさんの想いはわかりました。

 あの約束を結んで生きている私には、その願いにしかと頷くことはできません。

 だから、別れの言葉だけ口にしました。

「さようなら、かぐやさん」

「はい、さようなら」

 かぐやさんは何度見たかわからない笑顔を湛えて光の中に消えていきました。

 彼女の姿がなくなると、地面に刺さっていた竹は空に向かって飛んでいきました。

 ……え、そういう感じなの? 雰囲気って知ってます? まあ、いいですけど。

 私は空を見上げ、どういう感情になればいいか悩みました。悩んでもわからないので一秒後にやめました。

「久しぶりにふたりきりですね」

「数日ですよ。久しぶりってほどでもありません」

「いーえっ! 久しぶりです。ということで、よろしいですか?」

「なにがです」

 魔王さんは気味の悪い手の動きで「くっつかせてください!」と寄ってきました。殴りました。

「あうぅ~……。あれ、どこに行くんですか?」

「ちょっと買い物に」

「おっ、珍しいですねぇ。何を買うんですか?」

「ナイショです」

「えー、教えてくださいよう」

 私は今しがたいただいた銀貨を握りしめ、とある店に向かいました。

 見たくてたまらない魔王さんを店の前で待機させ、会計を済ますと買った物をすぐに鞄にしまいました。

「おかえりなさい、買えましたか?」

「はい」

「妖怪『黒フードちゃん』だと思われませんでした?」

「誰ですか、それ」

「だって、フードを深くかぶり過ぎて逆に怪しいんですもん」

「仕方ないでしょう。こうしないと買い物もできないんですから」

「それで、何を買ったんですか? ぼく、気になりすぎて、お店の前で謎のダンスを踊ってしまいましたよ」

「やめてください、通報されますよ」

「だいじょうぶです。見た目だけなら聖なるひとなので」

「風評被害待ったナシなのでやめてください」

 いつものようにあーだこーだ言いながら、私たちはふたり旅を続けます。

 そして、かぐやさんと別れたその日の夜。

 食事の時も入浴の時も、どこかそわそわしている自分がいました。魔王さんが私の鞄を勝手に漁ることはないと思いますが、奥底に押し込んだ物を思うと早々に湯船から立ち上がってしまいます。

 魔王さんに怒られるので髪を乾かしますが、別のことを考えているせいで同じところばかり乾かして結局怒られました。

 やがて、あとは眠るだけになった私は、いつもより速い気がする鼓動を聴きながら鞄をがさごそとひっくり返しました。

 今日の宿は寝室とリビングの二部屋あります。魔王さんにはリビングでのんびりしていてもらうように言いましたし、鶴の恩返しもびっくりするくらい入って来るなとくぎを刺しました。

 秒速で開けた私が言うのもなんですが、魔王さんなら入ってくる時には一言いうでしょう。

 ということで、いざ。

 机の上に置いたのは一冊の本と一本のペン。

 お店で買ったものです。

 落ち着かない心の私は昼間のことを思い出しました。

 書くための物をさがして入店した私。

 まだちゃんとやるかどうか確定してはいないので、テキトーなものでもいいと思いながら、どうせなら……と思っている自分もいました。

 銀貨のおかげで値段を気にする必要はありませんでした。とはいえ、種類が多すぎるとどうしていいかわからなくなるものでして。自分でノートや日記帳というものを買う経験が初めてなのです。何がいいとか、注目ポイントなんか知りません。

 何冊か手に取ってパラパラとめくり、裏返したり背表紙を見たり、手触りを確認したり。

「わからん……」

 品揃えの良さに申し訳なくも不満を抱いていた時、うつくしく陳列されたノートたちの隅に赤いものを見つけました。隠すように端に追いやられたそれは、カバーの色が魔族の目のように真っ赤でした。

 思わず笑ってしまったくらいです。これは売れないでしょうね。そもそも、なんでこの色で作ったんでしょうか。

 取ってつけたようなペンが一緒に置いてありました。どう見ても付属品ではありません。値札も別です。どうやら、赤い本が売れなさ過ぎてペンの力を借りようとしたのでしょう。かなり質の良いもののようです。ちらりと見た値段は絶対にペン一本に払いたくないものでしたが、横線を引かれて哀れな数字が書いてありました。セットでこの値段ならいいかもしれません。どうせ誰も買わないでしょうし、勇者として物を大切にしなくては。

 それに。

「…………ほんとに真っ赤ですね」

 呆れて顔を上げた時、店に置かれた鏡の中の私と目が合いました。

 なんで鏡があるんだか……。

 にこりともしていない顔にあるふたつの目。本の色とそっくりで不吉でしかありません。

 でも、あのひとはこれが好きなんですよね。ほんとうにおかしなひとです。

 鏡の中の私がわずかに微笑んでいるように見えました。

 ……ちょっと、なに笑ってんですか。

 机上の本を眺めていた私は、その時のことを思い出して自分にツッコミをいれました。

 ええい、そんなことはどうでもいいんです。

 さて、どうしましょうか。

 勉強に使ったノートというより、魔王さんが日記を書いている本に似ています。

 ページが多いですが、こんなに書くことあるでしょうか。

 まだ手に馴染んでいないペンをもてあそびながら、カバーとは違う真っ白なページを眺めます。

 私が書かなければ、この本はまっさらなまま。なんの物語も得ることなく、焚き火にくべられるかもしれません。それはちょっともったいないですね。

 いや、だめですよ、思い出してください。私が字を学んだ理由。この本を買った理由。いま机の前にいる理由。

 ……うん。だいじょうぶ。

 私はペン先を紙につけ、得たばかりの力で書いていきます。

 まさか、自分の言葉で、自分の字で、なにかを記録する日がくるとは思いませんでした。

 これもおかしなひとたちのせいですね。

 だけど私もそのひとり。

 真っ白なページが私の言葉で彩られていくのは少しだけうれしい。

 ただ赤い色をしているからという理由で誰にも買われることのなかった本が、やっと役割を果たせると喜んでいる気がしました。

 何度も練習した字で紡ぐ物語はこれまでのこととこれからのこと。

 最後のページまで旅が続いているかはわかりません。それでも、書いておきたいと思うことは意外と多いものです。案外すぐに書き終えてしまうかもしれません。

 私の中に思い出や言葉が渦巻いて残っていることに驚きました。どうやら、あのひととの旅はどうにも色濃いもののようです。少し昔の話も簡単に脳裏に浮かぶ。いつもくだらない会話をしているだけなのに。

 ひとつ会話を思い出すたびに、あっちでもこっちでも花を咲かせるようにあのひとの笑顔が出てくる。

 ……ちょっとだけ、魔王さんが日記を書く理由がわかったかもしれません。

 自分で書いたものを読み返しては楽しそうにしている魔王さん。私はこれを読み返そうとは思いませんけど、確認でページをめくることはあるでしょう。そんな時は、きっとあのひとと同じように過去を思い出すことになるのでしょう。

 私は止まる気配のないペンを動かし続けます。

 私のために書くのではなく、あのひとのための記録。

 だから、日記ではありません。

 これは、勇者っぽくない私が書く魔王っぽくない魔王さんに贈る備忘録。

 いつの日か、あのひとの隣から私がいなくなったあと、少しでも彼女を支えてくれるようにと祈りを込めて私は言葉を紡ぎ続けました。


 〇


 それから数日後、備忘録に追加される出来事がありました。

 宿に泊まってくつろいでいた時のことです。

「勇者さん、お届け物ですよ」

 魔王さんが小さな包みを持ってきました。

 差出人の名前はもうひとりで読めます。

《竹中かぐや》

 かぐやさんのペンネームですね。品名の欄には『新作!』と書いてあります。それだけで中身がわかってしまうのがちょっと悔しい。

 楽しそうな彼女を思い浮かべて開けてみると、一冊の本と手紙が入っていました。

 迷いましたが、先に手紙を読むことにします。

《ご無沙汰しております、勇者様》

 人間からみてもご無沙汰ってほどではありませんよ。

《このたび、わたくし渾身の作品が完成いたしましたこと、ここにご報告させていただきますわぁ。これもすべて、勇者様の御助力があってこそ。取り急ぎ、最大の功労者である勇者様に初版サイン本をお贈りいたしますわぁ! ぜひ読んでくださいませ~》

 ざっと、こんな感じの内容です。便箋の枚数はまだありますが、そう言われると本が気になります。

 ていうか、初版サイン本ってなんですか。なにかいいもの?

 同梱されていた本はきれいな装丁がされ、見ているだけでもすてきだと思いました。

 ええと、タイトルは……。

「『勇者っぽくない勇者様が紡ぐかつてない勇者の物語』……?」

 ほんとにこのひと、タイトルのセンスだけはどうにも……。まあ、いいか。

 ありがたく頂戴するとしましょう。

 読む……かはわかりませんけど。いつか、暇な時にでも。

 そう思っていましたが、装丁につられてなんとなくページをめくった私。その時、はらりと小さな紙が落ちました。

 あ、なんでしたっけ。栞? 本の間に挟むやつですよね。

 見ると、なにか文字が書いてありました。

《あなたの物語がすてきでありますように》

 かぐやさんの字でした。細くうつくしい流麗な字。彼女の書く姿はいつまででも見ていられるものでした。そんなひとが書いた物語。畏れ多くも私がモデルになったもの。

 あくまでフィクションです。だから、この本の中の私と現実の私は違う人。そんなことはわかっていますが……。

 栞を机に置き、ぺらりとページをめくります。

 どんな物語が広がっているのか知りたくなりました。

 あのひとの目に私はどう映ったのでしょう。どんな世界を創ってくれたのでしょう。

 綴られた言葉たちがするする入ってくるから止められない。

 読めるってすてきなことなのかもしれませんね。

 ぺらぺら、ぺらぺら、ぺらぺら……。

「…………うぐぅ」

 ぱたりと本を置き、机に突っ伏した私は何とも言えない声をあげました。

 一気読みしてしまった……。

 ぐぬぬ……おもしろかった。なんか悔しい。テキトーなタイトルのくせに……。

 ただ言葉を連ねているだけなのに、たしかにここには広い世界がありました。まるで生きているように感じる。不思議な感覚でした。

 この物語の主人公である勇者さんに会いたくなったなら、本を開けばすぐ会える。彼女が言っていた意味がわかったような気がしました。

 彼らはここに生きているのだと思いました。

 私が実際にやったことが描かれているのに、なんだか私じゃないみたいでした。

 物語の私になっていた。すごいですね。おかげで変に緊張することなく読めました。

 ところどころ、「いや、言い過ぎでは⁉」と思う箇所もありましたが、読者を楽しませる物語としてはいいのかもしれません。

 ぱらりとめくったページ。勇者が火の中を駆け回って人間を助ける場面。

 いやぁ、たしかに似たようなことはしましたけど……。

「ここまで火の海ではない……。さすがに死ぬ……」

 勇者は人間業とは思えない身のこなしで危機を脱していました。すごすぎ。

 私、こんなことしていません。あのあと煙を吸って倒れましたし。

 これではちょっとばかりかっこよすぎです。フィクションです。あ、フィクションだった。

「勇者さーん、お茶がはいりましたよー。休憩にしませんか?」

 呼びに来た魔王さんは、机と同化した私を見て「……何事ですか?」と口をあんぐり開けました。

「体調が悪いわけでは……?」

「ないです。読書……をしていました」

「ほう。あ、もしかしてかぐやさんの本ですか?」

「はい。以前、私が取材をうけたものの作品ができたみたいです」

「おお! どうでしたどうでした?」

「……おもしろかったです。かなり」

「それはよかったです。これから読書も趣味になるとよいですねぇ。ぼくも語り合う相手ができるとうれしいですよ」

「さらにしゃべるんかい」

 魔王さんは去り際、何かに気づいたように反応しました。

「もう一冊あるようですが、それは?」

 机に置きっぱなしにしてあった備忘録です。まずい。しまい忘れて読んでいたみたいです。

「な、なんでもないです」

「きれいな赤い本ですねぇ。どんな内容のものなんですか?」

「おおおおおもしろくないので気にしないでください」

「勇者さんが焦っている……。ぴーん! なにかおもしろい予感がします!」

「うるせえんですよあっち行ってください見るな部屋に入ったら首吹っ飛ばしますよ」

「わぁん物騒」

 慌てて備忘録を隠したはずみでペンが落ち、魔王さんのところまで転がっていきました。

 ああああ備忘録用のペン……!

「これは……。すてきなペンですね。はい、勇者さん」

「ありがとうございます……」

「ぼくは、君の書く字も紡ぐ言葉もぜんぶ好きです。どうか、きみの思うがままに書いてくださいね」

 備忘録のことがバレている……? え、まさかそんな。細心の注意を払っているんですよ絶対にありえませんあったら困りますその時は燃やして灰にしてやる。

「ぼくに手紙を書いてくださっているのでしょう?」

「はい?」

「見たことないペンです。これ、あの時買ったものですよね。ペンを買う理由なんて字を書くために決まっています。つまり! ぼくへの手紙ですよ~」

 すごい自信。違うのに。

 ……いえ、このひとのために書いている備忘録だから、ある意味では手紙になるのでしょうか。そう思うと、途端に恥ずかしいというか、こそばゆいというか。

「ぼくはいつまででも待ちますからね! ゆっくり書いてくださいませ。えへへへ」

「仕方ないですね。呪いの手紙でも書きますよ」

「呪いと書いて愛と読むんですよね?」

「魔王さんこそ字を勉強した方がいいんじゃないですか」

「ひどい」

 私は呪いの本のような真っ赤な備忘録を思いながら、「愛の手紙ぃぃ~」と懇願する魔王さんの背を押して部屋を出ました。

 不吉な色の私の本。書き始めてまだ少しですが、ゆっくりと文章は綴られていく。

 いつかくるその日のために残していこう。

 書き続けていれば本の最後は必ず訪れます。

 けれど、めくった先はまっさらな未来。

 残念ながら、空白のページはまだまだ終わらないようです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る