刻限が訪れるまで

 それはまだ、彼が少年だった秋の話。


 夜半を過ぎても、窓から見える明かりが消える気配が無い。

 庭で剣の素振りをしていた十五歳のアルフレッドは、自分も夜更かしをしている事を棚に上げて、練習を切り上げると、マリオス邸の二階にある兄ランドールの部屋へ向かった。

「兄さん」

 扉をノックすれば、応えがあった。やはりまだ起きているのだ。

 女王騎士筆頭候補である三歳年上の兄は、城仕えの帰りが遅くなる事はあれど、就寝は早い人だ。この時間まで起きているというのは珍しい。訝しみながら扉を開ければ、執務机に就いて眉間に皺を寄せつつペンを走らせる兄の姿があった。

「どうしたんですか。こんな時間まで」

「大した事ではないよ」

 兄はこういう時、いつもそう言って苦笑する。大事だいじ小事しょうじであるかのように誤魔化して、流してしまう。自分の厄介事に身内を巻き込みたくないという、彼なりの気遣いなのだが、アルフレッドはそれをもどかしく感じる事が度々あった。

 横暴な父親が亡くなったのを機に引き取りはしたが、やはり庶子の出である腹違いの弟など、信用に値しないと思っているのだろうか。そんな裏表のある人ではない、というのは、アルフレッド自身が一番よくわかっているが、ならばもっと肉親を頼って欲しいと、忸怩たる思いに囚われる。

 無言で机に近づいて、兄の手元を覗き込む。そして。

「何ですか、これ!?」

 今の時間も忘れて、怒りを孕んだ声を張り上げた。幸いマリオス邸は広い庭に囲まれているので、隣家までの距離はあるし、厨房で片付けをしている使用人にも聞こえはしないだろう。

 だが、アルフレッドが息巻いたのは、こんな遅くまで起きていた兄に対してではない。彼が向き合っている書類の内容についてである。

 グランディア王国の軍事費用にまつわる、過去十年から現在までの変遷を軍の規模と共に計算し、来年度の予算を導き出せという、本来ならば軍務大臣と財務大臣が協力し合って文官に任せるようなものであった。

「これを明日までに提出しろ、とのお達しでな」

 苦笑しながらペンをくるくる回し、お気楽さを装ってみせるランドールを見て、アルフレッドの怒りは上り坂を駆け上がる。

 これは明らかな、兄に対する嫌がらせだ。

 ランドールはよわい十二にして女王ミスティの従騎士となり、幼馴染という付加価値も相まって、彼女の信頼を一身に受けている。女王騎士の叙任を受ける十八歳の誕生日を間近に控えているのも、女王たっての願いがあってこそだ。それを、古参の老人共が面白く思うはずが無い。無茶な題目と〆切で音を上げさせ、

『それみろ、子供は子供らしくしていれば良いものを』

 と笑いぐさにしようという意図は見え見えだ。それを止めない周りの文官達も、状況を面白がっているだろう。

「ミスティ様は、ご存知なのですか」

「まさか」

 弟の問いに、兄は肩をすくめて首を横に振った。

「あのお方の目の届かない場所でこういう事をするのは、亀の甲より役に立たない、お年寄り達の年の功だろう?」

 老境に差し掛かっているのに恥も無いのか。アルフレッドの憤怒は更に激しく渦を巻く。

 だが、ランドールは笑みすら浮かべて、平然と言い放つのだ。

「むしろ、私が幻鳥ガルーダに乗って槍を振るうしか能が無いと思っているお偉方を黙らせるには、絶好の機会だ」

 言われて書類に再び視線を下ろす。計算はあらかた終わっていて、後は結論をまとめるだけになっているのが、素人のぱっと見でもわかった。

「……すごいですね」

 思わず素直な感想が口から零れ落ちる。兄は満足げに唇を持ち上げ、ペン軸で自分の頭を小突いてみせた。

「私が槍の次に得意なのが数学と歴史だと知らなかった時点で、彼らの負けは確定していたよ」

 後は明日、兄が彼らに書類を提出すれば、嫌でも報告は女王に上がる。彼女は家臣達の前では己の真の感情こそ見せないだろうが、必ず大臣二人を叱責するだろう。老人達の評価は下がり、ランドールの評判は更に良くなる。小僧を貶める為に仕掛けた罠が、逆に自分達の足を大いに引っ張る未来が確定している。彼らはそれを明日の朝まで知らずに、すやすや眠っているのだ。

 憤慨は去り、小気味良さすら訪れる中、アルフレッドが常日頃抱いている想いは、また輝きを増す。

「兄さん」

 兄と向かい合う形で執務机に両手をつき、身を乗り出す。

「兄さんは立派な女王騎士になって、奴らを見返してください。兄さんが手を出せない範囲で舌を出す連中は、僕が剣士として」

 曇り無き兄の青とは違う、褐色の瞳にぎらりとした光を宿して、アルフレッドは真顔で言い切った。

「片付けます」

 兄は順当に行けば、必ず騎士団長となり、女王の婿となるだろう。それまでに、邪魔者を排しておかねばならない。

 戦う力を放棄して、語り合いで争いを消そうとする『優女王』ミスティの隣に立つのは、汚い血を浴びていない、清廉な者であるべきだ。実直な兄を、愚かな連中の血で汚したくない。それは、かつて路地裏で泥に塗れて石を投げられ、底辺を見た自分だけで充分だ。

 敬愛する二人が結婚するだろう、自分に課された刻限まで、あと数年。それまでにグランディアという国の膿を出し切っておかねばならない。その為には、過激な手法を採る必要もある。

「……私は、お前にばかり負担をかけたくないよ」

 嘘偽りの無い兄の言葉に、胸が痛くなる。化かし合いの政治の只中に飛び込むには、あまりにも生真面目すぎるこの人と、密かに想いを寄せるあの女性ひとの心が、曇らないように。

 常に後ろめたい灰色に染まった心を持つ自分だけが、黒く染まってゆけば良い。

 それが、アルフレッドが抱いた固い決意であった。


 それは、王国が滅亡し、アルフレッドが最大の拠り所を失う、六年前の夜の話。

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アルファズル戦記 第一部 番外編 たつみ暁 @tatsumi

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