アルフォンス将軍の事件簿――男爵令嬢殺害事件――
カレドニア王都ノーデ城内の地下牢の廊下を、固い靴音が叩く。
水漏れすらする冷たい廊下を行くは、紺色の騎士服をまとった少年だった。手にした燭台の灯りに照らされるは金色の髪。瞳のロイヤルブルーは暗がりの中でも輝きを失う事が無い。
年の頃は十五、六だろうか。その顔に帯びる大人っぽさは、それなりの身長がある事も伴って、彼を二十歳すら超えた青年のように見せている。だが同時に包括する、どこか危うい幼さが、決して彼の人生が長くは過ぎていない事を如実に示していた。
少年はひとつの牢の前で止まる。
「ラヴェル」
優しそうな見た目に反した少し低めの声で牢内に呼びかけると、鉄板一枚の寝台の上にうずくまっていた影がもぞりと動く。そして、ぽかっと一対の目が、少年に向けられた。
「隊長」
のそりと起き上がり、鉄格子の方に近づいてくるのは、少年より十近くは年上と思われる青年。少年と同じ紺色をまとっている事から、身分は知れる。
「申し訳ございません、俺のせいでご迷惑を」
「君が僕に迷惑をかけたとは思っていないよ」
騎士が捕らえられてから、少年の面会手続きが受理される、ここまでに三日。その間この地下に拘留された青年は、すっかり憔悴しきった目を潤ませ、心労からかたかた震える指を鉄格子に絡ませる。少年騎士は、相手を安心させるように少しだけ口元を緩めて、首を横に振ってみせた。
「アルフォンス隊長」
青年騎士は、少年にとりすがるように、鉄格子に顔を押し付ける。
「俺はメアリを殺していません。信じてください。本当なんです」
恐らく尋問で何度も繰り返し、その度に検察官に否定され、罵られ、殴打も浴びたのだろう。いつもの明るい笑顔は消え失せ、瞳は絶望に曇り、両の頬も腫れている。
「ああ、信じているよ」
アルフォンス隊長、と呼ばれた少年は、わかっているとばかりに深く首肯した。
「その為に、君の覚えている限りで構わない。話を聞かせてくれないか」
ラヴェル・フライハイトは、アルフォンス・リードリンガー率いるカレドニア王国軍主力の一角、『
品行方正とまでは言いがたいが、明朗で真面目な性格をしており、屈託無い笑顔で味方を鼓舞する事に長けた男だ。なおかつ、騎士として国に捧げる忠誠心は、隊長であるアルフォンスすら凌駕する。
戦闘となれば魔獣グリフォンを駆り、隊の先鋒として飛び出し、一番槍を挙げた数は恐らく『銀鳥隊』が結成されてより一年半の中でも最多であろう。
その彼が、ある日突然捕縛された。
罪状は、婚約者の殺害。
カレドニア文官のエインズ男爵の娘であり、ラヴェルの
父親である男爵が娘達に気を利かせて、人払いをしていた事が裏目に出、現場の目撃者は皆無。当然、ラヴェルがその場で逮捕された。
彼は犯人ではない。アルフォンスにはその確信があった。しかし、手元には一切証拠が無い。ラヴェル自身から手がかりになる情報を聞き出す為、三日間待っていたのだ。
そして、彼から『手がかりになる情報』を無事回収したアルフォンスは、一旦自宅に戻ると、少年には不似合いなバスケットを手に、エインズ男爵の邸宅へ向かった。
「『銀鳥隊』隊長自らおいでになるとは……」
青天の霹靂のごとく愛娘を失った男爵は、すっかり意気消沈して、肩を落としながらアルフォンスを招き入れた。いつも会議の場では大音声の理論で相手をねじ伏せていたのが嘘のよう。まるで勇敢な
「この度は、我が隊員が多大なるご迷惑をおかけした事、ご心痛お察しし、申し訳なく存じます」
アルフォンスは右手を左胸に当てて深々と低頭し、謝罪を述べる。
「リードリンガー将軍が詫びられる筋合いはございません。全てはあの男のせい」
男爵は怒りを押し殺した表情で歯噛みし、ぐっと拳を握り込む。しかし、流石は数十年、舌戦に勝ち続けた男。すぐに平静を取り戻すと、
「とりあえず、中へ。お茶をご用意いたしましょう」
とアルフォンスを促す。だが、少年騎士は掌を向ける事でそれをやんわりと断る意志を示し、「ところで」と男爵に問いかけた。
「マデリーンお嬢様は、いかがしておられますか」
いま一人の娘の名前を出され、男爵は虚を衝かれたように目をみはる。
「妹が死んだ事に、相当衝撃を受けているのでしょう。部屋にこもりがちになっておりますが……」
「あら、わたくしなら大丈夫よ、お父様」
エインズ男爵が口ごもっていると、ホールの階段上から、やけにはずんだ声が降ってきた。アルフォンスは男爵の肩越しに踊り場を見上げる。
「まあ! リードリンガー伯のご子息様ではありませんの」
ラベンダー色のドレスをまとい、
「伯爵の位は、父一代の栄誉。父亡き今、自分は一騎士に過ぎません」
「またまた、そんなご謙遜をおっしゃって」
アルフォンスが真顔で言い切ると、マデリーンは鳥の羽で作った扇を口元に当て、ほほ、と笑った。
「それで」
切れ長の瞳が細められ、媚を売るような流し目がアルフォンスに向く。
「わたくしの事を心配してくださるとは、『銀鳥隊』隊長様は、部下の不逞を恥じて、お慰めにきてくださったのかしら?」
「そう思っていただいて構いません」
少年騎士の言葉に、令嬢の瞳があからさまに喜びの光を帯びた。身内が死んでいるのに、まったく、父親とは正反対の心情を見せつけてくれる女性だ。
「では、テラスへご案内いたしますわ。
マデリーンはうきうきと軽い足取りで上階へ向かう。アルフォンスは「お邪魔いたします」と男爵に頭を下げると、彼女に案内されるままテラスへと出た。
凄惨な殺人事件の現場になったテラスは、その時床に描かれた血の跡も茶の染みも丹念に拭き取られ、死の気配は消し去られている。庭に植えた木が手すりの傍まで枝葉を伸ばして、小鳥が飛んできたら、手を伸ばして触れられそうだ。
「今、お茶と茶菓子を用意させますわ。そちらへ座ってお待ちになって」
「いえ」
浮ついた様を隠しきれないマデリーンに、アルフォンスはゆるゆると首を横に振って。
「お嬢様が喜ばれそうなものを、持参いたしましたので、共に食しましょう」
左手に提げていたバスケットを開き、中に入っていたものをテーブルの上に展開する。
途端。
それまで興に乗っていた令嬢の表情が、一瞬にして、大陸北端にあるという魔族の住処(すみか)ニヴルヘルへ飛ばされたかのように凍りついた。
「どうされたのですか?」
アルフォンスは逆に唇の端に笑みを浮かべたまま、カップに茶を注ぎ、菓子皿に菓子を盛る。
カレドニアの誰もが口にする根菜茶。かろうじて育つブルーベリーを練り込んだマフィン。一見、何の変哲も無い、ノーデの昼下がりの茶会風景だ。
だが、マデリーンは間近で魔物でも見たかのごとく、恐怖に満ちた目を見開き、ぷるぷると肩を震わせる。口元を扇で隠す事も忘れているようだ。
「どうぞ、遠慮無く召し上がってください」
棒立ちになっている男爵令嬢に柔らかい声を投げかけながら椅子に座り、組んだ手の上に顎を乗せて、「ああ」とアルフォンスはロイヤルブルーの瞳を細め、言い切った。
「貴女のお口には合いませんか。妹君を殺害したのと同じ茶と菓子は」
メアリ・エインズは、根菜茶とブルーベリーのマフィンを口にした直後に倒れ、亡くなった。
それは、姉のマデリーンが甲斐甲斐しくそれぞれのカップに茶を注ぎ、手ずから作ったマフィンを皿に配って、テラスから下がり、許婚の二人以外誰もいなくなった後に起きた。
それが、ラヴェルから聞いた話だ。
「我が部下は、貴女が淹れた茶は口にせず、先にマフィンに手をつけたそうです」
彫像のように立ち尽くすマデリーン嬢をまっすぐに見すえ、アルフォンスは話を続ける。
「根菜茶は同じ茶器から注がねばならないから、致し方ない。だけど、ブルーベリーとカルワリアの実を使い分けたマフィンをそれぞれに配る事は、貴女には可能でしたね」
カルワリアは、カレドニアの貧困な土壌でも逞しく育つ植物である。一般的な茶に使われる根菜と同じにおいを放つ根を張り、ブルーベリーと一見見分けのつかない実をつける。だが、非常に強い毒性を持っている為、『
「きっと、婚約者との話に夢中だった妹君は、貴女が仕込んだカルワリアに、気づきもしなかったのでしょう」
顔が血の気を失って白くなり、紅を塗ったのがやたら目立つ唇をわななかせるマデリーンに向け、
「私の推理は間違っていますか?」
アルフォンスはあくまで穏やかな表情を向け、小首を傾げてみせる。
しばらくの間、さやさやと吹き抜ける風が木々を揺らす以外、一切の音が無くなったが。
「……ふ、ふふ」
面を伏せた令嬢の口から、いやに低い笑い声が洩れたかと思うと、彼女は突然哄笑を弾けさせた。
「成程! 最年少の将軍様は名探偵でいらっしゃる事!」
びっと扇でアルフォンスを指し示し、マデリーンは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「だけど貴方、肝心な事を忘れていなくて? 全ては貴方の想像に過ぎないでしょう? わたくしが愛しい妹に毒を盛ったなどという証拠が無くては、貴方はわたくしを侮辱した罪で、ラヴェルと共に裁判行きでしてよ?」
「証拠なら出せますよ」
それでも、アルフォンスは臆しもせずに己の言い分を淡々と連ねてゆく。
「当日の厨房担当に、誰が材料を持ち込んだか訊けば良い。それに」
ロイヤルブルーの瞳が、ぎらりと光った。
「これはカレドニア軍属の者しか知らない事ですが、カルワリアで中毒死した人間は、心臓近く一帯の骨に著しい変色が起きます。『愛しい』妹君のご遺体を暴くのは、姉君には心苦しいでしょうが、私が国王陛下より解剖の勅命をいただけば、貴女ごときに拒否権はありません」
マデリーンの顔から、完全に余裕が消えた。アルフォンスはまっすぐに彼女を見つめたまま、相手の反応を待つ。
やがて。
「……わたくしが」
令嬢はだらりと両腕を下げ、ここにいない者を想うかのように宙を仰いだ。
「わたくしが、先にラヴェルを好きになったのよ。なのに彼は、あの子を」
ぎり、と歯軋りして、呪詛は続く。
「メアリがわたくしから彼を
あまりにも自己中心的な放言を撒き散らし、マデリーンは扇を床に叩きつける。そして彼女は再びにいっと笑みを浮かべると、「きゃああああああ!!」と、絹を引き裂くような悲鳴をあげた。
「誰か! 誰か来てえええええ! 不埒者よおおおおお!!」
アルフォンスが自分に手を出そうとしたと、でっちあげるつもりだろう。だが、少年騎士は微塵も怯まず、椅子から立ち上がる事も無い。反撃に出るまでも無いのだ。
こちらの余裕に苛立ったのだろうか。マデリーンが唇を歪めてもう一度叫びを放とうとした時。
そこかしこの木々が、風に揺られるのではない音を立て、次々と人影が飛び出した。紺色のカレドニア騎士服をまとった男女だ。誰もが、アルフォンスのよく知る、『銀鳥隊』の顔ぶれである。
「マデリーン……」
更に、エインズ男爵の絶望に満ちた声が場に落ちる。
「お前は……お前は、本当に、メアリを」
アルフォンスの部下に伴われ、男爵はふらふらとテラスに現れると、
「何と……何という罪深い事を!」
実の娘に、心底からの怒りに満ちた声をぶつけた。
これだけ聞き届けた証言者がいれば、最早言い逃れはできないだろう。隊長の視線で指示を受け取った騎士が、男爵令嬢を捕らえようと歩み寄ってゆく。だが、それより早く彼女はがばりとテーブルに取りつくと、カップに注がれたカルワリア茶を一気にあおぎ、そのまま仰向けに倒れた。
「マ、マデリーン!」
エインズ男爵の悲鳴じみた声が響き渡る。罪人とはいえ、二人続けて娘を失う恐怖が、彼を駆り立てたのだろう。
ところが。
「大丈夫ですよ」
アルフォンスはおもむろに組んだ手を解くと、自らも茶に口をつける。ゆっくりと、舌の上で転がすように味わって飲み干し、ようやっと立ち上がり、仰向けの令嬢のもとへ歩み寄った。
「罪は、貴女の人生を懸けて償うべきだ」
氷点下に冷え込んだ視線が注がれる先で、マデリーンは、ぱちくりと瞬きをする。その両目から、ぶわりと涙が溢れ出し。
「ラヴェル、ラヴェル、わたくしは……!」
一方的に惚れた男の名を呼びながら、彼女は両手で顔を覆い、激しく嗚咽するのであった。
メアリ・エインズ殺害事件の真犯人は捕まり、ラヴェル・フライハイトは牢獄から解放された。こちらも隊の中核を担う者をそう簡単に失う訳にはいかなかったとはいえ、エインズ男爵には、跡継ぎの可能性を完全に断つという、申し訳ない事をした。
「お帰りなさいませ」
後味の悪さを抱えながら自宅に帰ると、信頼を置く従者が深い礼で出迎える。
「首尾はいかがでして?」
「ああ、上手くいったよ。上手すぎるほどにね」
彼にバスケットを預けながら、アルフォンスは苦々しい表情で零す。
「まあ、お前の淹れる茶は美味しかった」
「マフィンも自信作だったのですけれど?」
「そこまで味わう余裕は無かったよ」
アルフォンスの持ち込んだ茶とマフィンに、最初からカルワリアなど入っていなかった。ラヴェルの話を聞いてから探しにゆく時間は無かったし、ましてや、万が一にも自分まで戦場以外で殺人者になるわけにはいかなかった。
自分には、置いてはゆけない存在がいるのだから。
「ファティマは?」
「この時間なら、まだ奥様の温室ですわ」
従者の返答が終わらない内に、アルフォンスは言われた場所へ足を向けた。
八つの歳に亡くなった母が愛した、カレドニアの貧しい土壌でも逞しく育つ花が咲き誇る温室へ踏み込む。と、足音で気づいたのか、薄い色の多い花の間で、同じくらい薄い緑の髪が揺れ、ゆるりと身を起こしてこちらを向いた。
「……アルフォンス兄様」
「ただいま、ファティマ」
菫色の瞳を瞬かせて、線の細い少女が、やんわりと唇で弧を描く。男爵令嬢には見せなかった優しい笑みを返して、アルフォンスは歩み寄ってゆく。そうして、壊れ物を扱うかのように、そっと少女の肩を両の
「わたしの力は、兄様のお役に立ちましたか?」
「ああ、勿論だよ。ありがとう」
大事な大事な妹の髪からは、花よりも良い香りがする。その香りを胸一杯に吸い込みながら、アルフォンスは妹の『力』を想う。
母親より引き継いだ血の為に、望むと望まざるに関わらず、誰かの未来を『視る』事ができてしまう妹。
今回ファティマが『視た』未来。それは、「メアリ・エインズがラヴェル・フライハイトとの茶会中に突然死する」光景であった。ただその場面だけが『視えた』為に、遠回りをする羽目にはなったが、結果としては、アルフォンスの『銀鳥隊』に欠員を出す事無く事件を終息させたのだ。
ファティマの力を、はじめは誰もが「子供の
妹を守る為、アルフォンスは彼女の代わりに石をこめかみに受けた。自分より体格の大きい相手と取っ組み合いの喧嘩をして、『いずれは騎士になる男が』と父に嘆かれもした。
それでも。
妹はこの手で守らねばならない。両親亡き今、彼女を守れるのは、兄である自分一人なのだ。
「兄様」
ファティマがおずおずと両腕を伸ばし、こちらの背に回して、胸に顔をうずめる。
「兄様は、わたしの傍からいなくならないでくださいね」
「……ああ」
深くうなずき、もう一度心地良い香りを吸い込んで、妹を抱き締める腕に力を込める。
「絶対に、君一人を置いてゆきはしないよ」
兄の誓いに応えるように、背に回された腕の力が、少しだけ強くなった気がした。
アルフォンスはまだ知らない。
これから自分達兄妹に訪れる試練の日々を。
それは、ファティマにもいまだ『視えない』ものであるのだから。
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