アルファズル戦記 第一部 番外編

たつみ暁

たとえばそこにいるだけで

 聖王暦二九八年。十六年の長きに渡ってシャングリア大陸を支配していた、グランディア帝国の恐怖の絨毯に、刃を突き立てる者が現れた。

 エステル・レフィア・フォン・グランディア。

 帝国が王国だった頃、あらゆる国と種族の融和を目指して、矛盾と誹りの雨を被りながらも、対話を諦めなかった『優女王』ミスティ・アステア・フォン・グランディア。その血を受け継ぐ、正統なグランディア王族の後継者である。

 北国ムスペルヘイムで反抗の狼煙を上げた解放軍は、協力者の数を増やしながら、大陸各地を帝国の支配下から解き放とうと進軍を続ける。

『悪夢から呼び覚ましてくれる英雄の卵』

『大陸を今の状況に追い込んだ悪女の娘』

 正反対の評価が彼女に降るが、エステルが歩みを止める事は無い。


 たとえそれが、誰かの不幸に繋がるとしても。


「人殺し!」

 女の我鳴り声が、辺り一帯に響き渡った。

「あんた達が来たせいで、この村は帝国軍に目をつけられて、滅茶苦茶だよ!」

 中年の女性は、酷い火傷を負って息をしなくなった幼い子を、これ見よがしに抱き締めながら、目の前に立つ少女に食ってかかる。

「何が解放軍だ!? あたしたちは、帝国支配下でも、大人しく暮らしていられればそれで良かったんだ。なのに、あんた達が余計な真似をするから!」

 たしかにこの集落は、解放軍の進路に位置していた。だが、今、罵りの矢面に立っている少女――エステルは、出撃前の作戦会議で、地図と睨み合いながら、はっきりと言ったのだ。

『このまま進めば、何の罪も無い人々を戦闘に巻き込みます。帝国軍をできるだけ前方に誘き出し、草原を戦場にしましょう』

 彼女は間違い無く配慮した。巻き込んだのは帝国軍の方だったのだ。盟主の家系が滅び、国家としての機能を失った地方では、帝国から派遣された将が、戦や反逆者狩りにかこつけて、略奪や殺人を平然と行う。その悪習が今回、この村に及んだのだ。

「ごめんなさい」

 高い位置で結っている、水色がかった銀髪をさらりと流し、エステルは深々と頭を下げる。解放軍の総大将に低頭させた事が、相手を調子づけたのだろう。唾を飛ばしながら罵倒は続く。

「ごめんって言えばこの子が生き返るのかい!? 違うだろ! お前が死ねば良かったんだ! 被害を受けるのは、いつもあたし達無関係の一般人だよ、この無責任!」

 流石に言い過ぎだ。十数歩離れていた場所でやりとりを見ていた少年クレテスの胸の内にも、気分の悪さが込み上げる。ぐっと唇を引き結んで悪口あっこうに耐えている幼馴染の気丈さが、いたたまれない気持ちに拍車をかける。一歩を踏み出そうとした時。

「そこまでにしていただこうか」

 いつも聞いているより一段低い声が鼓膜を打ち、背の高い男性が、エステルを背後にかばうように進み出た。

「エステル様はこの村を巻き込まないように心を砕かれた。その苦労を知らずに過ぎた口を利くのは、グランディア王家に対する不敬とも受け取らせていただく」

 それに、と。

 褐色の瞳を半眼に細めて、エステルの叔父アルフレッド・マリオスは、女を鋭く睨みつける。

「戦時下のこの状況で、自分達は無関係だと言い張る事は、帝国の横暴に与するも同じ。無責任なのはどちらか、今一度良く考えていただきたい」

 数多の戦場を越えてきた熟練の聖剣士に凄まれては、戦に縁の無い凡庸な女など、蛇に睨まれた蛙以下である。青ざめた顔をして後ずさり。

「え、英雄気取りで良い気になるんじゃないよ! 出ていけ! 二度と顔を見せるな!!」

 いまだに負け惜しみを撒き散らしながら、駆け足でその場を去っていった。

「……なんっ、だよあれ!」

 幼馴染の一人であるリタが、我慢ならぬ、とばかりに拳を振り回しながら叫びをあげる。

「まあー、仕方無いね。これが現実」

「せめて、怪我をした人に回復魔法を」

「やめときな。何をされるかわからないよ」

 他の戦士達も口々に、何とかしようとしたり、諦めを説いたりしている。クレテスは彼らを一通り見渡した後、立ち尽くす少女に視線を戻す。

「エステル様。大丈夫ですか」

「はい……」

 それまで鬼気迫る迫力だった叔父に、打って変わった優しい声をかけられるエステルは、健気にうなずき返していたが、うつむいて、掌で目の端を拭う所作は、少年からもよく見えた。


 ここ一帯の帝国軍を蹴散らしたおかげで、解放軍はひとつの砦を今宵の寝場所として得る事ができた。

 戦士達がめいめいの場所で武具を外し休息を取る中、クレテスは厨房へ向かう。そして、今晩の炊き出しを作っている後方支援の者に頼んで、温かいミルクと、ドライフルーツを混ぜ込んだクッキーを用意してもらった。いつもなら自分で作るのだが、流石に日が暮れ始めた今から、決して広くはない厨房の一角を占領して菓子作りをするのは、迷惑になってしまう。それに、一刻も早く、これを届ける相手のもとへ行きたかった。

 解放軍盟主は指揮官室に通される事が多い。今日もそこを目指してゆくと、扉の前に立つ見張りが、気さくに右手を挙げた。

「おっ、どうも。エステル様にご用です? クレテスさんなら顔パスですよ」

 ノクリスという、解放軍結成当初からいる、狩人あがりの男だ。馴れ合いは好ましくないと、大人達は渋い顔をするが、農民や狩人から志願してきた戦士は、礼儀作法をすっ飛ばしている者がほとんどである。かくいうクレテスも、身分はグランディア王国騎士の息子だが、騎士としての立ち振る舞いを指南された事など無い。剣の型も、グランディア式ではあるが傭兵のそれなのは、師匠に因る部分が大きい。

「ありがとう」

 なのでクレテスも、苦笑をノクリスに返す事で礼として、室内に入った。

 春の終わりの風が、開け放った窓から流れてくる。夏を前にして赤みを増した日没の太陽が、燃えているかのように照らしている部屋の中、少女はソファに座り込み下を向いていたが、訪れに気づくと、はっと顔を上げて、ぎこちない笑顔を見せた。

「クレテス、どうしたんですか? お夕飯にはまだ早いと思いますけど」

 細めるその目が少し腫れぼったい。クレテスは溜息をつくと、ここまで運んできた盆を彼女の前のテーブルに静かに置いた。

「腹減ってるだろ。飯の前に少し胃に入れて、落ち着かせとけよ」

「クレテスが作ったんですか?」

「いや。流石に間に合わなかった」

 故郷――真の故郷はグランディア王国だが、自分達が育ってきたのはムスペルヘイムのトルヴェール村である――にいた頃はよく、木の実パイを焼いてエステルのところへ差し入れに行ったものだ。解放軍が発ってからも、時間と食材に余裕がある時は、様々な菓子を作って、盟主の役目に疲れているだろう幼馴染を労っている。だから今回も、クレテスが用意したものだと思ったらしい。

「いつもと味が違うけど、勘弁な」

「いえ」

 肩をすくめてみせると、少女は唇の端にうっすらと笑みを浮かべて、ゆるゆる首を横に振った。そして「いただきます」と丁寧に手を合わせて、クッキーをかじる。

 その横顔を見ながら、クレテスは考える。

 この少女は、いつから声をあげて泣くところを見せなくなっただろうか、と。

 物心ついた頃から他の子供達も交えて一緒にいたこの幼馴染は、心優しく、その分恐がりで、泣き虫だった。男子の喧嘩が始まると怯えて、すぐ叔父に泣きつくような子供だった。

 そんな少女が、この大陸の命運という大きすぎる荷を背負って、剣を振るっている。返り血を浴びても動じず、自身が傷ついてもひるむ事は無い。

 だから怖いのだ。いつかどこかで心の支柱が折れ、泣き崩れて立ち上がれなくなる瞬間が来るのではないかと。

「あのさ」

 ホットミルクを口に含んで、安堵の吐息をつく彼女の傍らに、同じ目線になるように膝をついて、じっとその顔を見つめる。

「今日みたいな事は、気にするな、ってのは絶対無理だから。せめて、おれ達を頼れよ。嫌な事があったらはけ口くらいにはなるから」

 翠の瞳が吃驚きっきょうした様子でこちらを向き、真ん丸く見開かれる。

 自分はアルフレッドのように、エステルの心の中まで踏み込める身内ではない。だが、彼女の傍にいて、怒りや悲しみ、ままならさを感じた時に、感情を吐き出すのを受け止める役目は、できるだろう。誰よりも優しい少女の心が壊れないように、支える事はできるだろう。

 その為に、できる限り多くの敵を斬り捨てる事も。他の誰かを不幸にする事も。覚悟は決めたつもりだ。

「……ありがとうございます」

 エステルが、ゆるりと柔らかく微笑む。その目に、夕陽の照り返しではない光があるように見えたのには、気づかない振りをした。

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