二章「あたためますか?」-Will you rewarm me?-

 ガラスのコップから目覚めたまりもは、布団のなかでもぴょんぴょん跳ねていた。ぽむぽむ、ぶつかってくるのを抱えたまま、夜がきたので寝た。


[12月11日 日曜日]

「せつな!」雪奈がまぶたを開いた途端に、ぎゅっと飛びついてきて、それが今朝の目覚めだった。

「わあ」

 まりもは市内観光の興奮が尾を引いているらしく、ずっと笑顔のままだった。

「今日は、まりもをほどかない?」

「うん、いいよ」

「そうなんだ」

 にへらと笑うまりもの服が、雪奈の腕でごわごわと締めつけられて皺がよる。

 冷えかたまった身体をストーブで解くような感触で、時間が許す限りそうしていたかった。

「ちょっと、くるしい」

 無理をしているような声をきいて、ばっと離れた。身体をまとっていた暖かい空気が急に逃げてしまった気がしたところで、まりもが手を繋いでくれた。

「せんせい、質問!」

 授業のまねだろうか。まりもが学校にくっついてきたときに見ていて憧れたのかもしれないが、いまどきこんな模範的な生徒はいないと思う。いい生徒をもったものだ。

「どうぞ、まりもさん」

「あんなにたくさんの人たち、どこからきたの」

 たぶん、街の中にいた観光客たちのことを言っている。

「ええと、この町の外から」

「どれくらい?」

窓をさす。

「あの山のほう?」

「まだまだ」

「山の向こう?」

「まだまだまだ」

「そっかー」

 まりもは遠い目をした。そりゃあ想像も及ばぬほど遠く遠くの話なんだから、遠い目になるか。

「じゃあ私からも質問。コップ、気に入ったの?」

「うん、せつなの部屋みたいな感じがする」

「へえ」

 けっこう散らかっていて、落ち着かないけど。

「あと、前にまりもがいたとこみたいな感じ」

「え、どんな」聞き捨てならない。

「おじいちゃんがいて、まりもはガラスに入ってた!」

「なんだ、おじいちゃんか……」

「?」

「他の人間と関わったことは?」

「ない!」

「ふーん、そうなんだ」

「なんか、嬉しそう」

「そ、そんなことない」頬をたたき、緩んでいたかも知れない口許を引き締める。

「つぎ、まりものターン!」雪奈がまりもを質問攻めにしてしまっていた。

「はい、どうぞ」

「なんで、せつなは雪に転がってたの?」

 なかなか、痛いところを突くなあ。この子はいい生徒だ。

「教えて」

「こ、こけちゃったのかなー」

「む」納得いってなさそう。

「じゃあ、星があるから」自分でも、よく分からない言葉を返すしかなかった。部屋だって汚い私が、自分の心を言葉で綺麗にまとめられるはずもなかった。

「むー」

「それだけ」どうにか笑おうとして、ごまかす。

「星、まりもも見たい」そう言いながら、まりもは納得してくれていないようだ。「つらそうだった」

「大丈夫」

「私は大丈夫だよ」

「だいじょうぶ、って?」

 まりもに雪奈ができることなら、やっておきたかった。

 なんだろう、と考える。できるだけ嘘偽りなく考えて、答える。

「明日も私はおにぎりを食べることができるよ、っていう意味だったりする」

「むー、わかんない」頬を膨らませる。どこでその表情を覚えたのやら。

「うーん、私はたぶん明日もがんばって生きています、くらいの意味でいいのかも」

「むー」

 私には、恥じらいなく大丈夫なんて言えないなあと思った。たとえば、相手が私の明日を知らなくなってしまうお別れのときくらいにしか。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 まりもが投げるその言葉は、私へどことなく言い聞かせるように言っている気がした。

「ご飯、買いに行かなきゃ」

 一人分の食事では到底足りないし、食事を2階の自室へ持って上がると不審がられるので、自分のお小遣いから買うしかなかった。貯金には限りがあるので、これからなんとか解決しなくてはならない。

「おにぎり、あたためますか?」

 普通の日常。

 

 コンビニからの帰り道。

「ああ、そこ!」

 きゅっと力が籠もってしまい、まりもが雪奈の様子を窺う。

「やっと見つけた」

 どたどたと、慣れなそうに凍った路面を踏みしめながら近づく若い男。縁の大きな眼鏡をかけた癖っ毛、見た目を気にしない研究者然とした風貌だった。

「それ、マリモですよね」

 うわずったように、声をかけてくる。

「……誰」

 咄嗟にまりもを背に回す。

「おや失礼、わたくしこういう者なのですが」

 そろりそろりと凍結面をもう2歩迫られ、さっと取り出される名刺。『最終世代』とロゴがある。さりげなさを装って、若い男の立場を示しているのであろう関東の有名私立大学の肩書き。生物学者、とあった。

「私たちは、人間社会から動植物を保護しているのです。世間に存在が露見される危機に瀕した変異種のマリモを捜索しておりました。いやあ、見つかってよかった」

 早口に、興奮と自信がうかがえた。雪奈たちからの言葉を待つことなく、続けられる。

「私たちには団体に所属するブレーンと、団体に寄せられた寄付による多額の資金があります。マリモを社会の手から守り、その上で有効活用できます。つきましては、我々にそちらのマリモを引き渡していただけないでしょうか」

 沈黙。学者はハンカチで頭の雪をはらう。

「……全く以て、貴方がたは重大さを分かっていない。人間以外に知的生物が生息していた意義を。価値を。これからの地球の未来を。禁断の果実を食した猿に次いで、植物そのものが禁断となり立ち上がるときが来た。人間に対する自然界の反逆が始まる。人類の自然支配がついに終わるのだ。ついにやってくるのだ。世界はマリモで埋め尽くされる。これは喜ばしいことなのです。社会が何も知らないうちに、お偉い方が報告を受けないうちに、地を這いずり回り自然に奉仕する精神を持った我らが、先にマリモを保護できるのです。人間による人間のための生体実験と経済発展から遠ざけ、マリモが独立する道を我々の手のもと切り開くのだ!」

「いやだ」しんとした雪に、声が響く。それは、雪奈の口からではなかった。

「……そうきますか。だめだ。非力さを自覚しなさい。残念ですが、あなた一人では世界と戦えませんよ」

「……い、や、だ!」それは、まりもの口からだった。

 ぴきっと、男の額から音がしたような気がした。

「まず、警察の手が迫る。既に何も知らない人々と、知っている老人によって捜査網は引かれた。そこから何日逃れられるのか? いやあ見物だな」

 男は不器用な笑みを浮かべていた。

「マリモ、君は君たちマリモという種がおかれている環境を自覚していないだろう。君たちの仲間は、絶滅危惧Ⅰ類として絶滅の危機に瀕しているのだよ。それは人間による環境破壊のせいだ。仲間を見捨てて、君たちを間接的に殺している人間と仲良しごっこをして、君は本当にそれで良いのか?」

「……いこ」まりもの手をとり、雪奈は逃げ出す。男はつるつるの路面で転倒しかけて情けない悲鳴を上げ、電柱をだきしめたまま呆然としていた。雪国出身か、そうでないかの経験の差は如実に表れる。

「ごめんね、せつな」声が聞こえる。雪奈は焦っていた。まりもは何度も転びかけて雪奈の手を離しそうになり、そのたびに雪奈が力をこめて離すまいとした。雪で見通しの悪い道の先を、必死に見据えながら。

「いいの。ずっとうちにいてよ」

「ごめんね、せつな」

 すべって離れて、ぎゅっと近くに引き寄せて、離れて、ぎゅっと近くに引き寄せて、離れて、ぎゅっと近くに引き寄せて、離れて。やっと男は見えなくなった。



 じっと見つめてくる。初めて見たかもしれない、真剣味を帯びた表情で。

「『じぶん』って、なに?」

「えっと、まりもはまりもで……」

「『マリモ』ってなに?」

「えっと、緑色で丸くて、水草の一種で……見たほうが早い」スマホのブラウザで「まりも」と検索、緑色で丸くてもこもこふわふわの何かの画像が次々に表示される。

「これが、自分たち……」

 向き合おうとしているのだと分かる。じゃあ、邪魔するのはいけない。いけないと思う。

「……明梨ちゃんと相談してみる?」雪奈には、力が足りない。

「……うん」


 なんだかなあ、と思う。思いながら、受話器を渡した。

 水に浸された食パンをやむなく食べたときの気分。ぐちゃぐちゃでとろとろで無味無臭で、うっすら胸の中がもやもやしている。

 結婚式の段取りを決めるかのごとく、まりもは真剣に明梨ちゃんの言葉を聞いていた。雪奈にとっての退屈が始まり、早1時間。

「雪奈の聞いていないとこで話したい、って」

 まりもが困ったような表情を浮かべる。やっとこちらを向いたと思ったらこれだ。

 いってらっしゃい、と。そう言うしかなかった。仕方なく、ちゃんと明梨ちゃん家へ送り届けてきた。



[12月12日 月曜日]

 まりもは雪玉太郎状態と人間形態を一日ごとに切り替えるらしかった。原理や物理法則はよく分からないが、つまり今日のまりもは雪玉太郎だということは予想できた。

 低体温の雪玉まりもが腕にひっついてきたので、そのまま学校に行く。帰ってくる。


「マリモ、名前付けないの」

「うーん。なんとなく、ね。私が付けちゃいけない気がして」

「ふうん」言い出しずらそうな顔。

「なに」

「それなら、まあ安心かな」

「どういうこと」

「いや、なんでもない」

 釈然としないものを感じる。

 そして、一日が終わる。

 おとなしいまりもを、ぼやーっとこたつで眺めている。



 ばったり意識が薄らげば、別世界が現れる。良いなあ、と思う。でも私は星を掴もうとしない子供だから、そんなことは起こらないということを知っている。

 コンビニの店員のおねえさん。にっこりと。

「あたためないんですか?」

「あたためてほしいんですか?」

「あたためないでほしいんですか?」

「あたためてもらいたいんですよね?」

 やめてくれ、どっちだっていいんだ。

「あたためてもらえばいいんじゃないの?」

 明梨ちゃんだった。

「マリモ、名前付けないんだ。可哀想に」

 分からない、自分でも。

「何、一人で凍っていやがるんだよ」

 道を尋ねてきた大男。驚いたような顔をしていた。

 そして、硝子館のおにいさん。無表情から口角をうっすら上げて。

「はい、どうぞ」

 何かを期待してリボンの封を解く。箱の中身は空っぽだった。

「何も必要なかったんですよね? じゃあ、店に来る必要もなかったんですよ」

 そう、その通りだ。

 私は望んでいた。ありふれたもので私の心は救われないと、自分さえ分からない特別で鮮烈で刺激的な新しい出会いを求めていた。それは、この世界にあるものではなかった。

 だから何もない、誰とも出会えない雪原にいたのだ。そうに違いない。

 生物学者が吐息一つこぼさずに雪道を走って私に迫る。急に止まり、反動で彼の靴から雪がずざっと私にかかる。

「あなたにマリモが守れない」

 分かっている。おにぎりを買うためのお金だって、もうすぐ底を突きそうだった。

「そもそもあなたはマリモを見ているのですか?」

 種としてのマリモしか見ていないテメーが言うな、と思った。思ったが、それ以上に私自身に堪えた。

 逃げるしかなかった。だが、私のぴったり背後につけて学者は果敢にも追走してくる。

 こけたのは私だった。地面と衝突した痛みはなく、ただ恥と虚しさだけがあった。

 無様な私を見て、ひとしきり笑った学者はいなくなった。

「ごめんね」

 次に現れたのは、まりもだった。寂しそうに笑っている。私を悲しませないようにだろうか、なんて考えてしまう。

「ばいばい」

 奇跡だったのだな、と思った。無からビックバンにより宇宙が誕生し、銀河団に太陽系に太陽に地球が形作られ、そこに母なる海ができて、風や波が発生し、生命が誕生した確率。

 生命が陸に上がり、何世代にもわたって何度も死にながら命を紡ぎ、呼吸をして、四肢を獲得し、手と言語を獲得し、おじいちゃんにお母さんに、それから私がこの世に生まれ落ちてしまった確率。

 生命が陸に上がり、何世代にもわたって何度も地に埋まりながら命を紡ぎ、光合成と呼吸をして、再び水中に潜り、阿寒湖へ至り、そうしてあなたが人間のあずかり知らぬ場所で降臨し、私と同じ言語を話せるようになった確率。

 そして、あなたと私が出会った確率。

 全部掛け合わせると。なんとまあ壮大なことだろう。ばかみたいにおめでたいことあ。これだけのことがあってなお、原風景の私は雪原で寝ているのか。

 なぜ私は生まれてきたの。なぜあなたと私は出会えたの。なぜ、私は未だ雪原で冷たい思いをしているの。世界の全てを知っている賢者がいて、問えるものなら問いたかった。

 きっとこれ以上の幸運は二度とない。それは、私の日々が変わることはないということを暗に示している。

 これからはまた日々を繰り返し、おにぎりを温めてもらうような小さな幸せと、誰かを想って一人夜に泣くような小さな悲しみを繰り返し、ぐるぐる回って、目を回らせながら、意味不明でどろどろ滾って突然牙を剥いてくる感情を胸の中で飼い慣らしている。どうか、疲れきって真実に気づいてしまわないように。安らかな日々と、安らかな終わりが得られますように。


 ありがとう、と言えばいいのかな。君と出会えたこと。



 自分の部屋で寝ている自分に気づいた。

 スマホのブルーライトを浴びた代償に、時刻は4:13を示していることを知る。

 すうすう、と横で向こう側をむいて眠っているまりもがいた。

 なぜだか、あなたがいるのにもっと悲しくなった。目から零れそうになったものは適当に指で拭った。私も反対側を向いて、まぶたを閉じるだけした。今日はもう眠れない。

 夢とは、たいてい私にとって理不尽に作られているものだ。こういう酷い夢を見たあと、誰かの胸元で泣きたくなる。


 普通の日常。

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