終章「あまったごはん」-See you.-
[12月13日]
元は植物であるまりもに、そう多くの睡眠時間が必要ではない。それでも、温かい布団で「せつな」と一緒にいる時間は何よりの幸せだったから、あえて寝るふりをしていた。
ところが、今夜は少し様子が違う。昨夜まではぎゅっと一つになっていたのに、どちらからともなくうやむやになって、一つの布団に背を沿わせるように眠った。せつなに買ってもらったガラスのコップをぎゅっと抱えて。
起きてから気づいた、となりで眠るせつなの荒い呼吸と玉のような汗。起こさないように覗き込むと、苦しそうな表情。そこで、揺り起こしていいものなのかと戸惑ってしまう。
まりもに何ができるのか分からなかったから。
だって、まりもは今日――
「わたし、行かないといけないんだ」
せつなが起きてから、しばらくもじもじして、やっとのことで言ってしまった。
せつながどんな顔をするか、怖かった。
秒速、思ったよりも変わらない。
3秒、わっと口許が歪む。
4秒、顔をそらされる。表情をみせてくれない。
「そうなんだ」やっと、5文字だけ言葉が返ってきた。
「うん」
どこへ、なんで、ってまりもがせつなにいっぱい質問したみたいに聞かれるかと思った。なのに、なんにも聞いてくれなかった。寂しいと、思う。
「手、にぎりたい」
「……うん」
説明しておかないといけない。
「北の方へ、行こうと思う」
人の少なく、まりもが適した環境へ。
マリモという種族は阿寒湖にしかほぼ存在がなく、絶滅の危機にある。まりもがこのまま、せつなと気ままに暮らしていけば、この幸せもゆっくりと終わりゆく定めにある。まりもが終わっていく阿寒湖のまりもたちを、冷たい瞳で眺めることになっていた。それ以前に、この温かい家にとどまり続けていては終わりが近かったのかもしれない。明梨によるとケーサツがせつなをいじめにくるらしいし、オカネが足りないからお腹いっぱいおにぎりを食べられずひもじい思いをするそうだ。
「まりも、もっとたくさん旅をするべきだと思うの。いろんなひとと出会って、まりもが住める場所をみつけて、たくさん仲間をふやして、家族をつくって、そしたら楽しいことがもっとたくさん増えるよ」
でも歩ける脚を授かったから、自分で進み未来への決断ができる知識と理性を授かったから、まりもはどこまでも行けるのだ。たくさんの人と出会い、たくさんの仲間と共に生きて、たくさん子どもたちに囲まれる、また子どもたちもたくさんの幸せをてにいれ、脈々と幸せのリレーが引き継がれていく。
そんないっぱいの幸せと明るい未来を掴むために、まりもは一歩を踏み出さなくてはならない。
あの賢そうな人が言っていたまりもを巡る現状は、正しいことは正しいのだった。ただ、あの人についていけばまりもは保護されて、どこかへ連れて行かれてしまう。それだけはいやだった。
まりもは、まりもの力で頑張れる。まりもは、それを示せる。
「……怖く、ないの?」
「怖いよ」
確かに、恐怖はすぐそこに在った。はじめておじいちゃんの研究所を離れたときに感じた孤独。
雪奈と出会う前に、熊というらしきもじゃもじゃ獣と出会ったこと。
雪奈が人間を怖がっていて、まりもも怯えてしまったこと。
学者がまりもを連れ去ろうとしたこと。
まりもは、これから危険に満ちた自然界で一人生きなくてはならない、これはそういう選択だった。
おじいちゃんと暮らす温もりは好きだった。でも、ガラスのあの環境を再び選ぶのかと言われたら、それは違う。
「じゃあ、なんで……」
「外へ出て、せつなと出会って、せつなと過ごして、せつなと笑って、いっぱい楽しいことを知った」
脚を一歩前に動かせば、怖いことと同じくらい、いやそれ以上に、楽しいことがいっぱいいっぱい、いーっぱいあるのだ。まりもは、それを知れたことが嬉しい。
「せつなが教えてくれた。だから、まりもは進めるの」
「自分で、決めたんだ」
「ううん、いっぱいせつなと、あとちょっと明梨のおかげ」
「そっか……」
状況を噛みしめるように、せつなは言った。まりもが寂しいように、せつなも寂しいだろうなと思う。
寂しがってくれているなら少しだけ嬉しいな、とも思ってしまう。
明梨に、マリモという種のことを詳しく教えてもらった。そして、まりもとせつなの未来の話も教えてもらった。
せつなには言えないけれど、まりもの旅立ちはせつなのためでもある。
このまままりもが一緒にいては、せつなは駄目になってしまう。現実を直視せず、未来への行動を起こせず、まりもが頑張れば、後を追ってせつなも頑張れるようになるよ、と。
そういうことを順序立てて説明しながら、せつなは好きなものへの偏りが大きすぎるのだと、優しい目で明梨が言っていた。
せつなは、ちゃんと未来を直視しなくてはならない。そう明梨は力強く言っていた。光がまっすぐの道をたどるように、「明梨ちゃん」は正しいことを言っているような気がした。
まりももまた、光がまっすぐ道を進むように、まりもの道を進むのだ。
なによりも、明梨ちゃんがせつなを大切に思っていることは事実だと悟ったから、その想いを根拠にこの道を選んだ。
「がんばれ」
心掛かりが、ないわけではない。
思えば。たまに、雪奈はまりもの分からない表情をする。例えば雪原で出会ったときがそうだった。
「せつな、ちょっと心配」
「私は……」
そうだ、まりもが大好きなせつなで、まりものためにいっぱいをくれたせつななのだから。
「うん、大丈夫」
そう、返してくれる。
「せつなは、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」
せつなは、まりもが持たないたくさんの何かを持っていると思う。それは優しい心だったり、ふわふわして、どろどろして、うーん、まだ現れていない見えない何か。目に見えない、才能とか、魔法とか、そういうやつ。
せつながまりもにしてくれた優しいことと、せつながまりもにできなかったけどやりたかった優しいことはまりもが忘れない。まりもの語彙では言葉に表せないけど、せつなは大きな力を秘めていると、そう信じている。
これからのまりもの旅路で、きっとその言葉も見つけられるはずだ。いつかまた、歩み続ければ再会することだってできる。
だから、これは悲しいお別れじゃない。前を向く、希望のあふれた第一歩だ。
ぽんと、せつなの背中をなでる。せつなはきっとこれから、まりもなしで頑張れるのだと思う。
さようなら。
元気でね、せつな。
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