一章「できたてごはん」 -You can put in me every capability.-

[12月9日金曜日 防衛増税1兆円、首相表明 27年度に向け段階的]


「むにゃむにゃ」

 毛布と眠気に覆われた頭。

 なにやら、頬がくすぐったい。身体を起こそうとして、右腕がひっぱられる。布団の中から出られない。まさか、あの小さな小さな雪玉太郎が一晩で、むくむく巨大な雪だるまになったのかと思って、そうじゃなかった。

 どきり。

「すぅ……」

 雪奈の腕を抱えて。知らない女の子が、寝息を感じる距離で瞳を閉じている。赤い毛布を透過した日光が照らす、揺れる睫毛は雪奈の吐息のためだった。間近で見ても、造られたように汚れ一つない水面のような肌と、精巧な目、花、口、柔らかそうな唇、頬、緩やかな輪郭、それらが雪奈の息の届く距離に――

 天井を仰ごうとしたとき、知らない女の子の睫毛にかかる髪が、白いもこもこで形作られているのだと気づいた。まるで、まるで、この子は、2日前に、私の元にやってきた、

「まり、も?」

 寝起きをなんとせず、「まりも」は微笑んだ。抱かれた腕を締める力がさらに強くなって、雪奈は身をまかせるように力を緩めた。おそるおそるといった様子で、まりもは雪奈の腕から胴まですっぽりと包囲する。まりも繊維で造られたような服がごわごわと寝間着のスウェットに絡まり、まりもが雪玉状態のときにはなかったような温かさが伝わってくるのを受けとめて。

「こわかった。ずっと。せつなにあうまで」

 そう言って、また安心したようにふにゃりとまりもが笑うのを見た。


 まりもとベッドに潜ったままいたら自然に登校時間を過ぎていた。時の流れ、世の流れに身を投げ出している。

 ようやく雪奈の身体を離してくれたまりもをぼやっと見守りながら、状況を考えようと腕を組むも何も浮かばない。今頃は明梨ちゃんも学校に行っていることだし。

 幸いにも今日ずる休みをすれば土日だ。この三日でこの子をひとまずなんとかすれば、もうこれ以上出席日数を減らさずにすむ。一日だけでも明梨ちゃんは怒るんだろうな。

「この部屋からの脱出は――。むりか」

 ずるずると時間が過ぎ、ずるずると引っ張られるうちにもう10時前。家を出るには店への階段を使うしかない。まもなく階下のラーメン屋は営業時間になり、外に出て行こうとすれば下で働くお父さんに見つかってしまう。休みでもないのにこの時間に家にいることが露呈する、それは非常にまずい。

『雪、落として。床が濡れるから』

 ほら、そうこうするうちに下から聞こえてきた。雪になれない道外からの観光客を注意する声。

 一方まりもといえば、さっきから自分の身体を不思議そうに観察していた。慌てる雪奈をぽかんと見つめはじめる。

「せつな……」

「しっ」父にこの子の存在がばれては支障がありかねないので、ひそひそ話をするために耳を寄せた。

「せつな!」

「うわっ」

 何を思ったか、まりもは大声で言い直す。鼓膜が破れるかと思った。この声量では、たぶん父には聞かれてしまっただろう。

「ごめん……」まりもはしゅんと項垂れている。

 人間と人間以外とのコミュニケーションは、ちょっと難しい。

「まあ、ぼちぼちやろう」

 一度やらかした以上、もう下のお父さんには在宅を気づかれているのだから開き直ればいい。もし学校に行っていない理由を問われたら、創業記念日とでも言っておけば一年に一回くらいは通用するだろう。

「あなたは昨日の「まりも」で間違いないよね」

「……? まりも、まりも。いまも」

 うーん。まりもは、まりも。いまもそうだよ、と。なるほど。

「そうかー」

 その後も、何度か質疑応答。まりもからもいくつか逆質問。

 やりとりを何度も繰り返すうちに、会話が成り立ってきた気がする。

「お腹、空かない?」

「……?」

「ほら、ぐーって」

「ぐぅー」口で言われた。

「ちがうなあ」

 ぐぅぅぅぅ、と。こんどは本当に鳴った。まりもは自分できょとんとしている。

「待ってて。絶対動かないで」

 表情には「せつなとはなれるのはいやだ」、というメッセージが如実に表れていた。ぐっと堪えて階段を下り、素知らぬ顔で店内を横断。父はラーメン屋の仕事中だから声をかけてこないはず……

「おい、学校は?」

「創業記念日」

「そうか。明日は大雪らしいぞ」

 よかった。

「ラーメン、一丁!」

「はぁ?」

「昼ごはん、お願いします」

「そうかよ」

 どんぶりを受け取って、こそっと箸を2セット拝借する。

「おいしい」呟くと、

「おいしい!」正面ではまりもが頬をいっぱいに膨らませ、目をらんらんと輝かせていた。

「これ、なんていうの?」

「らーめん」

「ramen☆!」

 拳をつきあげたりして、気分あげあげで、髪の毛が鰹節のようにふよふよ躍っている。しかしよく食べるなあ。初めての食事にしては、二人で一杯のラーメンじゃ足りないかもしれない。

「ちょっと待ってて」

 まりもに声をかけて、父を尻目に外へ出ると、踏み固められた雪をながめつつ、目的のオレンジ色の看板へ。

「レジ袋は?」「いえ」「温めますか?」「はい」とやりとりをして、セコマを出る。買った商品はポケットへ。

 父はまた、「扉を閉めろよ」と客に言っていた。お客さんに会釈して、中に入らせてもらい、すすっと店舗区画を抜けて。ポケットの中を確認。

 お金少なかったし、シンプルでいいだろう。白米と、海苔でできたやつ。つまり塩おにぎり。

 って、これではまりもが海苔の捕食、海藻の海藻食いか。それはまずいのか。

 差しだしたら、食べない。そりゃそうか。ぽやーんとしている。と思ったら。

 ぱくり。ぱくり。

 私が自分のぶんを食べると、まりもも真似した。

 わお、共食いの現場だと思いながら、無邪気な表情を見ていては、事実を告げると重罪人になってしまう気がしてくる。この秘密はまりもに教えてやらず、墓場まで持って行くことにした。

 服を着せ替えてみたり、日本語のおべんきょうをしたり、まりものせいで休んだのをいいことに暇を謳歌してごろごろするうちに、日がいつの間にか暮れていたようで。布団に潜ると、ぎゅっとくっついてきた。

 思いついたので聞いてみる。

「したいこととか、ある?」

「せつなと、街がみてみたい」まりもは、即答だった。

「わかった、じゃあ明日連れて行ってあげるね」

 ラーメンだけで可愛い表情を見せてくれるのだから、私にとっては見慣れた光景でも、あなたはきっと楽しんでくれるのだと思う。

 何処へ連れて行こうか、あそこにも行ってみたいな、と。行く先々でのまりものリアクションを想像すると、小学生のとき、3DSをサンタさんが届けに来るかもしれないクリスマスイブのような感覚。

「どきどきする」



[12月10日 敵基地攻撃能力を定義 必要最小限度の自衛、相手の領域で反撃可能]

 目覚めたらいつもの朝だった。

 ぶるりと、一人震える。

「あー」

 当然返事はないから。

「べつに、予想してたし、うん」

 言い訳しても、良いわけだ。寒い。

 ずいぶんと小さく、というか元通りになった雪玉太郎を毛布の中から拾い上げて、コートのポケットに忍ばせておく。

「約束、したし」雪奈と一緒に、街を見たいって言ってた。

 一人、街に繰り出す。

「ここが、かのすこし有名な堺町通り」

 雪がごうごう降ってくる。髪にぽつぽつとひっつく。

 人の群れを少し外れながら、車の通らない車道を通ったりして脚を進める。


「ここは――」

〈小樽 大正硝子館 本店〉

 ガラスの食器やアクセサリーが売られているお店。小学校のときに訪れたかもしれない。なかなか機会もなくて、あまり入ったことがなかったような。中に入ると、透明な球たちとあざやかな色彩がおちついた格好で机に座っており、温かな空気とともに雪奈を出迎えた。

「きれい」

 一色がしゃんと映えるもの。黒で上品に仕上げられたもの。手が出ないお値段から、手頃なものまで。次々と目移りするなか、視線がまた別の作品に移動する。そのとき、突然まりもがポケットから飛び出すと、スポンとそれに入ってしまった。

 ガラスのコップ。作品名を示す白い紙には『泡沫』とある。球面に三原色がくるくる輪を描くように差し、泡のような模様が吹き出ている。その中に、白いまりもが共演する。ご機嫌なのかふわふわが回転して、もこもこが動く動く。ガラスに入った泡と交じらい、まるで生命が溢れる水槽のような。なかでもマリンブルーの瞳が一際美しく泳いでいる。

 こんなに美しい偶然があっていいのか、と感嘆してしまうほどだった。 

 他の客が不審げに横を通って、我に返る。これは会計前の商品だった。怒られるかも知れない。慎重に、ヘマのないように、愛嬌よく行動することが求められる。

 大きさがぴったりすぎて、右手でコップをひっくり返して左手で受け止めようとしても落ちてこない。

 つまんでも抜けてこない。たぶんここから出てくるには本人の意思が必要。

 いたく気に入ってしまったらしく、球体の側面からのぞくと緩んだ瞳がふたつあった。

 これは仕方ないのでそのままレジへ持っていく。店員さんは、白い何かが中に詰められたコップをじっと見ている。

「あー、……雪です」

 ごまかしたそばから、ぴょんと跳ねた。心臓がばくばくで、胃が痛くて、どうにかなりそうだった。

「……そうですか」

 店員さんの手でレジがカタカタ鳴らされ、お金を払う。

「では、このままお詰めしますね」

「おねがいします……」

 丁寧にまりもを緩衝剤にされたまま、かぱっと、閉じられた。雪奈はその行程ををみていた。

「ありがとうございました」

 何か食べようと思って、なかなか入りずらかった。明梨ちゃんと一緒だったら、まりもが昨日の人型まりもだったら店にずかずか入りこめたかもしれない。でも、一人はちょっと心細かった。

 人、人、知らない人。東京とかからやってきて、雪の真実を知らない人たち。

 ひと、ひと、ひと。似たように防寒をそろえた黒色の服たち。

 ピロンと、メッセージ通知が鳴る。


《※error》

 スマホをつけると、明梨ちゃんからメッセージがきていた。20時間ほど前のもの。

「勉強しなくてもダイジョウブなの? このままの人生でいいの? 私は大都会のすっごい大学に行っちゃうよ。あなたにはもう届かない。もうすぐ三学期になろうというのに、私以外友達作れないのにね。一人で生きるの? ダイジョウブなの?」

 迫る大男。

「お前弱そうだな。逆らわずに俺に言う通りにしろ。逆らうはずがないよな、まさか」

 生ぬるい雪。ばらばらばらと、視界をふさぐ雪。髪に絡んでくる雪。

 雪、雪、星がない。私だけの星はどこ。

「あ」

 何か、失われているのを感じる。指先から、あらゆる穴という穴から抜けていき、私は萎ん

でいく。時計の針がちぎれそうなほど暴れ回る。

 急速に収束する。たとえば知らない行ったこともない見たこともない誰もいない未開の地の、倉庫の事務室の収納庫、膝を抱えてやっと居場所を作れる小さな暗室へ。懐かしい匂い。

 番号札VIXIさん、お医者様がお待ちです。今日はどうされましたか。何もないですか。お帰りください。迷惑だからもう来るな。

 迫る大男。氷点下20度。暴風雪警報。寒天の下、干された肉。赤い肉。白い肉。緑色の肉。青い肉。青い私。電源の入らない洗濯機。主人を亡くした獣皮のブーツ。冷めたスープ。帰らない人を待たない家族。寒くない、全然全くこれっぽっちも寒くない。温かい、暖炉の恐怖。燃やす。氷を燃やす。自治体指定透明ゴミ袋が真っ赤っか。溶けない。氷が崩れる。壊れる。ばらばらばら。凍傷、延焼、炎上。

 迫る大男。ダランダランダラン。動かない腕。動かない脚。動かない心。動かない骨。骨は動かない。動かない表情。ぎょろぎょろ目玉。

 重力に屈する。屈する。敗北を呈する声が届かない。疑問が呈される。

 新聞一面。余命八〇年。就職戦争、就職氷河期、学歴フィルター、嫌いなあの人、年功序列、生涯雇用、国民皆保険、エルニーニョ現象、国民年金縮小、積み立てNISA、閉鎖病棟、安楽死希望者多数。社会を見据えられていますか。単語だけを並べていませんか。一つ一つの意味を理解し、それに向き合っていますか。チェックリスト・ノーコンプリート。

 凍らせる。家という家、文明を凍らせる。ビルが傾く。大勢死んでいく。死者数千名。生存者ここに一人。私だけ生きている。やったー。嘘。生きていない。みんな死んでいる。心臓が止まれば死? 脳死は死? 心が止まれば死? 愛しい人が死ねば死? し? シシシ。シシシしシシシ詩死氏志糸ししシシシぃぃぃぃーーーー。鹿威し。

 心臓が裂ければいい。血も肉もぶっ飛んでしまえばいい。骨だけになればどうでもいい。

 分泌されるアドレナリン。人生敢闘報酬。死は平等。痛みのない死。痛覚は死ではない。死は死。こわくないよー。ところで、感情の言語変換機能はうまく作用していますでしょうか。あなたにどれだけの痛みが伝わっていますか。苦しんでいますか。それとも半笑いですか。プレーンテキストではビデオやオーディオコンテンツに劣りますか。致死量には到底足りませんよね。謝罪は必要ですか。

 胃を刺す痛みが、空腹の絶頂が、余裕のなさが誰も救わない。人類全員幸福なら良かったんですか。きっと楽しいんだろうな。誰も傷つかないんだろうなあ。理想論を述べるな。自問自答の机上論で脳内を構成するな。

 顔面に投げるために製造されたクリームパイ。猿蟹合戦。この野菜は顔写真のひとが作りました。この野菜は鏡の前のあなたが食べます。歯ですりつぶされます。口内分泌液と共に飲まれ、食道を抜け、胃に突入します。ぐちゃぐちゃになります。糞みたいな色になります。元の形は分かりませんし、骨も残りません。野菜に痛みはありません、よかったね。まりもは食べないでね。


 普通の日常。

《※errorの終了》


 明梨ちゃんから。

「推薦、いけそう。雪奈もがんばれ」

 大男、というよりひげが大きめな紳士から。

「ねえ、道を訊きたいんだけど」

 相対して。

「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 雪奈は突っ立っていた。

「はあ、はあ、うああ……」

 雪奈は起立していた。

「……おい、ダイジョウブか?」

 迫る男。

「だだだだ、いじょう……」

「あー、そうだ。ダイジョウブ。お前はダイジョウブだ。じゃ、元気でな」

「……」

 いなくなった。

 ずるずると、脚が動く。人の気配がない場所にどうにか進む。

「ふぅ……」

 吐きそうだった。

 だらりと、力の入りすぎていた雪奈の腕がたれる。

 がさごそと、箱の中でまりもが動く。

「ふぅ……」


 家に帰って、ごろごろして気力を取り戻してから、再びコップにまりもを入れた。すうすう寝ている。寝息と同期してまりもの体毛もゆらゆら動き、やすらかな動きをみせて、また違った良さがあった。

 癒やされる。

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