スターゲイザー

鳩芽すい

序章「ピピピ」-Who are calling me?-

 雪と寝ている。

 白で染まる空、白い積雪、白く舞う粉雪が漂う。

 視界が全て真っ白で、だから余計なことを考える必要は何もない。

 寝転がって、背中と黒い頭髪が雪に受け止められて。

 そのまま一緒くたになって、ぜんぶぜんぶ、漂白されてしまえばいい。存在が地面に溶けていく。透きとおった白に還元されたのならいい。

 そう思いたいような、思いたくないような。

 私と寝ている雪に、手袋を忘れた小指が触れる。雪原に頼りきろうとするように、だらんと手の甲まで氷に浸される。

「冷たい」

 髪の裏側では、私の温度が伝わって雪が溶けている。また奥の雪が顔を出すけれど、溶け解かれて水になった雪は、私の髪が吸うのでくっついてきた。

「つめたい」

 やっぱり私が消えることはなくて、鼻と耳と小指の寂しさは残るまま。

 安心したいような、そうじゃないような。

 地上の私と空中の雪だけが身動きする。

 雪が北風でふわりと浮き上がり、下がり、私と同じ高度まで落ちてくる。ちらちら舞う雪のなかに、何か別の生物が紛れ込んでいる気がする。おーい、と呼びかけようとして、口許に作ったメガホンをこわす。返事なんて期待できないから。

 世間一般では、冷たいことは寂しさと表裏一体だという観念があるのはなぜだろう。冷たさも私を受け止めてくれるものだと思えば、冷たくても寂しくないのに。冷たさの素っ気なさというものも愛することができるし、体温を雪に奪われても髪の毛が雪でぐしゃぐしゃでも寂しくない、そのはずなのに。

 雪と寝る理由。自分のことなのに自分でも知らなかった。だけど考えてみても、特段の理由はないはずだ。ただ、趣くままに、この場所に赴いている。きっかけは忘れてしまった。気づけば、生きることの一部になっていた。毎日ご飯を食べて、毎日高校に通い、毎日父、母、明梨ちゃんと会話をして、毎日夜はベッドで寝る。冬ならほぼ毎日、家からほど近い殺風景な丘で真っ昼間から雪と寝る。目的は星を見ること。私は星を見上げる人だ。

 とはいえ雪国の空は大抵の日、白いし、そもそも眩しい太陽が出ている昼間は星など見られないということを知ってはいるのだ。夜は寒すぎて、星空観察には向かないし。

「ちべたい」

 だめだ。何も考えないようにするつもりだったのに、冬とか雪のことばかりに気を散らしてしまっていた。

 よし。今からでも遅くないから、星を観よう。

 空。白で覆われた空を、私は見上げている。

 私には確かに、星が見えている。青や橙、煌々と輝いて。

 いいなあ、と毎日思う。思っているが、雪原にやってきて数日で星へ手を伸ばすことをやめてしまった。

 私の背丈がどれだけ伸びたとしても、雪と雲で同じような白の天地がひっくり返ったとしても、空想の輝きには決して手が届かないと分かっているから。



「あったかい……」

 がらっと家の引き戸を押しのけ、屋内に駆け込んだ。真っ先に、指先の氷結が緩んでいく。それから全身が暖気に包まれる。

「わっ」

[12月6日火曜日 防衛費、5年間で43兆円]

 活字が目とぶつかる。父の読んでいた新聞の一面だった。

「戸締まりしろ、雪が入る」

「はい、はい」あわてて戻って指先で外からの隙間風を感じながら、ぱしゃん。

「あと今日忙しいからラーメンな」

「えー、太るのに」

「ちょっとは太れ」

 父は新聞から目を外すと、鍋へ向かった。

 ラーメンへの不満は常々聞き入れてもらえない。これはラーメン屋に生まれた責務か。みんなからは羨ましがられるが、これが何も良くない。週に一回も同じ味を食べていては飽きる。勘違いしないでほしい、週に一回ラーメンではない。週に三回ラーメンで、味噌、塩、醤油のローテーションなのだ。

 それに、ここだけの話うちのはそこまで味がよくない。観光客向けだから味の研究はしなくていいらしい。そんなばかな。

「いただきます」

 夜が近づく頃にはもう客がいないので、店は私だけの貸し切りだった。

「おいしい」

「そうか」

 ラーメンは、早く食べられるのがいい。

「明日、雪がけっこう降るらしいな」

 新聞に帰った父が誰にともなくそう言った瞬間、扉がまた開く。客ではなく、母の帰り。お母さんの仕事は忙しくて、いつも帰りが遅くなる。夜ご飯に出くわすのはむしろ珍しいことだった。

「ただいま、雪奈」

「おかえり」

「雪を落とせよ」

 明日も空は白色。そして私は星空を見る。



 夕食をとった後、自室へ引きこもった。

 お風呂上がりにドライヤーをかけながら、どうでもいいことを考える。

 雪奈より星奈のほうが名前として綺麗だと思う。でもちょっとキラキラ気味か。星が名前につく喜びには負けるが、それは少しいやだ。まあともかく、雪に埋もれる私には雪奈のほうがお似合いなのかもしれないから役場に申請を出すほどのことではない。

 アイヌの人たちは自分の子供にわざと汚い名前をつけたらしいと、ゴールデンカムイを読んだ明梨ちゃんから聞いたし。それは病魔がきれいなものを好むからだそうで。

 そんなこんなで、暖かい布団に潜り込んで、今日が終わる。



[12月7日水曜日 磨いた対応力、新時代 

日本、クロアチアにPK負け 8強の壁再び]

 活字と目がぶつかった。

「明日もなかなかの雪らしいな」

 そうか、じゃあ明日も星か。

「行ってきます」

「おう」

 ぱしゃん。

 学校へ、向かう。

 学校から、帰ってくる。

 いつもの雪原へ。

 雪と寝ながら明梨ちゃんからきたメッセージに返信していると、風が一際びゅわっと吹いた。

 スノードームが幼子に振り回されたように、自然の雪も舞う。ドームを落っことして、割ってしまって、外の星空と繋がってしまえば少し悲しいから、そんなにはしゃいで大盤振る舞いするのはやめてほしい。ガラスが飛び散ってきらきらして綺麗だなーとか、外がくっきり見えて嬉しいなーとか、そんな単純に生きていない。

 天が私の願いを知ることもなく、風の鋭さが私を刺して身体が痛むのは一瞬で、あとは雪に包まれていればよかった。この場所は毎冬、私の古めかしい箱庭だ。

 星を見ている。星は私を見ていない。ぎらぎらと、変な形に輝いて、やっぱり綺麗で眩しい。どれだけ星が光っていても肉眼は痛くならない。ちょっと胸が痛くなるだけだから、ちょうどいい。

 星のまたたきが強くなると、ほんの少し期待してしまう。何らかの合図じゃないか。あなたが私を連れて行ってくれるんじゃないか、と。遠く、遠い、眩しい星空へ。そんな白馬の王子様は実際に訪れることもなく、私は毒林檎をてめえで食ってずっと寝ているわけだ。

 おや、と。

 視界の端に私の頭が反応して、雪を引きずりながらそっちを向いた。雪に紛れて、何か。何か、浮かんでいる理由が常識では説明できないとも言い切れない微妙なサイズの雪玉が風にのってふわり、ふわりと流れてくる。



《雪玉からの交信》

 こわい。

 どこへいくんだろう。どこまでもとばされる。めがまわる。どうほうたちとは、ばらばらになっちゃった。

 おなじようなき、おなじようなつち、ときどきもじゃもじゃにおそわれそうになる。じめんにかくれていたら、おなじいろだからばれない。でもでていってしまう。

 

 ちがうにおいがした。きらきらした、たくさんのみずがみえた。みずはふるさとよりすごくおおきくて、すごいところにきてしまったのかも。もじゃもじゃよりもつよそうなやつがたくさん。でもなつかしいきがする、においはそこからきていた。

 またとばされていく。

 ちがうにおいがした。けがすくないもじゃもじゃのにおい。おじいちゃんでも、しらないもじゃもじゃでもない、あたらしいしらないひと?

 ちょっとぶつかって、とまった。おじいちゃんじゃないひとにつかまってしまった。だけど、だいじょうぶだとおもった。ここはこわくない。

 それからは、とばされなかった。

《交信終了》



 手袋を履いた手で咄嗟につかんだ。雪ではない、明らかな違和感があり、手袋を外す。雪玉ではなかった。一瞬で外気に凍りかける指に無温度の雪玉もどきが乗っかかる。むしろ風から守ってくれて温もりを感じるほどだ。指の温度で、雪のように溶けることはない。

 そもそも、これは生き物なのか。沈黙して眺めていると、目があった。その雪玉に目があり、私の目とその目で視線があう。純白に2つのマリンブルー、命の重さを湛えたつぶらな瞳がこちらを見つめてくる。

「ふう……」

 夢ではないことを確かめる。頬は勝手に雪風が刺すし、吐く息はちゃんと白いし、深呼吸すると肺がきゅっとなるし、未知の生物と目が合っているし。どうやら、夢ではないっぽい。

「ええっ」

 とりあえず星を見ることにした。ぐたっと寝る。夢ではないよと、雪玉がはねた。ぎゅっと抱えたまま瞳を閉じる。そのまま、雪玉の正体を考えようとして、考える材料が少なすぎてすぐに諦めて、脳の隅から思考がぼやけてきて、寒さが気にならなくなりはじめるのはいつものことで……

 意識が星空へ飛びかけて、はっとした。例の謎生物がぴょんぴょん跳ねて胸を叩いている。この氷点下のなかで眠ってしまっては、あやうく雪と永眠するところだったかもしれない。氷になりかけた関節を総動員して立ち上がり、命の恩人を抱えたまま帰ることにした。

 私だけのこういうやつ、どうやって飼えばいいんだろう。



 引き戸を片手で押しのけた。

「明日もなかなかの雪らしい」

 父から掛けられた言葉に、何らかのデジャブ。しかし私にはそこそこ重大な使命がある。

 コートやセーターのせいで汗ばむ。片手では暑すぎる重装備を外すこともできず、きゅうにぽかぽかしてくるがまずは自室に待避、こいつを安全な場所に護衛だ。

「おい、室内に雪を持ち込むな」ちょうど私の腕の中をみて、言われる。

「いやこれ、雪じゃない」

「はぁ?」

 父の沈黙。

「そうか」

 納得してくれたらしい。物わかりがよくて助かる。

「扉は閉めろよ、雪が入る」

「はい、はい」片手とブーツでなんとか引きずり、ばしゃっと扉が閉まる弱い音を父に聞かせる。振り返ったとき、レジ横のお土産コーナーが目に飛び込んできた。まりものキーホルダーが置いてある。

 この子、まりもっぽいかも。丸いし、ふわふわだし、よく見るとメロンの網目模様みたいに繊維が絡み合ってるし、相違点といえば緑と白で色違いなのと、綺麗な瞳をお持ちでいらっしゃることくらい。

「ねえ、まりも」

 ぴょんと跳ねた。こいつ、まりもなのかもしれない。そんなはずはないよなあと思いながら、。まりもが動いたところを父に見られなかったかと様子をのぞくが、大丈夫そう。そのまま普段通りを装って、危険地帯を退散した。



「……ようするに、何の手立てもないってこと」

 緊急通話を終えて、まりもをじっと観察する。私よりはるかに賢い明梨ちゃんは、要約するとそういうことを言った。何も分からないなら、臨機応変にどうにかするしかないのだと。もしかすると、明梨ちゃんはまりもの存在が私の妄想話だと思って本気で受け止めてくれていないのか。または明梨ちゃん、寝不足で頭が働いていない。

「うーん」

 球体で目以外に口の一つも無いから、ご飯も食べなそうだし。じゃあ楽そうでいいか。

 


『今日から四国に行ってきまーす』

 飛行機の画像。何やら小さなきかんしゃ。温泉街の商店街。美味しそうな鯛のお刺身。みかん。ストーリーに流れてくる。IDが名前+誕生日の人が投稿していた。髪を染めていてピアス穴も開いていて、旅行によくお行きになる他クラスの子。うちの高校は髪染めとかピアスとかそこらへん緩すぎるくらい緩くて、先生も一度形だけの注意をするくらい。明梨ちゃんは「音姫もないのに何しに潮陵にきてんだばーか」と言っていた。明梨ちゃん、たまに怖い。ちなみに音姫は最近設置された。

 名字は忘れていて、名前はIDを見るたびに思い出している。どこにでも行けてしまう生きやすそうな性分がちょっと羨ましくなって、そのIDをミュートした後スマホを閉じた。もう名前を思い出すことはないだろう。そのうちミュートしていない人が明梨ちゃんだけになる未来が見えたが、明梨ちゃんは投稿してくれないので私はインスタをチェックしなくなるだけかもしれない。他を知る行為自体をなくしてしまえば、辛い感情に襲われることもないし。

 ぴょんぴょん、とまりもが存在を主張する。撫でると森の香りがした。

 そんなこんなで、まりもを抱えたまま、今日も寝た。



 起きた。寝返りを打とうとしてまりもを潰してしまいそうになり、いろいろあってスウェットの中に入った。それがちょうどアラームの鳴る瞬間だった。雪玉太郎は一体まん丸のどこにそんな筋肉があるのか、目をきゅっとしながら私の腕、それも肘付近にひっついてくる。私の目覚めを邪魔したいのか。それとも学校に行かせたくないのか。ぬっと相対して引っこ抜こうとするが、どこを掴んでいいか分からない。ぷちぷちと表面の糸が取れてしまったらまりもが痛そうだし。

 私は名前+誕生日さんではないけど、たまにはこういう冒険もいっか。

「いいけど、邪魔したら許さないから」

 ワンサイズオーバーのTシャツにニットを重ねながらいちおう声をかけておくと、ぴょんと腕の上で跳ねた。服がもごもご動く。これは了承のサインと受け取っていいのだろうか。

[12月8日木曜日 救済新法 与野党が合意]

 一階に降りると、活字と目がぶつかった。父の横に、今日はお母さんがいた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

「明日はあんまり降らな――」

 ぱしゃん。学校にいく。

 無事に。奇跡的にも大きな事件はなく、私が雪原に向かうこともなく、家に帰ってきた。

 右手を机に置くたびにこいつが潰れそうになるから、板書をするのが大変だった。たまに袖へ移動してきてこちらを見つめだすものだから授業に全然集中できないし。その瞬間を狙って明梨ちゃんにうちの子をお披露目しておいた。「ほどほどにして、勉強もね」と言われた。

 部屋に辿り着くと、袖からまりもが転がり落ちた。こてん、と床で沈黙しているので、拾い上げてベッドに転がしておいた。あれだけもぞもぞ跳ねてはしゃいで、さすがに疲れたみたいだ。

 まりもが見ているからか、試験前のようになんとなく部屋を片付ける気分になる。散らかった部屋は主に小説や漫画のせいだった。きちんと巻数順に本棚に仕舞うと、本たちが喜んでいる気がした。

 日々の諸々を終えて、布団をかぶり寝そべりながら何度目かの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を見ていると、どうやらまりもが復活したようで隣に並んできた。頬がくっつきそうなほどの距離でぽよぽよしている。

 いつのまにか、寝ていた。




 晴れた日に見える星空は綺麗だった。

 ある日、それは何も無いのに悲しくなった日、星空が霞んで見えた。

 最初は、視力が落ちていっているのだと思った。

 星は日を追うごとに枯れている。そう知ったとき、星がまた遠のいた。

 いつしか雪奈は、本物の星を見ることをやめていた。


 雪奈は、「それ」との邂逅の意味を捉えあぐねている。

「それ」は何者なのか。どこから来たのか。目的はあるのか。何を考えているのか。それらは、「それ」にとって重要かもしれないが、雪奈にとっては大きな意味を持たない。

 雪奈にとって、「それ」は「雪」なのか、「星」なのか、「ラーメン」なのか。それとも、別の何かになるのか。分からないまま、雪奈の日常が送られていた。

 雪奈は、ずっと雪雲に覆われた雪原のなかにいる。


 普通の日常。

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