現は罪のいろをしている
※本編後、正気を保っている(優希を殺したことをきちんと認識している)日の藍沢芽愛の話
**
鼻腔をくすぐる鉄の臭いに、あたしの意識はふわりと浮上した。
ゆっくり、閉ざしていた瞳を開く。
そこには、薄暗くて、血の臭いが満ちた部屋と、それから、冷たくなってしまったあなたが居て。あたしに否応なく、残酷な現実を突き付けてくる。
ああ、今日は、夢を見られない日なんだな。あたしはほぼ直感的に、そう思った。
いつもは楽しくてしあわせな、夢のような世界を見ているあたしだけれど、時々こんなふうに、まるで夢から覚めるみたいに、見たくもない現実を見てしまうことがある。自身の犯した罪から目を逸らすな、と。そう言わんがばかりに、時々、現実はあたしに牙を剥くのだ。
—あたしは、大好きな人を殺した。
変わっていくあなたを見たくない、なんて。そんな、馬鹿みたいな理由で。
あたしは、あなたのすべてを奪った。奪って、しまった。
あなたを殺して、そうすればきっとあたしはしあわせになれるんだって、そう、信じ込んで。あたしはあなたの心の臓にナイフを突き立てた。つめたくなっていくあなたの唇に、キスをした。
そこで、あたしは、やっと我に返ったの。
つめたくなってしまったあなた。生温かい、あなたの血で汚れた両手。
そして、噎せ返るような血の臭い。
それらを全部認識して、そして、ああ、やっちゃったって。まるで他人事みたいに思った。
あたしは、あたしの大切なものを、全部壊してしまったんだ。
他でもない、あたし自身の手によって。
あたしは徐に、スマホのニュースアプリを開いた。事件や行方不明者に関する記事をざっと見て、彼に関係ありそうな記事がなさそうなことに、ほっと安堵の息をつく。
ああ、良かった。今日もまだ、バレてなかった。
あたしの最後の砦は、まだ、誰にも崩されていない。
そのことにひとまず安堵するけれど、しかし心の底には、いつだって不安が渦巻いている。
この生活を、いつまで続けることができるんだろうっていう、不安が。
彼は。ゆーくんは、あたしとは違う。あたしのことは、きっとゆーくん以外、誰も見てくれなかったから。だから、あたしがいなくなったって、きっと誰も、心配なんてしない。
だけど、ゆーくんは違う。ゆーくんには、あたし以外にも、きっと愛してくれる人が居た。ゆーくんのパパやママは、きっとゆーくんと連絡が取れなくなったなら、酷く心配して、警察に捜索願を提出するなりなんなり、行動を起こすだろう。
そうなってしまえば、終わりだ。この、どこか夢のような、ゆーくんとのふたり暮らしは。あたしとゆーくんだけの、この小さな世界は、ガラガラと音を立てて崩れてしまうのだろう。
その日が来るのは、少しでも遅い方が良い。だけど、こんな生活を、ずっと続けていくことは不可能だということだって、分かっている。
分かっては、いるけれど。
「でも、嫌だよ……」
あたしは、ぽつりと言葉を零した。
嫌だ。この生活が終わってしまうのも。ゆーくんと、離ればなれになってしまうのも。
やっと手に入れたあたしのすべてを、そんなにやすやすと、手放してなんてやりたくない。
「ゆーくん……」
言いようのない不安に駆られて、思わずあたしは、大好きな彼の名前を呼んだ。そうすればいつだって、彼は、ゆーくんは。その優しい声であたしを呼んで、案外逞しいその腕で、あたしを抱き締めてくれたから。
だけど、今は。
「……」
物言わぬ死体と成り果ててしまった彼は、その虚な瞳に、泣きそうなあたしの姿を映すだけだ。名前を呼んでくれることもなければ、その腕で、あたしを抱き締めてくれることだって、ない。
彼をそうしてしまったのは、紛れもなく、あたし、なのだけれど。だけど、あたしになんにもしてくれないことが、たまらなく虚しい。
彼を殺したことで、手に入れたものもあったけれど。だけどこうして、喪ってしまったものの存在を認識するたびに、なんだか心に隙間風が吹き込んだみたいに、寒くて、寂しくて、仕方なくなる。
そうして、こうやって、現実を見るたびに思うのだ。
あたしは、きっと、やり方を間違えたんだって。
それに、もっと早く気付いていたなら、あたしは。
こんな気持ちに、ならずに済んだはずなのに。
「ねえ、ゆーくん」
あたしは、椅子に座らせたままの彼の死体に、そっと声をかける。
ねえ、あたしは。あとどれだけの時間、あなたとこうしていられるのかな。
そんなの、きっと、あたしにもあなたにも、分からないけれど。
願わくば、このふたりきりの、あたしにとっての楽園が、少しでも長く、続いてくれますように。
「おやすみ、ゆーくん。また明日ね」
そんな願いを込めて、あたしはゆーくんに、そっと声をかける。
ああ、明日はどうか。楽しくてしあわせな、夢を見られますように。
もう一つ、そんな願いをそっと唱えて、あたしは眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます