消えたもの

 奇麗な夜空だと思った。雲一つない。星の瞬きさえ見えない。ただ凛と輝く満月がぽっかりと浮いている。なんとなく触れられるかと考えて手を伸ばすけれどやっぱり触れることはできない。当たり前のことに私は喉を鳴らしていた。ぱたんと力なく地面に落ちる手はどことなく借り物のように思えた。私は視線だけを巡らせてここがどこか確認するが――よくわからない。森の中。ぽっかりと空いた空間にただ寝そべっているらしい。息をはっとついて再び月に戻す。


 ほうほうと鳴く鳥の声。虫の小さな囁き。どこか冷える風が頬を掠めていく。至って世界は平和なようだ。何事も無かったかのように。


「終わったのかな」


 ふと独り言ちた言葉に誰も答えることは無かった。けれどそうだったら良いな。と息を付く。もはや私にできることはない。何かあっても、意地と根性ではどうにもできないこともある。少し身体を動かそうとしただけでこんなにも気だるく辛いのだから。


 地面に身体が溶けていくような感覚だった。きっと残された時間はそう長くはない。きっと意識がある。それだけでも奇跡なのかもしれない。


 よく見たら腕の傷も消えてるや。小首を傾げてから月に視線を戻す。太陽と違っていい所はを向けても潰れないところだなぁとぼんやり考えていた。かといって太陽が嫌いなわけではない。昼は好きだ。お日様は暖かいし風は心地いい。――こんな静寂も好きだけれど。


 ふぅと息を付いた。ゆるりと閉じる目の裏にはもはや何も浮かばない。


「なんか疲れたなぁ」


 暫くしてコツコツと肩に何かが当たる感覚に意識が浮上する。あぁ。まだ生きてるんだ。そう考えたのはただ単なる感想だった。残念とも嬉しいとも思わない。ゆるりと思い瞼を開ければ、どこか見覚えのある少女の顔が映りこむ。けれど知っている顔よりどこか気が強そうだ。


 ――リオ?


 いやいや。いや。リオは私と考えて、金色に輝く自身の髪が目に映る。どういう事だうか。ああ。夢かも知れないと結論付けた。ここにいるはずは無いのだ。それに考えても疲れるし。それが本音だったりする。


「おい。起きろ。死んでんのか?」


「……」


 乱雑な言葉遣い。その双眸には『めんどくさいの見つけた』などと書いてある。面倒なら捨て置けば良いのだけれど、後ろから歩いてくる少年の手前そうもいかないようだ。多分一人だったら『なにもみてねえし』などと過ぎていくだろう……。うーん。半分自分だから手に取るように分かる。


 そして足で生死を確認するのを止めて。正確には肩をこつくのを止めろ。抗議のように視線を合わせれば『生きてるなぁ』と心底面倒そうに呟いた。


 それでも騎士団――に入れるような年ではなさそうだ。どうやら十代前半で未だその顔は幼い。


「どうしたんだよ。リオ――って。お前ついに女の子を殺したのかよ。やっちまったのかよ」


 ――どう埋めるか。なんて青い顔をしてバカなことを呟いているのはこれもまた見覚えのある少年。リオより小柄で細い。幼い頃のヒュウムだった。


 いや、埋めないで。


「ついにってなんだよ。あたしが殺人鬼になるみたいじゃんかよ? こいつ倒れてたんだ。あたしの所為じゃねぇし。どうする? 放置で帰る? ここにいることバレたら怒られるし」


「バカじゃねえの?」


 ヒュウムは溜息一つ私を膝をついて眺めた。


「怪我はないみたいだけど。とりあえず神殿の門辺りに放置しておけば大人が助けてくれるんじゃ?」


「なら、ここで放置でも良くない? いいじゃん。どうせ神官が見回りに来るんだろ。見つけるし。裏の森に入ったって知られたらババぁたちに殺されるだろ? あたしら」


 リオの母親の事だ。そう言えばそうだったなぁ。リオはこんな性格だったなぁ。雑。私よりも雑。雑すぎて他にできるることが無かったから騎士団に入ったという……。しかもヒュウムまで巻き込んで。


「いや、この人目が開いてるし、顔見られてるし。どう見てもお貴族様だし。助かったらおばさんたちに怒られるよりも――殺されるだろ?」


「……げえ。じゃあ。やっとく?」


 何をって――『殺』と言う文字が浮かんで慌てて私は身体を起こしていた。頑張れ。と必死に励まして、全身に力を込めて。いや、もう死ぬかと。


「あ。起きた」


 そんな苦労なんてお構いなして平然とした二人の顔。兎も角サバイバルナイフを降ろそうか。がしっと掴んだ細い手を不思議そうにリオは見つめる。


「――そんな事よりここはどこ? 何してるの。こんな夜中に」


「それをいうなら、あんたこそ何してんだよ。ここは神殿の森だぜ? 入っちゃいけないんだ」


 なぜ自慢げなんだ。そして堂々と入っているのはリオも同じなんだけど。ほら、ヒュウムが頭を抱えてらっしゃる。


「リオ」


「なんだよ。教えてやってんだぜ?」


「もういい。――ええと。俺たちはここで珍しい動物を狩――捕獲しに来たんだ。金になりそうだし。で、あんたが倒れてた、と」


「そう。でも子供が危ないよ。魔物が来たら」


 以前ここで魔獣に出くわしたことがある。だからいつもの調子で言えばきょとんとした顔で小首を傾げられた。バカで無いはずのヒュウムも不思議そうに見返している。


「え。なにそれ。美味いの? 喰える?」


「魔物――あの。人を食べる……」


 もしかして――いない。と私は顔を上げた。あの戦いはやはり成功していたのだろうか。平和になったのだろうか。


 守れたのだろうか。


 ぽつりと安堵の涙が一筋流れる。また一つ。今度は嬉しさで。その光景に慌てたのはリオだ。


「え。なに、なんだよ。おい。頭でも打ったのか? え。なぜ泣くんだよ? 痛いのか。おい。ヒュウムぅどうしたら良いんだよ。これ」


「えぇ。俺にも分かんねぇよ」


 慌てふためく二人をよそに私は顔を両手で覆う。嬉しい。良かった。守ることが出来て幸せだ。


 ――でも。

 きっと最後に流れた涙は悲しさだった。



 ここはきっと『無かったこと』になった世界なのだろう。やがて消えゆく私はただ独り、『あったはず』の世界の為に泣くしかなかった。

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