対案

 風が巻く音が低く唸っていた。『それ』は――もはや『それ』としか言いようのない黒い塊は何もかもすべてを飲み込んでいく。それは空間さえも飲み込んでいくようで、それの周りの世界は異様にねじ曲がっているように見えた。もはやそれは人知を超えたもの。もはやどう倒せば良いのか――こんなことならばと呆然自失で立ち尽くす聖女の前に一歩踏み出したのは一人の青年だった。


 深紅の双眸が爛々と輝く。亜麻色の髪は乱暴に風に流されていたが気にも止めない。もはや何の力も残っていないかつて魔王だったものは背にいる人間たちを一瞥した。血色の無い、青白い肌。唇からは黒ずんだ血が流れていた。付く息はどこか弱々しい。それでも魔王の表情は初めから今まで何の変哲も無かった。


「人間どもよ。あれが本来倒すべきものだ。アレを倒さないと永遠に続く。この世が終わるまで」


「だが――あれは」


 そう呟いた青年――アーロンは乾いた唇で呟く。もはや立つことがやっとだ。それにと、唇を噛む。あの人知を超えたものをどうしろと言うのだろうか。考え続けても答えは出ない。そんな猶予も恐らくは無いのかも知れない。


 ちらりと視線を背後に投げればその双眸に絶望を映しこんだ聖女がペタンと座りこんでいた。


「人でしか倒せない。人にしか倒せない」


「どうやってっ」


 吐き捨てる様に言ったのは聖女だ。


「もう私たちには何の力も残っていないの。あんたと戦ったせいで。――どうしろって。そもそもあんたを殺した方が簡単だったのに」


 余計なことをと言いたげた。もはや混乱しすぎていて聖女では無くただの少女になっている。元々付け焼き刃でただ、ただ『魔王を倒す』為だけに頑張ってきたのだから仕方ないとは言えるが。意味のない頑張りだったなと、魔王は溜息一つ。


「魔王(オレ)を離れた核にもはや意識はない。あれはすべてを飲み込んでこの世界を滅ぼす。最も俺にはどうでもいいがな」


 どうでもいい――ともう一度独り言ちてから未だ地に寝かされている少女に目を向けた。魔術で保護してある少女の身体はこの強風の中でもピクリとも動かない。その横に寄り添う魔術師も起きる気配などない。


 死んでいるのだ。もう起きることは無いだろう。だから希望を抱いたところで無駄だ。あの魔術師の『ちよっと取り戻してくるわ』なんて言う言葉も信じてはいけない。


 魔王はゆるりと目を外し、人間を再び見る。その目はどこか楽し気だ。


「俺と、世界。どちらが早く死ぬかな」


「まて、今考えている」


 アーロンは呟き考える。一人だけだ。今ここで希望を失っていないのは。だがそれだけで何になるだろうか。もはや動けない人間。恐怖で心を犯された聖女。考える間にも『それ』は肥大していく。


 時間は大してないな。と魔王は心の中で転がしていた。そんなときに聞こえてきたのはどこかのんびりとした言葉だった。


「……なに、あれ。なんか――ああ。お風呂の栓みたいだ」




 というか。気持ち悪っ。黒い塊がごうごう言いながらいろんなものを吸い込んでいっているんですが。空間なんてあそこねじ曲がってるよね。え。世界食べてる。どういう事。


 起き抜けの為かあまり頭が回らない。というか頭痛が酷い。さっきまで首が飛んでたからかなんなのか。


 ははっ。……笑えない。感覚共有してたから痛かったどころの話ではなくて。いや、あれもう死んだ方がマシだったな。はははは。


 ではなく。


 ごしごしと『それ』を見ながら目を擦る。うん。何度見でも『ある』わ。ええっと。あれは捨てておいてもいい奴という雰囲気では無さそうなんだけど。やばくない。もしかして。


 考えていると突然黒い影が私を覆いつくして抱きしめられた。


「は?」


 亜麻色の髪だ。黒ではなく。でも『どっち』もイブなんだと私は知っている。多分どっちも本物で。魔王もイブもそう変わりない。


 嬉しい。素直にそう思った。――嬉しい。帰ってきたのだと、確かめる様にそっとイブの背に手を回す。


 ああ。私は、ここにいる。死ななくてよかった。


 また会えてうれしい。


「生きてるな」


「――うん」


「生きてる。ここに、いる」


 初めて聞く不安そうな声だった。縋るように私の背中に回された手は些か震えている。


 ――震えて?


「え。本物?」


「……ああ。いきてるな」


 一拍。考える様にしてから、声音が変わった。いつもの調子に。しかもどことなく拗ねている気もするんだけれど気のせいだろうか。魔王が拗ねる。なんでだろう。心配をしてくれたのだろうか。あのイブが。……感極まって見ていると不快そうに顔を顰められた。どうやら気のせいだった模様。


 ま。いいか。


 イブは私から離れると、隣に寝ていた先生をおもむろに―ーどこか八つ当たりにも見える――蹴り上げる。『ぐへっ』と潰れる様に叫んだ先生は『ひっどい』と言いながら起き上がった。


「あら、おはよう」


「おはようございます」


 それを聞いて先生はイブを睨む。


「っていうか、私。正真正銘死にかけなの。というかこのまま死ぬの、何すんのよ。安らかな死を邪魔しないで」


「死ぬのは、お互い様だろ?」


 一体何の会話なんだろう。これは。そんなことよりも。私は感じる視線の方向に目を向ける。そこには目を丸くしてたたずんでいる見知った青年の姿があった。


「リオ?」


「殿下にレイ?」


 良かった。ボロボロだけれど生きてるとひらひら手を振る。他の人は倒れているもみたいだけれど、死んでいるのか生きているのかここからでは分からなかった。


「死んだんじゃ?」


「あ――生きてるね。まだ」


 と考えて心臓に手を当ててみる。うん。動いてないなぁ。死ぬな。近いうちに。ははっと笑いを漏らした。言う事でも無いので言わないけど。


「そんな事より。あれ、何?」


「暢気に笑ってる場合ではないわよっ。あれの所為で世界が滅ぶって」


 なぜレイに怒られているんだうか。説明を。と言う顔で殿下を見れば――魔王さまは説明する気はないようだ――あれはいつか言っていた『核』らしい。今回はイブがぶち切れて無理やり引きずり出したために暴走しているのだとか何とか。何してくれてんだ。それはレイと同意見だ。


 まぁ。でもアレを倒せばこんなこと無くなるらしいし。と考える。別に世界を救うとかやっぱどうでも良いけど――まぁ。おばさんたちには死んでほしくないと。ヒュームもリオの両親にも。


「先生」


「え? 私は無理よ? もう死にかけなんだってば。それに人で無いと倒せないのよ」


 先生は人間では無かっただろうか。という疑問は置いておいて。


「それは私が何とかしようと――だから何とかする方法を教えてほしいんです」


 大体今、まともに戦えそうな人は私ぐらいだし。心臓が動いてないので人の範疇だろうし――多分。


「それは……私――が」


 殿下が言う。動けないくせに何を言っているんだろう。不思議そうに小首を傾げると押し黙った。それは――とても悔しそうに、だ。


 まぁ。仕方ないよね。何とかなるなる。大丈夫。それに少し思った。


 何とかしたら私すごくない? とか。


「頑張るよ」


 にこにこと笑うと先生は溜息一つ。その横で無表情にイブが見ている。まぁ無表情とは言っても不肖不服というのはなんとなく読めた。私が成長しているようで誇らしい。どやっと言わんばかりにふんっと鼻を鳴らしてみると冷たい視線が突き刺さる。


「バカだろ?」


 ……なぜ突然の罵倒。じっとりと睨んでみるが視線をずらされて効果は薄いのが悔しい。というか視線が合っても薄いのだろうけれど。


 先生は面白そうに喉を鳴らして笑う。


「まあ、そこの聖女が手伝ってくれるならできるわよ?」


「は?」


 突然振られてレイは目を見張った。困惑したままに唇を開く。もはや自分には何もできない。そう悟っているようだった。


「でも、私」


 にっこりと先生は微笑した。整いすぎた顔立ちのそれは天使のごとく完璧な微笑だ。芸術。絵画に出てくるような――ああ。そう言えばどこかの宗教画で見たな。と思った。


 ただ。目が笑ってはいない。圧のようなものが――怖い。


「魔王がしたようになさい。貴方の場合、『引きずり出す』のではなく、出てきて貰いなさい――月の神様の『核』を」


「私は」


 できない。そんな言葉が聞こえて来そうな程に声は弱々しい。


「甘えないで。しなさい――何の為に貴方はここにいる? 何のために世界に来た? 考えなさい。こんなところでみじめに死にたくないなら、考えなさい。姉が出来たことを貴方ができないはずはないわ。できるの。この私が保証するわ。絶対に貴方ならできるって」


 ぴしゃりと先生はどこか強い口調で、見透かすかのように言った。何のことだかさっぱり分からなかったがレイは唇を悔しそうに噤むと、視線を上に向ける。掲げたのは持っていた錫杖。その錫杖の先から、弾けるようにして幾重もの光で描かれた魔法陣が浮いて出る。それはどこか荘厳で綺麗だ。その下のレイの顔は鬼気迫るものがあったけれど。


 大丈夫だろうか。息を飲んで見つめていると先生が一歩前に踏み出していた。


「先生?」


「ん。行ってくるわ。今の私には手伝う事すらままならないけれど、少しでも。――それが私のできることだし。焚きつけた責任だしね。守るわよ?」


「でも――」


 レイを守ってくれるのは嬉しい。嬉しいけれど。と私は困惑の表情を浮かべる。


 死にかけていると先生は言ったのだ。それはきっと嘘ではないのだろう。顔は蒼白だし、どこか重苦しく身体を動かしている。今にもどこか消えてなくなりそうな雰囲気を醸し出しているかのように思えた。


 だから手放しで『いってらっしやい』なんて言えるはずもない。にっこりと悪戯っぽく笑うと肩を竦めて見せた。


「そんな顔はしないで? 大丈夫よ。貴方たちも『すぐ』だから」


 ……そう言えばそうだったなぁ。と今更思い出す。心臓まだ止まったままだわ。これ――ではなく。私の事はどうでもいいのだ。もはや私の願いは叶ったとも言えるのだから。でも、イブや先生はそれでいいのだろうか。


 などと考えているとパチンという音と共に額に痛みが走る。デコピンは意外と痛い。こんな時に何するんだと睨めば肩を先生は竦めて見せた。どこか楽しそうに。


「人の事を考えるのは百年早いわよ。――魔王。リオちゃんを宜しくね?」


 ふんっとイブは嫌そうに鼻を鳴らした。


「宜しくされるまでもないな」


「ああ、そ。なら向こうで土産話を手ぐすね引いてまってるわ」


 じゃあね。そう手を振りながら先生は踵を返す。一歩、一歩進んでいく先生の足は止まることは無い。前を見据えて、振り返ることなく歩き続けていた。

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