夢
――いや。苦しい。怖い。こんな所にいてたくないの。
――助けて。
タス……ケテ
デモ。ガンバラナイトイケナイノ。コレハケイヤクダカラ
気持ちが悪かった。ぐるぐる回る世界。記憶。嬉しかったことなど僅かしかなくて。苦しかったことや悲しかったことだけが自分の身体を何度も射抜く。吐き気に見舞われても吐くことなんてできない。目を伏せても強制的に脳へと流れ込んでくるそれを私には止める事が出来なかった。
「なんで」
なんでこんなことに。
もはや立っていることも無理だ。ずきずきと痛む頭を抱えながら私は『鏡』を見上げていた。ぐらりと視界が霞んで一瞬だけここがどこか分からなくなりそうだったがそれでも必死に自分自身を繋ぎ止める。自分はここにいる。とそう言い聞かせなければ、記憶の波に飲み込まれそうで――私が私でなくなりそうで、嫌だった。
鏡の向こう。その表情は見えない。ただ、緩く乾いた唇が動くのが見えただけだ。
『言ったじゃない。私の願いを叶えて欲しいって』
可哀相な――私だ。
きっと可哀相だ。誰からも与えられず、愛されず。忌み嫌われて――投獄行き。幸せな時間など僅かで。最後の方の記憶はもはや霞んで何が何やら――よくわからないし見えない。きっと見てはいけない物なのだろうし、見たくない。分かったのは痛くて苦しくて。絶望と恐怖だけが支配していたという事だろうか。
――怖い。コワイ。
思い出せば出すほど吐き気に見舞われる。胃液でも吐いてしまえば楽なのだろうけれど、あいにく肉体は無い。無いのに『痛い』のはとても嫌だけれど。何もかもに耐えるようにして私は何とか口元から声を絞り出していた。
「ねが、いって」
少なくとも了承はしていない気がする。『何』とは尋ねたが。それに答えることなくこの仕打ちは正直どうなのかと思う。
『あなたになりたかった』
声に私は目を見開いていた。抑揚などない。感情の乗らない声だ。だけれど――その冷たさ故に分かる。
憎いのだと。先ほどまで和やかに笑っていた鏡の向こうの人はもういない。見上げるとその憎しみの孕んだ視線に肩を震わす。
『守られて――好かれて。痛い事無く、苦しい事もなく』
低く呟く声が剣呑に響いていた。
そうだっただろうか。今、まだ微かに残る私の記憶はほとんど鏡の向こうの『私』――幼少時代だけだが――と同じなのだけれど。違うのは僅かな時間。リオとして過ごした時間だけ。他の記憶は持ち合わせていない。
その僅かな時間が許せないのだろうか。よくわからない。痛い事や、苦しいことは『私』に比べれば無いに等しいけれど……誰か守ってくれたっけ。なぜか前線に立たされていたような気がする。
まぁ。いいかと思考を切った。
「私に、なったら。私の願いはどうなるの?」
『私が叶えるわ』
「……そっか」
私は考える様にして小首を捻る。
そっか。私だから、いいのか。良いのだろうか。結果良ければ。すべて良しとか言うし。それに。あの私だったらいいかな。などと考えていればパキバキと音がして自身の手が骨ばっていくのが感じられた。肉が削げる。髪が毛先から消滅していく――。その代わりと言ってはなんだが鏡の向こうではよく見知った私の姿が映し出されていた。金髪碧眼。弟と同じ容姿の幼い少女。自分で言うのはなんだが可愛いと思う。客観的に見ればだが。
私は痛みともども何かを生きだす様に息を付いていた。心の中にある凝りのようなものなんて取れる筈も無かったが。
「なら。イブを、宜しく」
『は?』
ひらひらとあっさり手を振れば、一体なにに驚いたのだろうか声が聞こえてくる。私は小首を傾げていた。困惑気味の表情がなぜか面白い。
『なにか、無いの? 怒るとか。返せとか』
「願い――叶うのなら、いいよ。あなたは、私だ、し」
『でも』
「あなた、だって怒らなかったし?」
そう。すべての理不尽にあの鏡の私は怒らなかった。憎まなかった。恨まなかった。どんな聖女かと思ったが――正確には負の感情を持ってはいけなかったのだ。自身の中に『魔王』の呪いがあったから。復活を『私』は拒んだ。拒み切って、体内に内包したまま死んだ。
誰かの役に立ちたかったのだと、ただそれだけの理由で足掻き続けた私はとても――誇り高く、高潔な人だったと思う。愛されて当然の人だ。きっと。
私ではなく。それにそんな目にあってたら私だって『そうする』と思うから。
「あなた、は人生を、続けるべきだと思う。まぁ。少しかもしれないけれど――少しでもさ」
ああ。でも、それでも少しだけ思う。まだ少しだけ。『生きたかった』って。そんな未練がましい自分に苦笑を浮かべるしかない。
はっと鏡の向こうで息を吐くのが聞こえる。
『……私と同じでバカなのね』
「ん。よく言われる」
悲しいことに。同一存在だから倍悲しい気がした。ちくしょう。
一拍。鏡の向こうから力なく声が響く。どこか懺悔じみているようなそんな口調。
『わたし頑張ったの――きっと頑張らなくてもよかったのに』
そうかもしれない。魔王なんてきっと誰かがどうにかしてくれるのだから頑張らなくてもよかったのに。でもできてしまったのだから、頑張るしかない。それが私にできる唯一のことなら仕方ない。
それしかなかったのだから。
「ん」
『頑張ったのよ』
どこか自嘲気味な声を聞きながら目を閉じると、パッと突然視界が開いた。一面の青。抜けるような青に白い雲が泳いていでいる。どこだろう。長閑――などと思う間もなく、私は眼下に群衆がいることに気づいた。何やら怒号が聞こえるが言葉になっていない。よく分からない。皆喜々としてこちらを見ているのはなぜだろうか。どこか狂気じみた目が怖い。人とはこんな目ができるものなのだろうかと肩を軽く震わせた。
「あ? れ」
なに?
トンっと背中を圧されると、驚く程に軽く私の足は膝を折る。そこで見えた骨と皮だけの手足にじゃらりと大きな鎖がまとわりついている。顔を上げれば、吸い込まれる様に大きな斧に目が行った。どす黒く錆びついた両手斧。刃の部分は黒ずんだ何かがまとわりついているように見えた。
――ああ。と私は心の中でようやく理解する。
これは処刑なのだと。処刑されるのは私では無いはずなのに。何もかも冷たい空気も、風も。群衆から感じる熱気も――身体の痛みすべてが言いようの無い現実だと訴えている気がした。
カタカタと本能的に震える手足。揺れる双眸は何かを探して彷徨う。助けてくれるとは思っていないけれどそれでも何かに縋りたかったのかも知れない。
見つけたのは空を駆ける鷹。それを流れる様に見つめてたどり着く先は――眼下に見える王宮の門だった。正門で、あそこからよくパレードが始まることを思い出す。ただ、そんな楽し気な気分ではないが。門番が二人ほどだろうか。気になって目を凝らすと一人の青年に私は息を飲んでいた。ドクンと大きく心臓が一度跳ねる。
亜麻色の髪と赤い目。よく見知った面差しの青年。かちりと視線が合うと驚いた表情でこちらを見つめていた。
「あ。う――い」
声にならない声が漏れる。けれどそれで構わなかった。
……ここにも。いた。
それがとてつもなく嬉しかった。戸惑った相手の表情は私を知らないのだろう。けれどそんなことどうだっていい。私が知っているのだから。ああ、そうだ。私は知っている。覚えている。何もかもだ。
嬉しい。
私の大切な――。
最後はとても残酷で嫌な音。ぷつりと私の意識は途切れていた。
コトン音がして彼女――リックが振り返ると、そこには白い髪を持つ青年が静かに立っていた。人とも思えない美しい容姿。サファイアを溶かしたような瞳が暗闇で異様に光っている。青年は薄い唇を孤に描いてリックを見つめた。どこか親し気な視線だったが、今のリックには面識がない。知っていると言えば知っている。
国一の魔術師だったか。と考えてここにいることを少しだけ納得した。
「これでいいのかしら? あの子が嫌いだったでしょうに。自分が嫌いだったでしょうに」
は。とリックは笑みを漏らす。馬鹿馬鹿し気に。生きていた時何もしなかった、ただ傍観していたこの魔術師は嫌いだ。その目には侮蔑が含まれていた。おそらく、別の世界の魔術師であるのだけれど。
「分かったことを言うんですね? 見捨てた懺悔ですか?」
「私は私の周り以外興味はないのよね。だから謝らないわ。そんな記憶もないし。貴方のことは不幸だったと思うわ」
不幸で済まされたらどんなにいいか――。愚痴を並べ立てそうで口を噤み、視線を逸らす。その先には暗闇しか広がっていない。何もない。果てしない暗闇。きっと溶けて消えていくのだろう。
「これでいいか、って聞きましたね。――よくないですよ。でも。思い出したんです。私、頑張ったんだって」
「ええ」
「それを無駄になんてできない」
それに。とリックは空間を撫でて、先ほどまでいたもう一人の自分を思い出す。抵抗も何もせずにあっさりと身体を差し出すバカは真に自分だった。自分だからいいのだと笑って見せる――恐らく何も考えていないだろう能天気さにあきれる。戻りたいはずなのに。
「それに、多分私は向こうで必要とされない。だから、変えることにしたの。――私の記憶をすべて。最後までもっていってもらうって」
「そう」
「私が居たことを知ってもらったら。それでいい。なかったことにならなければそれでいい」
ふわりと風が吹いて金の髪が巻き上がる。それはとても温かな風で、春の匂いを思わせた。何年ぶりだろうか。そう考える。
「――ええ。あの子が今あるのは貴方が頑張った結果よ。貴方が、未来を変えたの」
「だと、いい。ねぇ、私は頑張りましたよね?」
「ええ。たくさん頑張ったわ。偉いわ。私たちの誇りよ。誰も知らなくても――私は知っているから」
――ありがとう。と初めて言われてリックは瞠目した。その後でくしゃくしゃな顔をして笑う。笑っているのか泣いているのかそれは自分にでも分からなかったが、初めて満たされた感覚がした。
ざぁっと音がして世界が反転していく。青い空、美しい花園。――隣には誰かがいて。笑いかけてくれる。知らない未来。知らない人。でも夢ではない。きっと。
ああ。こんな結末が欲しかったのだと。リックはその人に手を伸ばしながら光の粒となって消えた。その粒を握りしめながら青年は柔らかく微笑んでいた。
――よい夢を。
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