移動先

 だんっと鈍い音を立て、男が床に投げ出されていた。身体を起こして向けられた表情は強張り、恐怖に怯えている。その男を投げた少年はにっと口元だけを歪めて笑顔を作っていた。奇麗な笑顔に感情など乗ることはない。深い紫の双眸はただ冷たく男を見据えている。『ひぃ』と這うようにして逃げ出そうとしたその腕を黒い――氷柱のようなものが貫いて床に縫い付けていた。悲鳴に私は顔を顰め、見かねた様に『イブ』と視線を向けたが、やはり何の感慨も浮いていない。痛みも、悲しみも。喜びも見いだせない。どこか一緒に歩いていたイブとは別人のように思えた。


「知ってるか? ――人間に紛れる魔物っていうのは大抵、弱いってことを。弱いから紛れるしかない。頭を使うしかない。賢いつもりだろうが。存外にバカで間抜けだ」


 ……酷い言いようだ。嫌いなんだろうなとよくわかる。


「い、いや。強かったよね。この間のあれは」


「人間が弱いんだ」


 ああ。そうですか。と私は男に目移す。自称トマスさん。それが魔物ということは先ほど知った。知った――と言うより思い知った。


 何が悲しくて餌の役割をしなきゃなんないんだよ。と心の中で独り言ちる。


 最初はどこかの街道に飛ばされたのだ。静かで誰もいない街道。周りは雑草と生い茂った木々で鬱蒼とした暗闇が広がっていた。『探してくるよ』なんて子供宜しくイブは私たちを無視して暗闇に消えていったのを見送りながら、私はトマスさんとユミィを探すことにしたのだ。イブ――魔王を追いかけても仕方ないし。トマスさんはただの民間人の筈だったから護衛もかねて、件の箒を握りしめて。


 そんな道沿いの林で、まぁ。豹変した、と。『このまま逃げられないのなら、心臓だけでも』と騒ぎながら襲い掛かってきた。え。なんでさ。魔物なんだから撒けるでしょう。人間から逃げるなんて造作もない事。むしろ逃げてほしかったんだけれど。おかげで私は箒を片手に対応することになる。もう一度言う。箒だ。そんなものが役に立つはずなんてない。早々に使い物ならなくなった箒は未だ道端に転がっているだろうか。後で新しいものを返さなければ。


 それにしても、腕の傷――服で見えない――から流し込まれた毒が痛む。叩きつけられた背中が痛む。殺されかけたころ暢気に顔を出した魔王様を殴り飛ばしてやりたいわ。何なの。私。この間から満身創痍過ぎる。


 はぁ。痛みを吐き出すように溜息一つ。ついでに言えばここは神殿だ。記憶の中。私(・)がいつか、いた部屋にいる。いつでも治療できるように、だろうか……うん。そんな気遣いあるなら初めから気遣ってくれと言いたくなる。


 にしても痛い。


「まおう、がいるなんて聞いて無かった。心臓を持つ騎士団の女がいると――」


 ゴリっと小さな足が顔を踏みつけていた。ぶべぇと声にならない声が響いた。


 神殿でこんな光景はありなのだろうか。誰もいないからいいけど神官が来たらぶっ倒れそうだ。魔物が二匹――? もいるし。


「ふうん? で。俺の『それ』が欲しくなった訳だ。何で俺がいるというところまで思いつかねぇのかなぁ――やっぱバカだろう」


 『いるのか? この頭』などと真面目に怖い事を言っている。殺されかけたがなんとなく、自称トマスさんが哀れに見えてき――あぁ。魔物だったわ。なしで。


 そう言えばユミィはどうなったんだろう。


「思いつくはずないでしょうが。基本魔物は群れない。人と行動を共にすると言う発想が無いのよ。あなたとは大違いね」


 コツコツと響く足音。振り向けば一人の女が呆れたように立っていた。リリスだ。自称トマスさんを一瞥。そのまま視線をイブに流してから呆れた様に溜息一つ。すっと私の前に立つ。温かい手。それはゆるりと私の傷口に触れた。


 ――つ?


 ピリリとした痛みに少しだけ顔を歪めてしまうが、視線が気になってリリスに目を向ける。というか。なぜ怒っているように見えるのだろうか。


「痛くないですか? 痛いですよね。痛いはずです」


 不満そうに言いながら私の袖を捲り上げると、痛々しく紫色になった皮膚が現れる。確認していなかったけれど、痛そうだな。と自分でもまるで他人事のように思った。ついでに傷なんてひっかき傷のようなもので、多分底から流し込まれた毒のせいで痛々しく見えるのだろう。


 リリスはイブを睨んでから、私の腕に指を這わせた。そこから、淡い光が漏れ出している。


「正直私の術では時間が少し掛かりますが――我慢してくださいね。……あのバカが使えないなんて」


 あのバカ。悔しそうに言ったのは魔王のことだろう。なんとなくイブの顔を除くと男を踏んずけたままの無表情がそこにある。


 よし、セーフらしい。そして脳みそ出てなくて良かった。


「う、うん」


「ほんっと。痛いときは痛いと言わないと――あのバカには伝わりませんよ?」


 凄いなぁ。魔術。じわじわと青あざが薄くなっていると共に痛みも楽になって行く。使えないのがやっぱり悲しかった。


「……別に動けないほどでもないし。騎士団だし」


 言うほどでもないかと。大体このくらいの怪我で騒ぎてるのは嫌だった。自身が弱いと認めているような気がして。実際元々のリオもぎりぎりまで粘って倒れこんでしまうタイプだったように思う。その辺り、私たちは幾分か似ているのかも知れないと苦笑漏らすしかない。


 私は強いから。大丈夫。


「アース様のお屋敷で怪我をした騎士団の皆様は日々痛いだの文句を言ってましたが? 団長なんて、『痛ぇから早く治せ』と日々。その割には元気に動きやがって――」


 そして傷を開いての無限ループ。と遠い目をしている。うん。団長だものね。そうなるよね。本人悪気があるわけでもなくて本能のままに動いているだけなのだが。そこがいいと信者――団員――には評判だ。いや。いいのかな。それ。ただの迷惑な人では……。


「なんか、ごめん」


「兎も角、殴られて痛いものは痛いんです。それが人間ってものです。そして隠していたら伝わらないんですよ。それはきっと寂しいことで」


「はぁ」


 伝わってどうするんだろうか。言っている意味がいまいちわからず生返事を返すしかない。そんな私を見てにっこりとほほ笑むとペチンと傷口を叩いた。痛くはない。少しだけ薄くあざが残っている事に目を見張る。


「つまり。傷口を広げんな。と言う事です――いろんな意味で」


 ……仕事増やすな。って聞こえたけど幻聴だろうか。


「はい。ガンバリマス」


 クスリと笑みを落とす。


「助けますよ。ええ。アース様もリオ様も私の大切な人なので。何があっても……そして魔王さま。何か私に言うことは無いのですか?」


 話を振られてイブは少しだけ考える様に首を捻った。思いついたように顔をあげて、私を紫の目で見つめる。心底不思議そうに。


「いたかったのか?」


「……ま。そこそこ?」


 満を持して登場したと言うことは、絶対一部始終見てたような気がするのだけれど。あれで痛くない人間がいたらそれ人間ではない。うん。そうか。気にもかけなかったから変だとは……。かけてほしかったわけではないけど。微塵もそう思ってなかったのか。そうかぁ。一応傷があるようなのでここに連れてきただけのようだ。


 ……魔物と人間の違いについて改めて感じるものがある。私は少しだけ顔を引きつらせていた。


 心配――多分――してくれた分いいのかもしれない。


「ね。通じてないでしょう?」


「まぁ――うん」


 肩を竦めると魔王は少しだけ不快そうに眉を顰める。珍しさからかなんなのかリリスが目を見張ったのが分かった。


「痛いなら痛いって、言え。人間は分からない――そんな事より。こいつ。どうするんだ?」


 足を顔から離して、力の抜けた男の身体をいとも簡単に、首根っこだけを掴んで持ち上げる。大人と子供。それは一種異様な光景だった。いや、それを言うなら頭を踏んずけていた時点で異様だったけれども。


 コロコロと黒い氷柱が床を転がって消えていく。だらだらと腕から流れている血はどす黒く見えた。


「連れてきたのイブでしょ? 私に問われても。あ。そうだ。ええとトマスさん? ユミィちゃんはどうしたの?」


「肉が柔らかかった」


 え。……そんな感想要らなかった。と言うことはすでにユミィちゃんはこの世にいないのだろう。ありふれているといえば、ありふれている光景。それに何かを今更思うことはないけれど、やはり助けたかったなとは思う。


 私は顔をあげるとリリスに目を移す。先ほどから物ほしそうな目を感じたためだ。


「要る?」


 まさかと、伺う様に見れば、え。いいの。と目が輝く。


 え。


 まさかの展開に怖い。なんで欲しいの。これ。食べるのかな。そう考えたら冷たい目で見られた気がした。イブに。


「はい。人型の魔物なんて一生掛かってもお目に掛かれないですし、ここで研究用に使いますね。殺すのであれば死体をと思っていたんですが、そのまま頂けるのであれば嬉しいです」


 まぁ。確かに珍しいけれども。御せるのだろうか。これ。騎士団でも苦労して倒したのに。というか神殿そんな事研究していたんだ。初耳だった。そんな事は市井でも聞いたことが無いので公にはしていないのだろう。


 『え。ふざけんなどうして人間ごときに』――と叫ぼうとした刹那、男の肩ががくりと項垂れる。白目を向いて。それをまた塵でも捨てるかのようにリリスの足元に投げている。


 まぁ。塵かな。


「ふぅん? とりあえず黙らせて、力も少し奪った」


「助かります。ここには何代目かの聖なる者が作った堅牢な檻があるんですよ。魔物なら特別な者を除いて出ることができないんです。見ますか?」


「……え。み」


 たい。と言う言葉はイブの声によって遮られていた。え。見たいんですけど。なんか凄そうだし。滅多にそんな機会は無いので。というか永遠にない。


 今でしょ。今。なのに。一瞥して黙らせるのは酷い。


「そんな事の為に来たわけじゃない。――ここに俺達を呼んだ用件は?」


「え?」


 俺たち?


「ここに初めから呼ばれていた。来る気なかったけど、アンタが怪我したから来た」


 正確には怪我をするのをのほほんと見ていただけだけどね。怪我しなければ来ることもなかったのだろうか。


 本当に? 


 その横顔からは判別付かなかった。というか、気軽に呼べるのか。この魔王。意外とフットワークが軽い。


 それにしても私が呼ばれた意味が分からなかった。イブの保護者的ななにか、だろうか。何か違う気かする。


 そんな私を見てクスリとリリスが笑みを落とす。


「――リオ様が幸せになる条件を提案しに来たのよ。そう伝えたでしょう?」

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