内緒話
さらりと茶色の髪が頬に掛かっていた。短く切りそろえられた髪を指で流せば、唇から『うん』と軽く吐息が漏れる。
――痛いのだろうか。痛いはずだ。
指先の先にあるのは湿布で薬の苦い臭いが鼻を付く。硬く閉じられた瞼。長い睫は動くことなく、薄い唇からは規則的な呼吸。時々幸せそうに笑う少女は一体どんな夢を見ているのだろうか。
夢など見ない自分としては少し羨ましい。そう思う。そして人の気も知らずに幸せそうな少女が憎らしくもあった。ピンと指で額を弾けば眉を顰めたが再び『うふふ』と笑っている。一体どういう事なんだ。と考えたが考えるのは無駄な気がした。
だけれど沸き上がるこの感情は何というのだろうか。自分自身の物ではないのだろう事は知っている。けれど――不快ではない。
淡い魔術の光に照らされる少女の顔に自然と口元がほころんだ。
悪くはない。そう思う。
「また、来てたの?」
声に視線をずらせば峰麗しい――人間離れした美貌の青年が立っていた。厳密に言えば人ではないが人と言い張っているので人間なのだろう。まことに馬鹿馬鹿しい話だ。気配を消して自分自身の後ろに立つなど人間業でも無いというのに。
そう言う自分自身は人間から逸脱してしまっているが。と軽く喉を鳴らした。
すっとベッドから名残惜しそうに立ち上がる。
「不服か? 魔術師よ」
言うと青年――魔術師は笑う。ゆったりとした動作で少女の元へ赴くと、顔を覗き込んだ。そのサファイアを溶かしたような両眼はどこまでも澄んでいる。性格は些か濁っている気がするか。
「あら、嫌ね。面白いものを見ているのに不服な訳がないじゃないの。――心配?」
「俺の心臓だ。気にするのは当然だろう? それに――まだ治療は終わってない」
魔力の炎で焼けただれた内臓は人間で治癒するのが難しかった。それがたとえ万能と呼ばれる聖女の力であったとしても難しいだろう。基本的に魔物の力とは相容れない聖女はこの少女――リオを治すことなど出来はしない。
治す事ができるのは同じ力を帯びる自分自身だけだった。
捨て置けば良かったのかも知れない。死んでも本来は関係はないのだ。自身の意に反して取られてしまった心臓を取り返すだけで良かったのに。ここまで駆けてきた自身の感情がよくわからなかった。
依り代の感情なのか。自分自身の感情なのか――。
魔術師は呆れた様に溜息一つ。その意味が分からない。
「はぁ。嘘つきね。ほとんど終わっているでしょうに。頬の火傷と裂傷は結局完全には無理と聞いたわ。だから治そうとしても無駄よ」
嘘を付いたつもりは無なかった。終わっている事は確かなのかも知れない。そうなるとここに来ることは――少女の顔を見られないことがなんとなく残念な気がした。その意味さえ分からないのだが。
相変わらず幸せそうな寝顔に視線を落とした。
「……そうか。なら、もう俺が来る必要はないな。聖女はもう出来上がったのだろう?」
まさか、そんなことになるとは思っていなかった。そうそうに潰して置けばよかったと考えるが後の祭りである。仕方のない。そして『ここ』で事を荒立てる気もなかった。
「ええ。そうね」
「なら。俺の元に来るのは時間の問題だな」
討伐にと小さく付け加える。ただそれは些かおかしなことのように感じていた。現在自身はまだ何もしていないのだ。人間にも、この世界にも。街を一つ焼くことも、無残に人間惨を殺する事も出来たがなんだか労力の無駄のような気がした。故に自身が討伐されるのは少しだけ理不尽だとも思うが……生きているだけで危険なのだから仕方ない。
魔物の長は聖なる者と雌雄を決す運命しかないのだから。そのために生まれて――死ぬ。それは悲しい事でも苦しい事てもない。生きると同様の自然な事だ。
「まぁ、俺が死ねばこれも死ぬのだろう」
そう呟いたのはなぜだろうか。そんな当たり前のことは分かり切っているはずであるというのに。自ら言った言葉に首を傾げるしかなかった。
「あら、負けるつもりなの?」
「負けるつもりはない。だが――」
勝ったとして自分自身に何の得があるのかは分からない。もちろん損得で動いている訳ではないがそれでも虚しい気がしたのだ。魔物の繁栄は喜ばしい事だ。だけれど。残った『人間』である目の前の少女の目にはどう映るだろうか。
考えても詮ない事と切り捨てる。ただ。その思考を読み取るように青い目が輝いていた。どこか楽しそうに。
「なんだ?」
「結構想いっていうのは残るものなのねって。そう思っただけよ。というか。不憫よね。リオちゃん何も気づいてないんだから。ま、幸せそうな顔しちゃって」
あら。よだれ。と持っていたハンカチで拭う。
「貴方の城にリオちゃんは連れて行かないわ――利用をしようと思ったのだけど。なんだか可哀相だし」
誰がとは言わない。視線で恐らく自分自身のことだと感じ形のいい眉を跳ねた。可哀相。そう言われる謂れはないのだが。
「盾になると?」
肩を竦める魔術師は相変わらずどこか楽しそうだった。
「ふふっ。自覚がないのは鈍すぎる。ま、今の貴方を見れば確実になるわよ」
「ああ。心臓だからな――そうかもしれない」
大真面目に言って小首を捻る。
一拍。
何度か瞼を瞬かせた後、呆れたような大きな、大きな溜息が響いた。どことなく投げやりに言葉が紡がれたのは気のせいではないのだろう。
「もうそれでいいわよ。兎も角連れて行かないわよ。怪我もあるし」
「俺としては別に構わないが、俺を殺しそびれるのはいいのか?」
別に殺して欲しい訳ではなかった。ただの疑問だ。心臓があれば用意に復活できる、とは思うのだ。そんなことをした事もないので頭の中で組み立てただけではあるが――多分できる。
「あら、そんなことをしたらリオちゃんが死んじゃうじゃない」
あっさりと言うが……魔術師はもしかしたらバカなのかもしれないと考える。心臓を残しても聖女と魔王の戦いは終わらないことは知らないのだろうか。稀代の――天才。というより恐らく人よりも長く生きている生物ではあるのに。考えながら無言で見つめていると、何よと不服気に唇を尖らせた。
美人であるが可愛くはない。ひんやりとした空気が漂う。
「もう。大丈夫だって。知っての通り聖魔がリオちゃんの心臓には混在してる。つまりずっと戦っている状態なの。こち数負ければいざ知らず、貴方が負ける分は何とかなるし、何とかするわよ」
私にできないことは無いんだからと胸を張る。ただ、弟子には叶わなかったんだけどと苦笑を浮かべるのも忘れずに。それはどこか悲しそうにも見えたが知ったことではない。
「……そこまでしてこれを生かしたいのか?」
視線を少女に戻す。相変わらず起きる気配はなかった。
「は。何をいまさら。それでも貴方は心臓を通して復活するのかな? リオちゃん殺してまで」
「俺の存在意義は魔物に繁栄をもたらす事だ。別にこれが死のうと構わないが?」
この少女だけではない。自分自身でさえ死のうと別に構わない。繁栄の礎になるのであれば。そのための魔王だ。人間の聖女がそうであるはずのように。
そのはずだ。きっと。だが心に何かが引っかかる。まるで棘のように抜けないその感情は依り代ののものだろうか。自分自身のものなのか、やはりよくわからなかった。
頭を抱え始めた魔術師を不思議そうに見つめる。そう見ていたはずだ。
「あぅ……ここまで自分自身に鈍いとホントダメよね。魔王様には人の心が分からないわ。つたく。まぁ、でも。どうせ貴方は必ずそう(・・)するのだし」
「俺が復活しないと?」
「そう言っているわ。確信よ」
一度鏡でその顔を見ればいいのに。不満げに付け加える。その後で形のいい指が少女の頬を滑り、優しく労わる様にして掌で触れる。まるで壊れものを扱うようにだ。
我知らず軽く眉を寄せた。
「ああ。貴方も、この子も幸せになれる方法があったらいいのに。そんな悲しい終わり方ではなくて」
「幸せ――それは人間が願うものだろう?」
魔物は特に願わない。願わないのでそのための努力もしないし、進歩もしなかった。生きて死ぬ。ただそれだけの生物だった。もちろん喜怒哀楽はあるし個々に違うが――総じて幸せと思える時があるとすれば――肉を喰らっている時ぐらいだろうか。
魔術師は悪戯じみた様子でクスリと笑みを落とす。
「あら
「願い」
願いなどない。そう言い切りたかった。あるとすれば――そう。願いは一つのはずだ。魔の存続。魔王が持つべき相応しい願いだ。
だけれど。誰かが、胸の奥で何かを叫んでいる気がした。空虚な心臓があったはずの場所。無いはずの心臓がどくどくと喚く。
願いが叶うのなら――。
「俺は」
その先の言葉が分からなくて戸惑った。何を言いたかったのだろう。霧散した言葉の続きはもう紡がれることはなかった。
「まぁ。いいわ。で。少しの猶予期間。何するのかしら?」
聖女が居城にたどり着くまでの猶予期間――。もちろん魔術で飛ぶことはできない。魔術で飛ぶには『目標(アンカー)』が必要であったし、そんなものは自身の城には当然存在しなかったし、この世とあの世の境目にある所に飛べるはずもないだろう。であるので多少の時間を有すし、近づくにつれて魔物の抵抗も増えるだろう。最も、魔物自体は魔王を守っているというより居場所を守っているのだが。
「貴様らが勝つような言い草だな?」
「あら、逆にすると私たちも一応猶予期間なのよ。最後のバカ騒ぎとしてお祭りが始まるくらいだし」
聖女が発つ出陣式を大々的に終えた後、人々は盛大な祭りをする。この世の春を謳歌する様に――この世の終わりを愛しむように。それは魔王と聖なるものの戦いにおいて伝える、いかなる書物にも書かれている事だった。華を飾り立て踊り狂う。生を願いながら死に怯える。刹那に生を乗せる人間の祭りは美しくも儚い――そう聞いた。それに自身が感化されるかは別として。
ただ、人の作る料理は嫌いではない。自身の生きるためというよりは味わう為と位置付けられるものであった。
「そう、だったな」
「することがないなら、楽しんでらっしゃいな。人の祭りは綺麗よ――最後だもの。如何引きこもっているだけでしょう? なら、これも連れて行きなさい。どうせこの子も暇なのよ」
にっこりと満面の笑みだ。何かを企んでいそうと言うのはどことなく見て取れた。眉間の皺が思わず深くなるのは仕方ない事だ。
「……なぜ? というか貴様が行けば」
そして別に暇ではないのだが。そう見えるだけで。
「私が行ったら面白くないし、残念ながら聖女のお守しなきゃなんないのよ。まぁ。楽しんできたらいいと思うわ」
リオに警戒されないように気を付けてねぇ。と軽く転がしながらふわりと煙のようにその場から消えていく。それを見ながら小さく口元を転がしていた。
「楽しむ、か」
相変わらずの寝顔に視線を落として見る。何の夢を見ているのが『ぐへへ。お腹いっぱい』などと幸せそうな寝言を呟いている。
魔術師が言う、楽しいという感情がよく分からない。幸せという感情もだ。だけれど見ているだけで、何かが満たされていく感情は――幸せと呼ぶものではないだろうかと思った。なぜ見ているだけで満たされるのかはとんと分からなかったけれど、それでも。と柔らかな掌を握る。年頃の少女。その手にしては硬く、剣だこが付いていたが、それでもふわふわと温かく柔らかく感じた。
この少女と居れば『楽しい』そんな感情が分かるような、そんな気がして。ゆるりと目を閉じていた。
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