前兆
夜闇ぽかりと丸い月が浮かんでいた。雲一つ。星々の瞬き一つない空。淡く照らされる庭には一人の青年が立っている。銀色の髪。深い紫色の両眼は爛々と光を映して輝いている。それを除けはごく一般的な、ひょろりとしたどこにでもいる容姿の青年だ。特徴として強いて言えば、人懐っこい笑顔を浮かべている事だろうか。
ただ。その手に持っているものは違和感が拭えない。赤い――血まみれの手は彼の血と言うわけではなく持っている物から垂れている。歩くたびに赤い道を作るそれに目を向けてみれば肉塊が鷲掴みにされている。微かに痙攣しているように見えるのは――新鮮だからだろうか。どちらにしろ尋常ではないそれに邸の門を守る兵士は慄いた。
ただ逃げるわけにもいかない。それが仕事であるし、兵士はそれに誇りを持っていたのだ。『何者』と槍を突きつけて告げれば、青年は怯えることなく再び人懐っこい笑みを浮かべる。まるで『正常』な『人間』のように。
ただ。その両眼だけ狂気を放っている。ほとんど無意識と言っていい。兵士は息を飲んてから半歩だけ後退した。
「こんにちは。僕は『リック・アース』に会いに来たんだけど? 通してくれると有難いな――ああ。これ食べる? お土産」
もちろん手に持っている『何か』の事だ。兵士は提案が理解できずに顔を顰めるしかない。何も言いたくなくて切っ先を鼻先に持っていけば『要らないのか』などと笑っている。
「そもそも。ここにはお嬢様はいらっしゃらない。他を当たれ」
「ええ。そうなの? そうなんだ――でも」
ひゅっと風を着る音。それが何の音か分からなかった。視界が歪にズレる迄は。分かったところで彼にはもはやどうにもできない。めいいっぱいに広がるのは赤い飛沫。相変わらず人のよさそうに笑っている青年。どこかで慌ただしく何かが走ってくる音。そのすべてが遠くに聞こえる。
「いるよね。心臓(リオ)ちゃんは」
上機嫌に青年はくるりと背を向けて歩き出す。門など無かったかのようにその向こうへと消えてしまった青年を視界に納めながら、兵士は声もなくその場に崩れ落ちていた。
「ついでに聖女もいてくれると助かるかな。見てみたかったんだよねぇ」
一体どこから聞こえるのか。それとも幻聴なのか。喧噪にかき消された楽し気な声はもはや誰も聞くことが無かった。
魔術には死んだ者、もしくは死にそうなの身体を保存する――というか時間を止める――術があるらしい。ただ、それは常に莫大な量の魔力と繊細な術式による管制が必要になってくるため、過去の文献に一部残る程度のものだと説明された。私たちがいるこの世界にはそんな力を持つものも精密な術式を扱える人間はいないのだから。
そう。あくまでも私たちの世界には。だ。そう聞いた。
「まさか――聖女の力とは知らなかったんだ」
まるで懺悔する様に項垂れ、両手を握りしめて弟は呟くように言った。そう。あの後。私が目覚めて起きてみれば弟、殿下。先生に、レイが雁首揃えて私の部屋に集合していたのだ。因みに空気を読まずに入ってきたリリス――久しぶりすぎて一瞬誰か忘れたが神官だ――は私に抱きつこうとして部屋の隅っこに追いやられた。いや。リリスが抱きついてきたほうがこの死ぬほど重い雰囲気を打破できるんだけど……ダメなんですか。そうですか。
私的にはあまり興味無いし、半分以上分からないのでどうでも良いんですが。生きてるな。魔術って凄いなぁ。で終わる話だ。
私に何かできるわけでもないし。戻ることもないし。
空気も読まず欠伸を噛み殺したら懺悔していた筈の弟に喰い殺さんばかりに睨みつけられて軽く悲鳴を上げるしかなかった。
「聞いてないですね。姉上」
「んん。まあ――残念としか」
「……残念って?」
仮にも淑女――自称――のベッドだ。なぜ平然と不審者――瓶底メガネの先生――が座っているのだろう。ああ。……淑女ではないからか。納得いったら悲しくなった。
促した殿下に視線を向ける。
「だって。私ではなく。――以前の私に戻ってきてるから保存してあるんでしょう? でも、私も。以前の私も戻ることはないし」
そのすべての努力は無駄だよね。と付け加えてリリスを見れば少し視線をずらした。決まりが悪そうに。そう。戻る気は無いし、私たちは戻れない。身体から離れた『私』はもはやそれに帰る術は持たない。それこそ。魔王の心臓のように強い楔か何かが無ければ無理だろう。そんなものはどこにもない。
きっと待つのは緩やかな死だと思う。
それを知らない、分からない弟では無いはずなのに。
それでも会いたかったんだろうな。と、ちよっと申し訳ない気持ちになってしまう。失敗したのは私の所為でも誰の所為でもないけれど。元々成功する確立なんて僅かだったのだし。
それでも。
「ごめんなさい。前の私に会わせてあげられなくて、ごめん」
本当にあの時は戻ってきてほしかった。皆のために。明るくて強くて完璧だという私。そしたら今とは少しだけ違う未来があったのだろうと思う。幸せな未来があったのだろう。
でも。ここにいるのが私なので仕方ない。へらりと情けない笑いを浮かべるしかない。
「でも。この私ではだめかな?」
面と向かって拒否されたら泣くけど。ダメなのはわかっている。それでも拒否はしないでほしいと思う。
「姉上。僕は」
果たして情けない顔をしているのはどっちなのか。幼い頃泣いていた弟の顔がそこにある。
「あのね。レイに力を返したげよう? 聖女様で無ければレイはここにいる意味はないから」
一瞬レイの表情が引きつったような気がした。気のせいだと思う。『可哀相だからおやめなさい』と先生に言われた――楽し気に――が何か分からなかった。リリスは慰める様にレイの背中を撫でている。
え。私が悪いんだろうか。
「……僕は――」
言葉が続かずぐっと飲み込んだ弟のそれを引き取るようにして殿下が口を開く。
「ずっとこの話し合いで難航していたんです。結論が本人に聞くのが一番だと」
「ま。丸投げよね」
どこか困ったように小さく笑う先生。それを見ながらもしかして。と考えた。この国の人間は暇だったり……。
「国王や王太子は『殺せ』派でぇ。そこの夫婦が『現状維持で何とかしたい』でしょう? レイはもちろん『力返せ』派だしぃ。私とリリスちゃんは傍観者よねぇ」
最初の二人が物騒だ。分からなくもないけれど――ないけれど。何も殺さなくても。あ。死んでるわ。私。カラカラと笑う先生を見ながら一人突っ込みをしてしまう。リリスが元気よく『はいっ。そうなんです』と答えていた。
「ああ、でも――こんな事している場合ではないのにねぇ。最近あらゆる地方で魔物の動きが活発化してて。知っているでしょう? 騎士団だって出ずっぱり。魔術師も方々駆け巡っているわ」
「なのに『こんなことで?』」
聞けばじろりと冷たい視線が突き刺さる。嫌な予感がして振り返ると殿下がいい笑顔をしているんですが。そして案の定目が笑っていない。
怖い。
「政務の間。僅かな時間での話し合いだが? 寝てないんだが?」
「あっ。はい。ゴメンナサイ」
何を謝っているんだろう。私は。私の所為でない気か……だから、怖いって。
後ろでレイも声にならない声を出しているから止めて上げてほしい。リリスは――慣れているらしい。そして弟も。私を見て『笑う』殿下を睨んでいる。それはそれで怖い。と言うかお姉ちゃんは浮気相手では――そう考えた刹那、弟がこちらにも睨みを利かせてくるのはなぜだろう。何も言っていないのに。
内心悲鳴を上げていた。
その異様な空間を断ち切るようにして先生が咳払い一つ。
「兎も角として忙しくて帰れなかったのよ。でもヒュウム君たちがいたから寂しくは無かったでしょう?」
ああ。
先生大好き。なんて心にもない事を思った瞬間である。ぶち壊れた雰囲気が心底嬉しかった。まぁ。ただ、胡散臭そうな視線は向けられたが。それでも『今』は大好きだ。うん。今は。
「私。一生ついていこうと思います」
「いや。付いてこないで。ストーカーは間に合って――」
先生は突然不自然に言葉を切って近くにあった窓へと移動する。一瞬にして糸が張りつめた空気に変わり、殿下もそれに続いた。人形のような整った横顔。それに眉間の皺が深く寄った。
不安が皮膚を撫でていくよう感覚に顔を顰める。
「どうしたんですか?」
「これは」
「うん。魔物ねぇ」
そんな『大したことないわよ』みたいなのんびりとした口調と笑顔で言われても。隣の殿下が『え』となにか言いたそうな視線で先生を見ていた。
「さ。団長が過労死する前に行きましょうか。どうせ来るでしょう? リオちゃんは」
「う、うん?」
どうせってなんだろう。行くけども。行くけどね。なんか見透かさている気がしてなんとなく納得いかない。『用意して』と促され、慌てて近くのレイピアを握りこんで揃えてあった革靴を履く。
……ふぅ。完成。
ワンピースなのでスカートが邪魔だけどまぁいいや。スカートなので可動域は広いし。邪魔だったら破ればいいかと考える。普段はこんな衣服着ないんだけども。有事に備えているから。来ているため仕方ないよね。
「行きましょう」
「え。終わり?」
「はいっ」
力いっぱい――団長へそうする様に――答えれば引きつった顔をされてしまう。最短で用意したつもりだったんだけれど何かあるのだろうか。先生は少し頭を抱えた。
残念な子。そんな視線。
「バカな子なの忘れてたわ。リオちゃん。……服を着替えてから合流なさい。その格好だと気が散りすぎる。レイ。リリス。話があるわ。殿下は先に。ベルは私と」
え。私は気が散らないんだけど、とは言えない。なぜなら風のようにいろいろな物が動き出したから。大股で指示をして歩いていく先生。『いいわね』と殿下に念押しすると扉の向こうに消えていく。半ばベルを強引に引っ張っていくように。
「あの。気が散るって?」
「うん。もしかして――下着丸出しで戦う?」
因みに今日のパンツの色は白。
私は殿下が言う――若干目を気まずそうに反らされた気もする――質問の意図は理解できなかった。軽く小首を傾げると先ほどの先生と同じような表情を浮かべられた。
なんでだ。
「はぁ。それも辞さないかと。見ても減るものではないので」
……。
……。
お風呂にも入ったから問題ないない。
「さすがに気が散る。いろんな意味で。着替えなさい」
だから何に対して気が散るんだろうか。女子(わたし)の下着ぐらいでざわめくほどメンタル弱くないと思うんだけど。騎士団は。
「でも早く――」
団長たちが心配だし。いや、多分大丈夫だろうとは思うけれど。そんなことを考えていると、殿下が口を開いていた。
「命令だ」
焼け付く様に殺気交じりの笑顔に私は間抜けな顔で『へい』と言うしかなかった。
怖い。
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