閑話 在りえたはずの未来2
あぁ。熱い。苦しい。痛い――。身体がだるい。
冷たく、かび臭い所だった。逃げる事が無いように地下に作られた牢獄は当然のように窓はなく薄暗い。魔術で作る光になど労力は掛けられないと、古くから使われている油で光を灯していた。故に暗く、一歩先は闇だ。その闇の中を軽く手を伸ばせばむき出しの土がある。壁などない。掘られたままの土だった。地面は舗装されてはいるが罪人の為にそんなことをする気など毛頭無いのだろう。
ただ――一体ここに収監されている女が何をしたと言うんだ。彼――ベル・アースは悔しい思いを滲ませた。
暗い世界にコツコツと足音だけが響く。刑務官はいない。ここに入るときに案内された男のみだった。逃げられないと知っているのだろう。そう――。
考えてベルは一つの牢屋の前で足を止めた。その白く美しい顔が軽く歪む。
もう何か月も洗っていない体臭の匂いが鼻に付く。それに紛れて血の臭いと腐臭。どろりとした何かが足元に触れたが見ずに淡い灯火を中に翳す。
「姉上」
暗い世界にうっすらと光が灯る。小さな牢獄。その奥にまるで――そう。置物のようにうずくまっていた黒い影はゆらりと揺れた。
美しい人だったのに。とベルは息を飲む。自身と同じ色の髪。自身より少しだけ薄い双眸を持った美しく優しい人だったのに。叫んで、叫んで呪いの言葉を何度も何度も言いそうになるのを堪えてその碧眼でかつての姉と呼ばれた人を見つめた。鉄格子に触れた手が震える。がちがちと奥歯が鳴る。それでも冷静にならなければと言い聞かせた。
「姉上」
それはゆっくりと顔を上げた。痩せこけた頬に張り付いているのは泥と土のようだ。頬に張り付いた金色の髪はもはや見る影もなくくすんでいる。くぼんだ皮膚から見える眼球はベルを捉えると驚いたように収縮したように――見えた。実際は違ったのかも知れない。顔の筋肉はほとんど機能していない感じでそれ以外は感情を残すことはなかったのだから。
かつて美しかった姉――リック・アースは襤褸を着せられ足を拘束されその目に光なくベルを見つめていた。その目は焦点が合っていない。ベルを認識しているのか如何かも怪しかった。
締め付けられる思いでベルは喉鳴らし、ほとんど呻くようにして声を発していた。
「どうしてこんな事にっ。姉上。まって、今すぐに逃がして見せるから」
リック・アースは大罪人である。そう言われたのは約半年前。その間に家は取り潰されてベル両親は処刑された。迅速に――アース家の責を取る形で。ベルは未成年だったと言うこともあり処刑は逃れたが、屋敷に軟禁され国外追放がついこの間決定したばかりだった。何がなんだか分からなかった。姉にも会えず、居場所さえ知らされず、必死の思いでようやくここを探し当てたのだ。もちろん軟禁状態のために監視を振り切ってきたことは言うまでもないが。幸いここの刑務官がベルの顔を知らなかったことは幸いした。貴族然としたベルが『確認したいことがある』と言えば面倒そうに通された。
こんなことって。こんなことは――。
ふいに涙が零れてくる。どうして姉ばかりなのだと。幼い頃から何も与えられなかった姉。別館に一人閉じ込められていた。ただ、ただ不貞の子と言うだけで。それでも姉とベルはよく似ていたというのに。
よく泣いていた。ただ本当は泣いているだけの子供であったと言うのに。どうしてこんな事になってしまったのだろうか。
どうして――国王を殺すとなったのか。ベルには理解できないし、姉がしたこととは思えなかった。むしろ何もしていない。そう信じて疑わなかった。
そして仮にも王太子の婚約者であった者だ。ここまでの虐待を受ける謂れなどない。近くにあった石を鉄格子に投げるが反射するだけでびくともしない。ベルは表の刑務官を殺して鍵を奪おうと思い立つ。
『あんな』人間は生きていても無駄なのだと。だから殺してもいいと結論付けた。最も人など殺したことはなかったし、文官希望だったので剣すら握ったこともない。けれどすべてどうでも良かった。どうでもいい。こんな世界など。
「まっていて姉上」
そうと決まれば。身を翻すと、弱々しく『待ちなさい』と声が響く。まるで蚊の鳴くような声。それでもベルの耳に明瞭に届くと弾けるように振り返った。
「ベル」
先ほどよりも強い光が灯った双眸は確りとベルを見つめている。
「姉上っ――待ってていてください。こんな所すぐに」
鉄格子があるのが非情にもどかしく悔しい。ベルは可能な限り鉄格子に張り付いて隙間から手を伸ばす。ただ、その滑らかな手に姉の鶏がらのような細く、汚れ切った手が乗ることはなかった。
「いいえ、いいえ。帰りなさい――ここに来てはいけないわ。私に関わってはいけない」
鈴の鳴るように美しかった声は掠れ切っている。ベルはこんな所に一分一秒でも置いておくわけには行かなかった。こんな所ではすぐに姉は死んでしまう。助けに来たのになぜ『帰れ』などと言うのか理解できなかった。ぐっと大きく唇を噛んだ。
「こんな所。姉上のいる場所では――」
「いいえ。ここが私の居場所なの。ベル。私は――私にはもう解けない呪いが埋まっています。ここにいるしかないのです……ここにいれば」
殺さなくて済む。
ぽつりと少しだけ安心したような表情を浮かべる姉が理解できなかった。ほころんだ口元は昔のよう。まだ幼かった頃いつだって庭を走り回っていた少女を思い出す。
だけれど、ベルには理解できない。なぜ姉がこんな所でそんな不釣り合いな表情を浮かべるのか。どう考えても受けているのは虐待以外のなにものでもなく――ベルにはそんな事が耐えられなかった。
苛立ちと悲しみ。受けた拒絶から自分自身に感じる怒りでベルは我知らず叫んでいた。『嫌だ』と。それはピリピリと地下に反響する。恐らくは出口まで何らかの音を持って聞こえたのではないだろうか。
姉の――リックの手が確りと鉄格子を握りしめるベルの手に重ねられた。少しだけ躊躇を見せたのは自身の手があまりにも黒く汚れているからだった。
「ベル。会えたことは嬉しい。嬉しいわ。本当よ。可愛い弟」
「姉上――一緒に……」
震える声にリックは軽く頭を振る。
「ダメよ。先ほども言ったように解けない呪いがかかっているの。だから行けない」
どんな呪いなのか。何の呪いなのか。説明することはない。ただ少し笑うのみだ。それがベルには悔しく思えた。頼ってすら貰えないのかと。
でも如何か。と願う。
「解いて見せます――何年かかっても。だから」
一緒に。
かつかつと誰かがこちらに向かってくる音がする。先ほどの騒ぎを聞いた刑務官だろうか。けれどベルにはどうでもいい。ここで捕まろうと大好きなリックが一緒でないのなら。
リックは困ったように眉尻を下げて考えると『ああ』と声を上げた。いい案を思いついたとばかりに。ただ。大抵ろくでもない案であることは昔からよく知っている。
「なら。ここで待ってるわ――死んでも待っているから」
来てくれる事が一番いい案なのに。一番ダメな案を提示してどこかご満悦なリックは言い切ると弾けるように走ってくる男たちに目を向けて『早くいきなさい』とベルを促した。
「絶対に待っているんだから」
死んだって。待ってる。だから――。
生きて。
冷たく細い手はベルからゆっくりと離れて地に落ちた。力なく崩れる身体。その両眼は意識が途切れてしまったかのように光など灯っていない。乾いた薄い唇はうわごとのように何かを言っていたがもはや言葉にすらなっていない。
苦しい――悔しい。悲しい。
逝かないで。
そんな想いを嚙み殺してベルは顔を上げた。『待っている』姉がそう願うのであれば意地でもその呪いを解こうと。絶対にそれまで生きて見せると心に誓いベルは身を翻していた。
ポツリそこに涙をひとかけらだけ残して。それをリックの虚ろな目だけが捉えていた。
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