恋心の記憶

 彼は何も持っていなかった。記憶も、名前も。持っている物があるとすればそう、自身は『魔のもの』を統べる物なのだと言うことだけだった。賜った力は誰よりも強い。それは魔の物の王たるものには相応しく、彼が名実ともに『魔王』と呼ばれるのはそれほど時間がかからない事だった。


 歴史すべてが示すように人の世に踏み入れようとした刹那――ようやく彼はあることに気づく。


 心臓が無いと。基本――魔物は臓器が無くとも生きていけるが心臓だけは別だ。魔力の源であり、生命の維持に必要なものだ。ただ、それは身体の中に無くては無いものではない。一部の魔物は取り出して隠している者もいるという。そして必ずしもそれは人が言う『心臓』の形を成していないものだった。彼自身自分の心臓がどういうものか分からない。しかしただ一つだけ言えることはそれを人間に……聖女に握られてしまえば瞬時にして消滅するだろうということだ。


 幸いにしてと言っていいのか彼には分からないが心臓と魔力は繋がっている。


 それが指し示すのは人の世だった。


 焼き払ってしまおうか。そうは考えたのだ。世界すべてをすぐに焼き払うことは出来ずともそれは彼にとって造作もない事であったし、いずれはそうするつもりだった。増えすぎた人間は毒にも薬にもならないのだから。自分たちには少しの糧さえあればいい。


 そう思っていたのに。と彼は口元を歪める。どこか楽しそうに。面白そうに。


 壊す前に人間の街を散策するのは楽しかった。元々依り代が人間――しかも子供――だったことも関係するのだと思うがこんなに楽しいとは思っても見なかった。いろんな物を見、食べて、話す。まるで自身が物語の中にでも迷い込んだようだった。


 だからと言って燃やすことにも壊すことにも殺して屠る事も何の罪悪感も覚えないが。それは本能で、圧倒的に考え方物の見方が違うためだ。もったいないかも知れないと思うことはあっても止めようと思うことはない。


 子供の姿――依り代の姿――をしていれば何かと気にかけてくれる大人は多く焼き鳥から始まって綿あめまで渡される。そんな事をしているうちに、彼は小汚い少女達――いや、一人の少女に目を止めた。


 ドクン。と無いはずの心臓が収縮する。次になぜだか感情の波が押し寄せてきていた。理解できない。制御できない。意味が分からない。


 苦しい。悲しい――嬉しい。嬉しい。


 何度もこだまする想いが誰のものか分からず戸惑ったが混乱する頭でよくよく考えてみれば――依り代の物だと当たり前の事に気づいた。記憶などない。自我なんて遠く昔に崩壊した小さな少年の想いに彼は口元を歪めて笑うしかなかった。


 笑うしかない。だが――どこかで羨ましいと思ったことも事実だった。魔物は番を持つことはない。性別もなく、子は単独で産むことができる。愛も、恋も、家族もない。ただ、人を喰らうためだけに生まれてくる生物だった。その中で魔王だけが特殊であることの意味は分かりはしなかったが。そう言う事もあって羨ましいと思うのかも知れないと頭の中で結論ずける。出なければその感情を彼自身が持て余してしまいそうだったから。


 (心臓を与えるなんて殊勝な事をしてくれたものよ)


 目の前に立つ少女はごく普通に見えた。特別な物は何もない。街に溶け込めば平然と消えてしまうような存在感の無さ。だけれど――ああ。と納得したように息を吐く。


 人が通常その身に魔物の心臓など宿せる筈がないのだ。


(死んでいるな。この女。それを生かすため――いいや。違うな。俺の心臓を『要』として使ってるから……魂を固定しているのか)


 それが彼には誰の魂か分からない。魔を統べる者とは言え、そこまでの観察眼は持ち合わせてはいなかった。にしても凄い執念だと考える。子供が一人でそれだけの事を成したとは到底思えなかった。しかもそれほど時間はなかっただろうに。称賛を送るべきだろう。――送るべき相手はもはや闇の中であるが。


 だからと言って、心臓を諦めるという選択肢など毛頭ない。


「抉りだしても構わないか?」


「そんな事を聞いて差し出すバカがいると思う?」


 ぐっと足に力を入れて軽く構えた。切っ先はピタリと彼の眉間に標準を合わせられている。指されても脅威一つにならないそれを見つめて溜息を零す。それからちらりとみすぼらしい暗い感じの青年に目を向けた。


 魔術師だ。恐らく高位の。先ほどから何か魔術を練っているようだ。ただ邪魔をしなかったのはどんな魔術なのか気になることもある。そしてそれを簡単に打ち破ればどれほど楽しいか分かっていたからだ。絶望に染まる色が見たい。


「もう俺の正体知っているだろう? わざわざ姿だって見せんだ。従った方が賢いと言っている」


「あら? クソガキでしょう?」


 大変。私の生徒だったわ。保護者様に知られたらまずいわ。嫌ね。とわざとらしく零している。分厚い眼鏡で表情は読めなかったが、確実にこれだけは分かる。


 正体を知っていて――もしくは気づていてもなお怯えも恐れも見せていなかった。よほど高慢で低能な魔術師なのだろう。そう結論付けて彼は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らした。ちらちら視界の隅にいる聖女は正体が分からなくとも、恐らく何も感じていなくとも剣呑な雰囲気に怯えているというのに。


 (本当に今代は俺が勝てそうだな)


「そうか。なら――」


 彼は小さく宙へ視線を流すとそこから突如として炎が無数に現れた。まるで鬼火のように。視線を少女――名前はリオだったか――の後ろに流すとまるで矢のように炎が流れていく。しかも高速で。


 標的は。


「だめっ」


 叫んだのはリオだった。弾けるように身を翻すと『先生』と叫ぶ。何を言うでもない。リオは長い脚で地面を蹴ると瞬時に加速した。『先生』と呼ばれた男の術だろう。炎を通り越して標的――年老いた女の前に。庇う様に立ったリオは炎を前にしてレイピアで切り裂いていく。


 火が頬を焼こうとも。髪を焦がそうとも。それはなんだか――。と考えて彼は頭を捻る。その次の言葉が思いつかなかった。


 ともかく気を取り直して標的を替えても同じで。複数にと考えた刹那だった。


「リオっ――剣を投げなさい」


 叫んだ声に彼は我に帰る。リオはどこにともなんにとも言わなかった。炎を身体に受けながらレイピアを思いっきり投げた。相当離れたはずだ。であるのに勢いのあるそれを見ながら――いや、リオの双眸を見ながら彼は笑った。


 楽しかったのだ。面白かったのだ。


 がりっと足元に剣が刺さった。そこから現れるのは幾何学模様を描いた光の環だ。一つ一つの記号に意味があり効果がある。魔法陣と呼ばれるそれは人が使うのは珍しくよくよく見ればその幾何学模様の中に浮かぶ文字も人の世の物ではない。少なくとも『まだ』だ。


(なるほどね)


 記号の効果の一つ『拘束』を読みながら彼は口元を歪めた。こんなものなんてことはない。壊そうと思えば簡単に抜けられる。しかしと視線を青年に向ければ青年は口をへの字にしてこちらを見つめていた。


「お前そっち側につくのか?」


「あら? 私は人だもの。人ができる範囲で協力するわよ」


 つまり人ができない範囲はしないということだ。それの結果で滅んでも別にいいと言っているようなものだった。こちらに来ないのは残念だと思うがそうであれば仕方ない。


 彼は溜息一つ。近づいてきたリオに目を遣った。びくっと一度だけ怯えたように肩が揺れる。だがその双眸は次の動向を図るように冷静に見めていた。


 その視線がくすぐったくて嬉しく感じるのは自分自身の感情ではない――と信じたかった。


「ならば――それを殺すな。殺さずに俺の前に差し出せ。それでこの場は退いてやろう」


 要は心臓を砕くなという事を言っていた。卑怯な真似はするなと。


「なら、初めからから言わなければいいのに」


 嬉しそうに。と呆れたように付け加える。そうだったかもしれないと彼は頬を軽く緩める。そうして第二の記号に目を向けた。


 『転移』だ。


「分かったわよ。そんなことしないわ。私はいつでも正々堂々。それが基本だもの。ねえ。リオ」


「え」


 リオの戸惑いの言葉からは不安しか感じられない。信用などはどうやらされていないみたいだ。ただ青年はそれを気にすることは無いだろうと考えた。


 にしても面白い。


「俺も約束しよう。心臓が無事であれば俺自身も動くことは無いだろう。貴様らを待つ」


 果たして聖女がたどり着くかは些か不安ではあるが。途中で死んでも構わないが――新しい聖なる者が来るまでには時間がかかるだろう。その間に魔物に蹂躙されるのは目に見えている。それで大丈夫なのだろうか。と心配する義理もないので黙っておく。殺りやすくこの聖女が来ればいいと思っているのも事実だが。


「あ――そういうのいいか。行くなら早く行ってよね。貴方の大好きなリオは守るから」


 聞いていたのだろうかとジト目で見返す。


「心臓だが?」


「同じじゃない」


 どの辺が同じなのかと言いたかったがその時間はないようだ。淡い光に身を任せる。キラキラと輝く視界。その隅にリオの姿がいつまでも、いつまでも見えているようなそんな気がした。

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