別離
――どう思う?
誰もいなくなった乱雑な部屋で彼は特に座り心地も良くない椅子に深く腰を掛けて息をついていた。さらりと流れ落ちる白い髪。サファイアを溶かしたようなどこまでも澄む青い双眸はぼんやりと天井を眺めている。美しい唇から漏れる大きな溜息はどこか憂い気で、その姿を初めて目にしたものは一瞬で心を捕らわれてしまうだろう。長い指でコンコンと考える様に机を叩いた後、近くにあった厚底眼鏡を顔に掛けた。別に視力が悪い訳ではない。ただの伊達眼鏡。ただ、彼の容姿を隠すために一役買っていたのでほぼ癖のように子供のころから毎日つけていた物であった。逆にいうとそれが無ければ落ち着かない。
いくつになっても。
「いるのでしょう? ミオ」
薄い唇で言葉を紡げばゆらりと応えるように空間が揺れる。普通の人間であればそんな揺らぎなど気づくことないだろうそれに彼はゆるりと視線を向けた。
静かに扉だけがたたずんでいる。何もない。誰もいない。見る人がみれば気が触れたのだろうか思うだろう。けれど彼は確信めいたものがあった。そこには彼だけが感じられる独特の気配のような物が漂っていたからだ。
「ミオ」
低く響くような声。少し待ってみれば諦めたような溜息が彼の耳に届く。空気に乗っている訳でも無いそれは彼だけの耳に届いていた。
『失敗するでしょうね。あの子――死ぬわよ?』
張りのある若々しい少女の声はどこか憤っているように聞こえる。――やはり姿はない。それが少し寂しく思えたがこうして声を聞こえるだけでも有難く、嬉しい事だと彼――ジャベルは思った。
それが本物では無く虚構の物だとしても。
「あら、非難しているのかしら?」
『している。分かっていてやっていることに腹を立ててるわ。師匠にも、あの王太子様も――貴方たちはあの娘に死んでほしいのよね?』
言われて苦笑を浮かべるしかない。ジャベルはすっと視線を外に向ける。それはどこか罪から逃げる様に。
朱に染まりかけた空。それを見ながら先ほどまでここにいた少女に思いを馳せる。何の罪もない。何も分からない巻き込まれただけの少女は喘ぐように笑っていた。それはとても痛々しいほどに。心が揺らがないわけではない。助けてやりたいと思わない訳ではない。昔からその容姿の所為で『人ではないだろう』なんて言われてきたけれど立派な人間だ。少し。少しだけ人の部分が少ないだけで。
……あれ。それって人では無いのではなんて思ったけれどどうでもいい。
「まぁ、戻るにしろ、失敗するにしろあの子が死ぬのは確かね。その後の結果が違うだけで。どちらにせよ――国が。世界が救われるのよ。劇的にね」
この世界の人々は――聖なるものを望む。そうすれば『暫く』人は魔物に消費されなくて済むから。怯えず、屈せず。平和に生きたい。たとえ刹那の出来事でも在ろうとも聖なるものが要ればそれが可能なのだ。ジャベルだって仕事が少なくなるのは嬉しい事だと考える。――仕事をしているかは別にして。
少しだけ思考がずれているのは致し方ない。ジャベルにはその程度だったりするのだ。
「こんな機会は滅多にないわ――あの子は申し訳ないけれど」
カチカチと時計の音だけが煩く耳に届く。いるか、いないか分からない気配を揺らしてミオは呟いていた。どこか苦しそうに。震えているような気さえする。
『……あの人は聖なるものではないわ』
どこか叫びにも似たように響く声。それと同時に気配が霧散していくのを感じていた。逃げたのだろうか。
ジャベルは椅子に深く腰を掛け瞑目する。独り言ちる声は誰も聞くことはない。
「――ええ。知っているわよ。そんなことは」
言葉は静かに空間に響いて溶けていった。
――期限は一週間。それまでにいろいろ整理を付けたほうがいい。
そう言われて早三日。
……普通に暮らしてしまった。弟にはあの後泣かれて――泣きながら怒るという芸当を見せられ――何とかなだめすかして、大丈夫と連呼して毎日一緒に眠るという……なんだろう子供返りしたような状態になってしまった。それはそれで姉得な気がするけれど。私は昔のように姉弟で一緒の布団は嬉しかった。
にしても『挙兵でもしようかな』なんて無表情で言われた日には背筋が凍るかと思った。それだけの力と財産がある公爵家怖い。でもさすがに両親が止めるはず。だと思う。それに。と私は思い出す。
――会いたいでしょう? そう零した言葉に弟は痛ましい顔で黙った。『私はお姉ちゃんなのだし。頑張るよ』と伝えればまた泣きながら怒った。うん。難しい。
一方で話を聞いたのか駆けつけてきた殿下は『済まない』とずっと項垂れていた。この世の終わりか程度には。大丈夫なんです――と励ましても復活しなかった。いや、消えるの貴方ではないので私以上に落ち込むのは些か迷惑なんですけれど。お詫びとして何をすればいいと聞かれたので笑顔で帰ってほしいとお願いしておいた。
別に謝って欲しい訳ではないのだけれど。
「別にぃ、いいけど」
投げやりに呟いて、溜息一つ。久しぶりに来た初等部は驚くほどいつもと同じで――うん。すがすがしいほど誰も寄ってこないなぁ。もうすぐお別れなのに。イブ以外の友人出来なかった。今更友達作ろうとしてもなぁ。いや。友達作りに来たわけではないしと脳内で言い訳すればするほど悲しくなってくる。
考えながら机に突っ伏すと、珍しくイブが『なにしてんの?』と前の机に座る。椅子ではなく机。その理由は私と目線を合わせるためだろう。
顔色もいい。いつものように少年らしい可愛らしい顔つきだ。問題ない。私がいる間にどうこうなる気はなさそうだなと安心する。その視線に少し照れた様にして視線をずらした。
イブとは王宮に行った三日後。二日前に会ったのだけれどなんとなく自身の事を言いそびれていた。お別れ言うつもりでお家を訪ねたのだけれど凄い歓迎されたせいかもしれない。楽しい所に暗い話をもって来るのはなんだか気が咎めた。おまけになんだか『ウチノヨメ』認定貰えたし……。何それ。兎も角凄い事らしいとお父様――酔っ払い――は言っていたのでそうなのたろう。言ったことが違う――とイブは終始顔を引きつらせていたが。
因みに殿下にバレたら一家ともども消されるらしいので黙っているようにと言われた。イブに。何か知らないけれどそこまで心狭くないだろう。うん。
「イブこそ」
イブは私みたいに友達がいないわけでもなくて。というか沢山いる。クラスの子は皆友達みたいな雰囲気だ。私にも紹介を――ではなく。そのためか私と遊ぶ時間は昼休みぐらいで。皆の手前か何なのかあまり声を掛けてくることも無かった。
イブは少し照れたように頭を掻いた。
「いや。俺んち来た時なんか話があったのかと思って――ずっと待ってたんだけど言わないし……気になって。ほら、父ちゃんの前で大人しかったし。いつもだったら――」
「私。魔術使えないんだって」
イブは驚いたように目を見張った。
本当はそんな事を言いたかったわけではないけれどなぜか躊躇うのはなぜだろうか。もう少し。そう願う。私は小さく笑って見せた。なんでもない事のように。
時間がないのは分かっていたけれど。
「え?」
「まったくもってダメだってさ。素養が無いって神殿で。まぁ。世の中使えない人の方が多いから別に良いんだけどさ」
溜息一つ。
「でも、さ。あの。記憶が無くなる前は」
稀代の魔術師――そんな人間が魔術を扱えなくなるなんて世間が知れば信じないだろうなと思う。
「だよね。不思議だよね。凄かったはずなのに。私」
まぁ私自身は凄くも何ともない。そもそも別人で魔術が使えないのはデフォルトのようだし。
イブはうんと考え込むと真剣な表情で顔を上げた。
「あの変なポーズの練習は?」
一瞬何を言われているのか分からなったけど、分かってしまえば悔しくなる。慌てて声を上げていた。
「変じゃないし。かっこいいポーズだし」
いやでも――と呟いているのが聞こえているけど変なポーズと思っていたのだろうか。なら教えてくれればいいのに。かっこいいポーズを開発するから。というかもう遅いのだけど。
でもこれまで開発したポーズが勿体無くなって真剣にイブを見る。
「あ。なんなら伝授をしようか? これでイブも疑似魔術師」
「やだ。恥ずかしいし」
即答。酷い。格好いいのに。イブとは感性が合わない。そんな事をぷりぷりしながら考えていると予鈴が鳴ってイブはすとんと机から降りた。ふわりと揺れる亜麻色の髪。深紅の双眸が細められて『じゃあ』と笑いかける。
「――またね」
私がいうとピタリと身体を止めて視線だけを寄越す。暫く考えあぐねていたが『くそ』と小さく意を決して私に向き直る。
喧嘩でも売りに来ているのだろうかという睨まれっぷり。だけれど顔を真っ赤――耳まで――にしている事と些か涙目なのが違うのだと感じさせた。でも知っているだろうか。その顔は破壊力満点ということに。……え。将来が怖い。
何。この天使。――まぁ本人に言えば怒ってくるので言わないが、私の視界に入っている女子は唖然としているのが見える。
言いにくそうに口を一度開いてぐっと押し込み、再び開いていた。
「あの……その。気を落とすなよな。俺だって魔術なんて使えねぇし。皆使えねぇのが普通だし――誰も気にしないし。そのままでも……」
何かを言いかけて――それを遮るように鐘がなる。慌てて踵を返すと自身の席に戻っていった。隣の生徒に何か揶揄されているように見えたが一瞥しただけで無視している。
見てた女子の視線は一挙に集中。それにはまったく気づいてないようだ。怖い。将来が。
兎も角として。
どうやら励ましてくれたらしい。優しい友人。後で甘いものを送っておこう。出来れば一年分。屋敷から毎日送ってもらおう。それくらいは弟も叶えてくれると思う。……嫌がらせでは無い。イブは甘いものが好きだし、太らないと本人は豪語していたのだから。
むしろ叶えてくれなければ呪ってやるわ。
小さな友人の為に私ができることと言えばもうそれしかない様な気がした。
――貴方の未来に幸在らんことを。
その夜遅く。雨が強く降り始めたころ。私の元に訪れたのは護衛を伴った神殿からの使い――リリスだった。
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