失踪1
――何かいいことあったのか。なんて聞かれてイブは顔を上げていた。手で持っていたのは帰り道に友人がくれた似顔絵。とは言え謎の生物が描かれているだけなのだけれどそれがイブにはとても嬉しく心が踊るようであった。なぜこんなにも嬉しいのか自分ても分からない。なぜだろう。考えても答えは出なかった。
「それは――何というか不思議な……犬?」
餌を覗き込んで訝し気に母親は尋ねる。自身によく似た面差しの母親は世間でも美人と評判だったが、イブにとってはただ口うるさいだけの母親だ。まぁ、嫌いなわけではない。――というか好きに決まっているのだけれどそんなことは声に出しても言えない。なんとなく悔しい。
「俺だって。描いてくれたんだ」
誰にとは聞かずに嬉しそうなイブを眺めて母は似顔絵を手に取った。
「髪の辺りかねぇ? ねぇ、あんた。これイブだって」
近くに座って新聞を読んでいた細面の父は母からその似顔絵を貰うと『ふぅむ』と眺めた。亜麻色の髪、深紅の目は父から譲り受けてものである。魔術師と呼ばれる職業に付いている父は多忙だ。最近は特に。不在のことも多いが寂しくはない。イブに取っては父が誇りのようなものだった。魔術師はこの国を護る魔術障壁を展開している。それは人を護るため。世界を護るための職業だったからだ。
ただ、久しぶりに見る父の顔はどこが疲れがたまっているように見えた。
「ああ。素敵だね。件の彼女が?」
「うん」
父は嬉しそうに言うイブを眩しそうに、どこか悲しそうに見つめた。その意味はもちろん分からなくてイブは軽く小首を傾げる。
「そうか。成長とはいいものだよね。ね。どう思う? マミヤ」
母は名を呼ばれるとすっと似顔絵奪いイブに返す。
「過保護な……傷付くのも成長じゃないか。今更守りたいなんて、なしだよ。なし。アンタは。心を守り切ることなんて不可能なんだ。後は私らのフォロー次第さね。この子の両親なんだからさ」
父の言葉にどれほどの言葉が隠れていたのかイブには到底理解できなかったがさすが夫婦と言うべきなのだろうか。分かったような表情で母親が苦笑を浮かべると『済まない』と力なく父親が呟く。どうやら心配はしていることはなんしなく分かったのだけれど『何』を心配しているのかまでは分からなかった。
立場だろうか。こちらは平民――魔術師と言う立場なので少しだけ違うが――と貴族だ。
「リックのことなら大丈夫と思うよ。俺、失礼なこと公爵家でしてねぇと思うし」
公爵家ではと大きめに伝えてみる。リックはまぁリックだ。何も考えていなさそうな笑顔を浮かべて思わず笑う。おかしなことに幸せになれるのはなぜだろう。
父は溜息一つ。
「……あまり言いたくはないが」
「あんた」
止める母を父は一瞥した。そうして真っ直ぐにイブを見つめる。何か大切な事だろうかとゴクリ唾を思わず飲み込んでいた。
「リック嬢はいずれ、きっと『帰る』そうしたらおまえは忘れ去られるだろう。本来彼女は私たちとは別世界の人間だ。それは覚悟しておきなさい――それでもいいと言うのなら。一度紹介してくれるかい? おまえの可愛い友達を。確か魔術を教わりたいと言っていたね?」
前半。イブには何を言っているのか理解できなかった。それは理解が追いつかなかったというのもあるが、理解したくなかったと言うのか主だったのかも知れない。いずれにしろイブは前半をすっ飛ばして後半の言葉に笑顔を浮かべていた。それに困ったような顔を浮かべる父を無視して。その横で母が『ほら見なさい』なんて父を横目に見ていた。
「絶対? うん。あいつ喜ぶとおもう」
「そ、そうか。それなら――って。待ちなさい。どこに行くんだ?」
まさか今から。という言葉に『うん』と返して走りだそうとしたのを母に身体ごと捕まれる。イブは不満そうに母を見上げた。
「報告に行くんだよ」
何か問題でも。そんな顔に母はぎゅうとイブの柔らかい頬を摘まむ。痛くは無いが止めてほしいと抗議をしようとしたがさらに顔が険しくなったので口を噤んだ。
「明日でいいでしょうが。――日も暮れて危ないったらありゃしない。いつも言い聞かせているだろ? 日が暮れたら家から出ないようにって。なのにお前はいつも、いつも」
この国の首都で、王宮が鎮座するこの城下町は比較的に安全が保証されている。であるので子供が一人でどこに行ったってまず害される事はない。小さな悲鳴一つ聞き逃すことの無いように魔術師が魔術で見張っているのに加え、治安部隊が優秀であるためだ。おまけに街全体の結束が強く、些細なことでも――たとえ夫婦喧嘩でも――誰かが割り込んでくるという風潮もあった。それでもやはり起こるべくして犯罪は起こってしまうが――それでも平和な方である。
しかし。夜は魔術師の力は格段に落ちる。個人の問題ではなく全体的にだ。人は眠り、闇がうごめく。何があるのか。一寸先は闇のような世界に代わってしまうのだ。治安部隊も働いてはいるが――未然に防ぐことは無いに等しい。いつだって後手に回る。因みに言えば母はその治安部隊の一員。本日は非番――休みである。
まぁ。イブに取っては寝耳に水だが。ちょいちょい家を抜け出しているイブはそれほど怖い目にあったことはなかったのだから。
「え。言ってすぐ帰るだけだし」
「バカ言わない」
「そうだよ。お母さんの言う事を聞きなさい。――ましてや貴族街に行くなんて。貴族と関わりになるものは狙われやすいんだ。お前はリック嬢に心配をかけたいのか?」
「そんなこと無い、けど。でも、あいつこのこと知ったら喜ぶし」
するすると手際よく母の身体を抜ける。もう慣れたものだ。母には逃がすまいと腕を握られてしまったが。そうされては子供の力ではどうしようもなかった。何とかして、体いっぱいで振りほどこうとするがびくともしないことに不貞腐れる。そのことに母は満足げに微笑んだ。
「はは。私とアンタじゃ鍛え方が違うのさ。もっと鍛えな。お姫様を守れもしないだろう。そんなちびっこだと」
「――っ」
ふとリックの周りにいる年上の男たちが羨ましく感じた。いや――妬ましくと行ったほうがいいのかも知れないがその判別がイブには分からない。よくわからないまま勢いで母親の手を振り払う――そんなことできるなんて思ってもみなかったが――と慌てて踵を返していた。
小さな身体。細い手足。リックにも届かない身長。そのどれもが悔しい。子供であることが嫌だ。そうしたら――。
そうしたら。
その先の言葉が思い浮かばない。ただイブは両親の制止にも振り返ることなく闇夜に駆け出していた。自分がどこに行くのか――リックの元に行きたいのかもはやそんなことすら分からないまま。混乱した頭で駆け出していた。意味はない。そんな事を頭の中で乾いた自分がせせら笑っているがイブ自身にもどうしようもできなかった。
はらはらと似顔絵が床に落ちる。それを拾い上げる者はもう誰もいなかった。
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