第二章 いろいろと欠けている女たち ~第一節~
受付を完全スルーして広いロビーを横切り、エレベーターに乗り込んだ
「……それ、意味あるの?」
かたわらに立つすみれの視線が自分の横顔にそそがれているのが判る。
「そのシャーペン、芯なんか入ってないでしょ?」
「このクリック感と音が好きなんですよー」
正確に一秒刻みにノックするのは、幼い頃からの純の癖だった。合理主義者の彼女にもうまく説明できないのは奇妙な話だったが、なぜかそうすることで純の心は落ち着き、思考も澄んでくる気がするのである。
「てっきり苛ついてるのかと思った」
「苛ついてるといえば苛ついてますけどねー。……せっかくここに搬送されてきたのに、わたしが診る前に転院させちゃうんだもん」
「それは……仕方がないんじゃない?」
「だからせめてジョニィに文句くらいいいたいじゃじゃないですかー」
「ジョニィ?」
「
「……あなた、身内にまでヘンなあだ名つけてるの?」
「ヘンじゃないでしょ」
「少なくともすみすみはヘンだと思うけど」
「そこは感性の違いですねー」
この
「ジョニィ!」
ノックもなしに純が院長室のドアを押し開けた時、榎田丈太郎は大きな机の前に陣取り、誰かと電話していた。
「……いえ、大事なくて何よりでした。それではまた後日」
勝手にソファにふんぞり返った妹を睨みつけ、丈太郎は早々に電話を切って受話器を置き、聞えよがしな溜息をついた。
「申し訳ございません、院長」
戸口のところに立ったまま、すみれが頭を下げる。
「いえ、
「そうそう、すみすみは悪くないですー」
「おまえがいうな。ここへ入る時にはノックしろと何度もいってあるのに、どうしていう通りにできない? そもそもまずは受付を通せ」
「ジョニィはここへ父さんが来たら受付で足止めするわけ?」
「それは……」
「だったらわたしも受付に話を通す必要ないですよねー」
ポケットから取り出したチョコボールを口に放り込み、純は平然と笑って広い院長室を見回した。
「――だいたい、ほかに誰もいないんだから気にすることないでしょ?」
「来客中でなくとも、私は電話中だった」
「じゃあ電話の相手にも、今度から私をジョニィと呼んでくださいっていえばいいと思います」
「おまえな……」
銀縁の眼鏡を押し上げ、丈太郎は立ち上がった。
天才肌で奔放なところのある純に対し、兄の丈太郎を真面目な秀才タイプと評したのは、純をここまで送ってくれたすみれだった。もっとも、すみれにいわせれば、それは絶対的に純のほうが丈太郎より上だという意味ではなく、たとえ天才性では妹におよばなくとも、医師としても組織を束ねる人間としても、明らかに純よりは丈太郎のほうが上なのだという。
「すみれさんもお座りください」
「はい」
純とすみれに向かい合う形でソファに腰を下ろした丈太郎は、大きな封筒を妹に差し出した。
「どうせ昼間かつぎ込まれた女子高生の件で来たんだろう?」
「そこまで判ってるならどうして転院させるんですー?」
「もう聞いているとは思うが……高梨さんといったか、あの子のご両親も病院を経営なさっているんだ。自分のところの病院で治療したいといわれれば、よほど重篤な患者でなければ断りにくい」
「ということは、彼女は……?」
「ええ。一時は呼吸が止まって意識もありませんでしたが、ここへ来た時にはもう目を覚ましていました。各種の検査もしましたが、やや貧血気味であることを除けばまったくの健康体でしたし」
兄とすみれがやり取りしている間に、純は封筒の中の書類に目を通した。
「貧血ねえ……」
「本人に問診したところでは、最近はかなり食事制限をして体重を落とそうとしていたらしい」
「どうしてそこまでして痩せたがるんだか……だいたい、この身長と体重ならダイエットの必要はないはずですけど?」
「純さん……それって切実な問題なのよ? いつも自分は太ってるんじゃないかって強迫観念に襲われる子もいるんだから」
「すみれさんのおっしゃる通りだ。今の若い子はスリムなモデルや芸能人を見て、それを理想とすることがままあるからな。……おまえには縁遠い感情だったろうが」
「はいはい、お好きにいってくださいねー」
高梨まひろのカルテを封筒に戻し、純はまたチョコボールを頬張った。
「――まあ、いなくなったものは仕方ないです。それで、ジョニィの見立てではどうなんですー?」
「見立て? どういう意味だ?」
「救急隊員が蘇生に成功しただけで、この子が“死んだ”ことには変わりないわけですよねー?」
「それは……一時的な心肺停止におちいったのは事実だが」
慎重に言葉を選んで答えた丈太郎は、眼鏡を押さえて怪訝そうにつけ加えた。
「……その短時間の間に、彼女が異世界に飛んでいた可能性について聞いているのか、おまえは?」
「ほかに何がありますー?」
「私に聞かれても判るわけがないだろう? おまえから回ってくるデータを見るかぎり、“機構”所属のリターナーたちは、肉体的にはひとりの例外もなくただの人間だ。つまり、医学的な精密検査では、その人間がリターナーになったか否かを判別することはできない。リターナーが超人たりえるのは、彼らが異世界から持ち帰った“スキル”によるものだと結論づけているのはおまえ自身だろう?」
「それはそうですけどねー、でもだいたいのリターナーって、考え方は常人じゃなくなりますから」
純はそこでちらりとすみれを見やった。
「すみすみみたいな戦闘向きでない人材は別として、ほとんどのリターナーは、言葉はアレだけど、殺人や暴力に対する精神的なハードルがやたら低くなってるし、そういうところで判断できるんじゃないですかー?」
「だとしても、それはもう精神分析学や臨床心理学の領分だろう? いずれにしてもお門違いだし、第一、私はこの子に会ってすらいないんだ。見立ても何もない、知りたければおまえが自分で会ってみることだな」
「どうです? どうにか会って話す機会とか作れますー?」
それが自分に対する問いなのだとすぐに気づいたのか、すみれは大仰に肩をすくめてかぶりを振った。
「彼女が入院中であれば、ここのスタッフという体で純さんがじかに話すこともできたんでしょうけど、転院されてしまってはお手上げです」
「だからもっと転院を待ってくれればよかったんですよー。ジョニィはホントに気が利かないから――」
「ともあれ、わたしはお嬢さまに一本電話を入れてきます。気になさっておいででしたので……」
スマホを片手に院長室から出ていくすみれを見送ってから、丈太郎はテーブルの上に身を乗り出した。
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