第一章 自称上位者 ~第六節~
「あ~……もうオレたちの番かよ。さっさとチャイム鳴らねえかな~」
「授業が始まってまだ三〇分もたってないのに何いってんだ、おまえ?」
「おら、立てよ京川。ダラダラしてると先生がキレるぞ」
審判役の体育教師がホイッスルを吹き鳴らし、コート内でプレイする生徒たちが入れ替わる。最後までへたり込んでいた京川がうんざり顔でようやく立ち上がった頃、体育館にクラスの副担任がやってきて、体育教師を呼び寄せた。
「――んあ? どした?」
「さあ……?」
いったい何があったのか、教師たちは生徒には聞こえないほどの小声でやり取りをしている。ただ、重信が注意深く観察しているかぎりでは、副担任の表情はとても硬く、どうやら何かしらのトラブルが起きたようだった。
「先生ちょっと用事ができたから、あとはおまえたちで時間まで回してろ! 審判は休んでるチームのヤツがやれ!」
体育教師は生徒たちに早口でそう告げ、副担任とともに体育館を出ていった。要するに、残りの時間は自習にするということだろう。
「おいおい、ほかの授業ならともかく、体育で自習って、何か事故でも起きたらどうするんだよ」
「いーじゃん! 先生がいないんだったら休んでようぜ!」
京川にかぎらず、夏場の体育などやりたくないというのがほぼ全員の総意だろう。監督者がいなくなったとたん、男子たちは思い思いに休んだり遊んだり、好き勝手に時間を潰し始めた。
「――それにしてもどうしたんだろうな?」
「さっきの様子だと、何かあって呼び出されたって感じだけど」
「あ、アレじゃねえ?」
急に元気になった京川が、ひんやりとした床の上に寝転がっていった。
「――女子のほうで誰かがおぼれてヤバいことになったとか、そんなんじゃねえ? だったら先生たちが慌てるのも当然ってかさ」
「相変わらずおまえは不謹慎だな」
「今の京川の発言、あとで女子にチクっとくわ」
「は? 何だよ、ただの冗談だろ? それを犯罪者か何かみたいにいうなよ」
「おまえのその思考がヤバいんだって」
「だよなあ。空気が読めない奴だってのは判ってたけど、さすがに……」
「え? 何それ? オレ何かまずいこといってる?」
周りの
特に意味もなく、素人感丸出しのシュート練習を漫然と繰り返していた重信は、その時、遠くから聞こえてきたサイレンの音に気づいてボールを投げる手を止めた。
「――あれ?」
一瞬、まるでタイミングを計ったかのように全員の会話が途切れ、唐突に訪れたその静寂の中で、徐々にサイレンの音がはっきりとしてくる。パトカーでも消防車でもなく、明らかに救急車のサイレンだった。
「…………」
重信はまばゆい陽射しが射し込む窓辺におもむき、目を細めて外の様子を窺った。
「……おい、先生が正門開けてるぞ」
防犯の観点から、生徒たちの登校時間をすぎて以降は、学園の正門は放課後まで開放されないことになっている。こんな時間に正門が開け放たれるのは、校庭に何かしらの車両が入ってくる時だけだった。
重信の言葉に、ほかの男子たちも窓辺に集まってきた。
「え!? マジかよ、救急車が入ってくるってこと?」
「おい京川、おまえが不吉なこというから――」
「お、オレのせいじゃねーだろ! だいたい、まだ救急車が学校へ入ってくるとはかぎらねえし!」
「ホントに入ってきたんだが」
正門から入ってきた救急車は、教師たちの誘導でプールに近い場所で停まった。よく見ると、すでにプールの近くには複数の教師たちが集まっている。さっき出ていった体育教師も、それに重信たちのクラスの担任の姿もあった。
「――おい、やっぱりプールで何かあったんじゃねえの?」
「京川さあ……」
「だからオレのせいじゃないだろ!?」
「…………」
重信が知るかぎり、美咲はあまり泳ぎが得意ではない。万が一のことを考えた重信は、コートの反対側のゴールリングにボールを投げ込むと、きびすを返して足早に体育館を出た。
「ちょっと、ザキ」
重い扉をスライドさせて校庭に出たところで、渡り廊下から重信を呼び止める声が飛んできた。
「……何があった?」
「少なくとも敵の襲撃とかじゃないってさ」
また派手な色に髪を染め直した風丘葉月が、直射日光を避けるように日陰に立ち、プールのほうを見ている。
「それは戸隠さんがいっているのか?」
「うん。……ただ、一応何があったのか気になったから見にきた。わたしたちのクラスでも慌てて先生が出てったっきりだし」
「そうか」
プールの更衣室からは、着替えをすませた女子生徒たちが頭からタオルをかぶり、一様に暗い顔をしてぞろぞろと出てきている。その中に美咲がいるのを遠目に確認した重信は、人知れず安堵の吐息をもらした。
「――あ、のぶくん」
じっとうつむいて歩いていた美咲は、重信と葉月に気づくと、クラスメイトたちの群れを離れて小走りにやってきた。
「何があったんだ、田宮くん? 誰かおぼれたのか?」
「おぼれたっていうか――詳しいことはわたしも見てなかったから判らないんだけど、その……高梨さんが」
美咲がそう口にすると、葉月がひくっと眉を震わせ、
「高梨って、高梨まひろ?」
「う、うん」
「知っているのか、風丘さん?」
「……一応は」
小さく嘆息した葉月は、軽く肩をすくめてふたりに背を向けた。
「わたしたちが出張る必要なさそうだし、わたしはお嬢のところに戻るから」
「ああ」
「…………」
かかとを潰した上履きをぱたぱたと鳴らして去っていく葉月を、美咲の視線がじっと追いかけている。重信はふと首をかしげ、
「どうした、田宮くん?」
「あ……別に」
「そうか? だったらいいんだが……いや、よくはないか。それで、高梨さんがどうしたって?」
「ああ、うん。ちょうどその現場を見てた夏帆ちゃんがいうには、先生に呼ばれてみんなが集合するって時に、高梨さんだけひとり遅れてて、それで急にふらついてプールに落ちちゃったみたいで――」
「要するに、おぼれたわけではないのか?」
「うーん、どうなんだろ? 先生が水吐かせてたけど、ずっと意識が戻らなかったみたいだし……」
単に足をすべらせてプールに落ちただけで意識がなくなるとは考えにくい。むしろ、意識がなくなったことでプールに落ちたと考えたほうが自然だった。
「……彼女、重度の貧血だったんじゃないのか?」
「貧血?」
「詳しい事情は判らないが、どうも彼女はダイエット中だったようだからな」
「え? どうしてのぶくんがそんなこと知ってるの?」
「着衣の上からでも相手の筋肉量はだいたい判る。彼女は少し痩せすぎだ」
「……もしかして、それってまたいつもの異世界マウント?」
「別にマウントを取っているつもりはないが」
重信は苦笑を隠して美咲の髪をタオルで拭いてやった。
その時、救急車がサイレンとともにふたたび動き出した。高梨まひろの受け入れ先が決まり、これから搬送することになったのだろう。
「……大丈夫かな?」
「心配するな」
包み隠さずいってしまえば、高梨まひろがこのまま死のうが生きようが、重信にはどうでもいいことだった。今の重信の価値観に照らせば、特につながりのない人間の生死はそれほど重くはないからである。
ただ、それをはっきりと口にしてしまえば、美咲は自分に失望するだろうし、軽蔑されてしまうかもしれない。だから重信は当たり障りのない、クラスメイトとしては無難な受け答えをして、彼女を教室に急がせた。
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