第一章 自称上位者 ~第五節~

 二枚目のチョコを食べ始めた美和子を横目に、山内は眉をひそめた。

「……美和子さん、いいんですか? そんなに甘いものばかり食べて――」

「あー、大丈夫大丈夫、糖尿はもう克服したから。……エローダーを始末するととにかく甘いものが欲しくなるのよねえ」

「それは美和子さんだけだと思いますけどね」

 老人と中年女の他愛ない会話を背中で聞き流しながら、すみれはそっと霧華の横顔を観察した。

「……お嬢さま、何か気懸かりなことでも?」

 霧華は、異能の力を持つ人間を察知する“てんつう”と、視界に捉えた相手が自分に向ける感情を色で認知する“てんげんつう”というふたつの“スキル”を持っており、このふたつを組み合わせることでリターナーやエローダーを識別している。ただ、この時のすみれが霧華の表情から感じたのは、あらたなエローダーを感知したことから来る危機感というより、もっと単純な嫌悪感のようなものだった。

「……別に」

「別に何でもないというようなお顔ではありませんけど」

 自分でそういってから、すみれは、数時間前にもこれとよく似たやり取りをしたばかりだということを思い出した。ディナータイムのファミレスで、葉月から高梨まひろの件を聞かされた時に、やはり葉月がこんな顔をして、霧華と同じような反応を見せていた。

「……あ」

 ふと思い当たることがあって、つい小さな驚きの声をあげると、霧華の冷徹なまなざしがすみれに向けられた。

「どうしたの、すみれさん?」

「あ、いえ……最初の話に戻りますけど、高梨まひろの周辺を、少し調べてみてもよろしいでしょうか?」

「それで田宮さんが安心できるのなら……ええ、かまわないわ」

「判りました。――それじゃ山内さん、お嬢さまと美和子さんをお願いします」

「はい。すみれさんもお気をつけて」

 黒塗りのリムジンに乗って戸隠邸に戻っていく霧華たちを見送ったすみれは、自分が乗ってきたコンパクトカーを停めてあるコインパーキングのほうへと、川沿いの道を歩き出した。

 繁華街を離れた住宅街の深夜二時、コンビニの周辺でもなければ人気は完全に絶え、あたりは静まり返っている。すみれの足音がやけに大きく響いていた。

「あのお嬢さまにしては珍しいわね……」

 すみれが純から聞いた話では、もともと霧華はああいう性格だったわけではないらしい。ごくふつうの、むしろどちらかといえば明るく活発な少女だった。それが今のように寡黙で淡々とした正確になったのは、まず間違いなく、リターナーとして覚醒したことがきっかけだったのだろう。

 霧華の“天眼通”は――本人の意志とは無関係に――少女の視界に映る人間が自分に向ける感情を、色として少女に教えてしまう。深い愛情、好意といった感情ならともかく、目の前で笑っている人間が、実は自分に対して悪意や敵意、嫉妬といったマイナスの感情をいだいているのを知れば、嫌でも人間不信になるだろう。あるいは、霧華の異様な勘のよさに畏怖を覚える大人たちもいたかもしれない。

 だから霧華は意図して自分とほかの人間の間に距離を作るようになった。たとえどんな感情を向けられようと、最初から親しくなることを放棄した相手であればさして気にならないし、あとあと失望させられるようなこともない。戸隠霧華という少女の冷淡さは、そうやって後天的に作られたものなのである――というのが、霧華を幼少期から見てきた榎田えのきだじゅんの分析だった。心理学は純にとっても専門ではないはずだが、そういわれれば納得はできる。

 そんな霧華が、珍しく嫌悪感を見せた。つい先刻のやり取りで霧華が一瞬浮かべたそれは、おそらく高梨まひろに対するものだろう。さしたる接点もないはずの高梨まひろに対し、なぜ霧華が――奇しくも葉月と同じように――嫌悪感を見せたのか。

 すみれには何となくその理由が判ったような気がして、口もとをほころばせた。


          ☆


 蒸すような熱気のこもる体育館で、重信たちはボールを追いかけていた。

「……そういやおじさんに聞いたことあんだけどさ」

 壁に寄りかかるように腰を下ろし、きょうかわが汗をぬぐいながら切り出した。

「昔は男女いっしょに水泳の授業する学校とかあったんだってよ」

「は? 都市伝説に決まってんじゃねーか、そんなうらやましい話」

「いや、そんなの単に学校によって違うってだけだろ。現に俺の通ってた中学は男女いっしょだったぞ。なのにここ来たら男女別って……」

「オレは自分で見たものしか信用しねーし」

「ウチの従兄が通ってた高校は都内だったけど、水泳の授業自体なかったんだと。そもそも学校にプールがなかったとかで」

「ああ、そういわれてみたら、うちの近所にある中学校も、何かプールとかないっぽかったな」

「このままじゃいずれ日本人全員カナヅチになっちまうんじゃねーの?」

 クラスメイトたちの応援もそっちのけで、一部の男子たちがそんなことを話し込んでいるのは、今まさにクラスの女子たちが水泳の授業をしているからだろう。この学校には設備のいい屋内プールがあり、突然の雨や日焼けを気にすることなく水泳の授業を受けることができるようになっているが、彼らにとっては不幸なことに、男女が同時にプールに入る機会はない。

「――そういやザキは泳げんの?」

 バスケットボールを指先でくるくる回していた長友が、静かに呼吸を整えていた重信に尋ねた。

「泳げるというのがどういうレベルのことをいっているのか判らないが、まあ、平均よりは泳げると思う」

「へー、スイミングとか通わされてた口?」

「いや、夏休みに長野の祖父のところに遊びにいくたびに、なかば強引に釣りにつき合わされてな。おれは釣りが好きじゃなかったから、もっぱら川に入って遊んでた。そのうちに自然と泳げるようになった感じだ」

「野生児かよ。今とイメージ違うな」

「小学生の頃の話だ」

 思えば長野の祖父の家にも長いこと行っていない。重信の両親の葬儀には祖父が上京してきたが、当の重信は病院で昏睡状態だった。電話ではやり取りしているものの、ここ数年はじかに顔を合わせる機会もなかった。

「今ではぶっちぎりで体育の授業が苦手だしな」

 そうつけ足し、重信は大袈裟に嘆息した。

 正直な話、“恩寵”と称される身体能力を強化する“スキル”を異世界から持ち帰った時点で、重信にとっては、ほぼすべてのスポーツでプロ以上の結果を出すことなど造作もない話になっていた。ただ、いっさいセーブせずに全力を出してしまえば、その結果に周囲が大騒ぎをするのは目に見えている。だから重信たちは、ふだんの生活では極力その力を抑えてふるまうことを余儀なくされていた。今こうして一〇分間ボールを追い回しただけの重信が、ことさら荒い息をついているのも、そうした実態を隠すための演技にすぎない。

 重信が体育が苦手というのはそういう意味だった。スピードやパワーをつねに凡人レベルに維持しておくのは地味に疲れるのである。

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