第一章 自称上位者 ~第一節~




 深夜〇時まで営業しているスーパーで見切り品ばかりを狙って買い込み、自宅の冷蔵庫にしまうと、折り畳み式の小さな椅子と小型扇風機、数本の栄養ドリンク、それにスマホ充電用のバッテリーを突っ込んだトートバッグを肩にかけ、ふたたび家を出る。立花たちばなけいの仕事はむしろここから朝までが本番だった。

 ヒールのあるブーツで夜の住宅街をうろつく圭を、何も知らない人間が見れば、これから出勤するか、もしくは早めに退勤してきた水商売の女と思うだろう。ただ、それなりに値の張るブランドものに身を包み、濃い目のメイクをほどこしているのは、圭がそうした職業に就いているからではなく、それが彼女の意識を切り替えてくれるスイッチだからである。

「雨の多い年はそれはそれでイヤだけど、だからってまったくの空梅雨ってのもねー。……あ、でも仕事のことを考えると降らないほうがいいか」

 ぼやき交じりにひとりごち、圭は栄養ドリンクのキャップをねじった。

 圭がこのあたりに引っ越してきたのはつい先週のことである。仕事の最初にこうして夜の住宅街をうろつくのは、いざという時に備えて、界隈の地理を実地で頭に叩き込むためだった。

「…………」

 のどをかすかに焼くような液体が腹の底へ流れ落ちていく。圭は空の瓶にキャップをはめ、一〇メートルほど離れたところにある自販機のかたわらの、小さなゴミ箱の丸い穴を目がけて放り投げた。

「……もしかしてわたし、今からでもソフトボールで世界目指せるんじゃない?」

 がこんと音を立てて空き瓶がゴミ箱に入るのを見届け、圭は目的地のマンションへ向かった。

 最近になって越してきた圭の新居は、ここから徒歩三分ほどのところにある三階建ての単身者向けの物件だが、目の前にあるこのマンションはファミリー層向けで、どの部屋もそれなりに広そうだった。新築というわけではなさそうだが、地上一〇階建てで、このあたりではもっとも背が高い。だからこそ圭もここを選んだのである。

 圭はそっとあたりを見回し、人目がないことを確認すると、鍵つきのゲートをひょいと飛び越え、外づけの非常階段で屋上に向かった。

「――もしもし、すみれサン?」

 無人の屋上へやってきた圭は、転落防止用の柵の陰に椅子と扇風機をセッティングし、サマーコートを脱いで座り込んだ。

『おつかれさまです、立花さん』

 すぐにスマホ越しに滝川すみれの声が返ってくる。足元に未開封の栄養ドリンクを並べ、圭はいった。

「今のところ異常なし、もし何もなければ明け方引き上げるまで連絡しないけどそれでいい?」

『ええ、それでかまいません。……それにしても、急な引っ越しになってしまって申し訳ありませんでした。新居のほうはどうです? もう片づきました?』

「あー、うん。もともとわたしは荷物とか少なかったしね。駅からは少し遠くなっちゃったけど、お風呂とトイレが綺麗だし、あと、徒歩五分のところに大きなスーパーがあるのは便利だと思う。いい物件用意してくれてありがと」

 家族もなくこれといった趣味もない圭にとって、住環境はさほど重要ではない。それに、そもそも圭の住まいの家賃を払っているのは彼女ではなく松代まつしろ法律事務所――そのバックについている戸隠とがくし家である。あれこれ文句をいえる立場ではなかった。

「……そういえば、石動いするぎセンセはどうしてる?」

『はい? 石動さんですか?』

「うん」

『今は期末試験の問題作りで忙しいみたいですけど……そもそも立花さん、石動さんと面識ありましたっけ?』

「そりゃあ前のマンションのお隣さんだったし。……まあ、センセのほうは最後までわたしが実は“同僚”だったってことに気づいてなかったけど」

『ああ、そうでしたか……じゃ、ちゃんと顔合わせします?』

「別にいいわ。ただ、引っ越しの前日にコンビニで出会った時、食事に誘われたから、彼女募集中なのかなって」

『どうでしょう? ほら、石動さんて、いつものらりくらりとしてなかなか本心を見せませんから。もしかしたら案外、立花さんの正体に気づいていたのに気づかないふりをしていたのかもしれませんよ?』

「あれ、そういう人なの、あのセンセ?」

『まあ、何というか、いわゆる食わせ者という感じですよね』

「あ、でも、顔合わせってことでいうなら、例の新人クンとは顔合わせしといたほうがいいのかな?」

はやしざき……ザキくん、ですか?」

「ああ、そうそう、その子。だってほら、カノジョの護衛役が信頼できるかどうかって、気難しいその子にはけっこう重要なことなんじゃない?」

『いわれてみるとそうですね……なら、もしザキくんがそのへんのことを確認したいといってくるようなら、あらためて考えましょうか』

「そうね。――それじゃすみれサン、おやすみ~」

『はい、がんばってください』

 すみれとの通話を終え、圭はスマホを置いてオペラグラスを手に取った。

 圭の仕事は、夜間、ある少女を護衛することだった。守られる側の少女は圭と会ったこともなければその存在も知らない。しかし、圭にとってはそれは特に重要なことではなかった。

「――――」

 少女の家をレンズ越しに監視していた圭は、ふとスマホの待ち受け画面に視線を落とした。

 今よりも何歳か若い圭と、彼女に面差しの似た赤ん坊、それにふたりを両腕で包み込む男性のポートレートが、星の少ない梅雨明けの闇夜に淡い光を放っている。

 しばらくそれを見つめていた圭は、スマホを裏返し、ふたたびオペラグラスを目に当てた。


          ☆


 校内の自販機コーナーでいつものカフェオレを買い、教室に戻ろうとしていた重信しげのぶは、自分に向けられた視線を感じて足を止めた。

「林崎ってさ」

 階段の踊り場にいた少女が、唐突にそんな言葉を投げかけて、昼も間近い真夏の逆光を背負ってゆっくりと下りてくる。やたらともったいぶった動きなのは、もしかすると、折り込んで短くしたスカートから覗く生足をアピールしたいのかもしれない。

 カフェオレのパックにストローを刺して飲みながら、重信はあたりを見回した。

「どっ、どうしてそこで自分以外の誰かを捜すわけ!? あんたに声かけたって判らないわけないないじゃん!」

「いや……おれじゃない林崎くんがどこかそのへんにいるのかと思ったんだが」

「この学校にあんた以外に林崎って人間いる?」

「詳しくは知らないが、たぶんいないだろうな」

「だったらあんたに話しかけたって判るじゃん!」

「そうかもしれないな」

「まったく……」

 少女は目もとに手を当てて嘆息し、声のトーンを抑えてあらためて尋ねた。

「それであんた、さ……だから、みやさんとつき合ってんの? って聞いたんだけど」

「そもそもきみは誰だ?」

 少女が投げつけてきた不躾な問いを、重信はまったく別の方向へと打ち返した。その当たりどころがよくなかったのか、少女は急にまなじりを吊り上げ、

「わたっ……わたしを知らないってことはないじゃん!?」

「きみはこの学園の生徒の顔と名前がすべて一致するのか? だとすればすごいな。陽気に騒ぐほかにも才能があったわけか」

「はぁ!? 何それ!?」

 ふたたび声を荒げて聞き返す少女の顔が赤くなっている。登場した時はいかにもクールそうにふるまっていたくせに、実際には感情の起伏が激しいらしい。

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