第二章

第11話

「はぁ……、え?」

 その単語に、香奈美は一瞬納得しかけ、しかしすぐに頭を振った。それを見て、福島は改めて息をつき、説明する。

「この被験体『C―11』は、〝救急治癒アンビュランス〟の能力者だから。だから、能力者が脱走して、その存在を世間が知るのを警戒してるんだよ。ね」

 しかし、そんな説明を受けて「はいそうですか」と納得できようはずもない。能力者って?アンビュランスって?この人は頭がおかしいんじゃないのか?

「あの、何を言って――」

「超能力者だよ。いきなり物を発火させたり、空を飛んだりするやつ。『C―11』は体内の細胞を強制的に活性化させることで、どんな傷も常人の十数倍以上の速度で治ってしまう。エボラや天然痘も、ものの一時間もあれば抗体どころか体内で抗ウィルス剤を精製し、完全治癒が可能になる」

 福島は顔を笑みの形にしながら、しかし一切ふざけている様子もなく、ただ事実を述べているだけだといわんばかりに、話し始めた。

「ウィルスによる後天的遺伝子変異と、それによる異能の発現。二〇一七年、日本中にばらまかれた新型RNAウィルス『BR-105型』によりもたらされた結果だよ」

 余計に頭が混乱する。なんだか彼の話を聞く度に、理解困難な単語と説明が増えてくる。その中でいくらか聞き取れた単語を口にする。

「日本中にウィルスって、いつそんなことになったんですか?インフルエンザとか、そういうこと?」

「確かにインフルエンザウィルスはRNAウィルスだけど、ここでは関係ない。まあ、心当たりがないのも当然だね。十三年前のことだし」

 言われて、確かに覚えているはずがないと納得した。三歳の時のことなど、大事件が起こったとしても、記憶に留めておくことなどまず不可能であろう。いや、それでも日本中を巻き込んだウィルス騒ぎなら、今でも話に聞くことはあるだろうから、全然知らない、というのも不自然に思える。

「種子島で発射された人工衛星打ち上げ用ロケット。それが事故により軌道を大きく反らし、空中爆破。しかも、即時自爆は間に合わず、九州方面へ軌道を変更してしまった状態で」

「まさか……!」

 物語を聞かせるように語る、ニヤニヤした顔に対し、香奈美は思わず口を手で覆った。

 無意味に明るく、福島は笑顔で言う。

「そのロケットには実は人工衛星が搭載されていなかった。じゃあ、その分のペイロードはどう使われたのか?発射に立ち会った人間の中で、『BR-105型』三○○キロが搭載されていたのを知っていたのはどれくらいいたのかな?いや、ほとんどいなかっただろうね。ウィルスのケースや活性機その他を含めると、予定されていた人工衛星の質量とほとんど変わらない。気づきようがないわけだね。『BR-105型』は空中爆破の段階で死滅せず、広域散布。粉塵に付着したまま偏西風に乗って日本中に渡り、呼吸器と粘膜により感染。『BR-105型』はその性質上、培養液から出ると約八時間で死滅する。その間に『BR-105型』を吸気したり、その人間と粘膜の接触をしたりすると感染する。感染者の胎児にも感染するね。もっとも、感染率はコンマ一パーセント、発症率も同じくコンマ一パーセント以下。僕たちも、今日本に何人の能力者がいるのか把握していないんだよ」

 長々とした説明を満足げに終えた福島の顔はどこか清々しかったが、逆に香奈美はその事態、過去、そして現在の状況というものについてまるで追いつけずにいた。当然といえば当然の結果である。

「誰が、そんなことを?」

 とりあえず、「ウィルス」と「ロケットで散布」だけは理解できたので、その部分について、恐る恐る訊いてみた。

「世の中にはいろんな組織があるんだよ」

 福島は前置き一つ、何やら呆れながら答えた。

「僕も正確な部分はわからない。僕の所みたいな研究施設かもしれないし、話によれば防衛省が噛んでるって話もある。実態はわからないけどね。わかっているのは、あれを散布したのは僕の与り知るところじゃなかったことと――」

 福島は冷めたコーヒーの入ったカップを手に取り、口をつける。特に感想を述べるわけでもなく、ただ啜るだけ。折角手間をかけたのだから何かしらの感想を口にするなり感慨に浸るなりしてほしいものだと香奈美が思っていると、

「そのウィルスを作ったのが、僕と舞君ってことだね」

 思わぬ告白に、息を詰まらせた。

 今、何て言ったの?

 この男と、お母さんが、ウィルスを作った?

 香奈美が衝撃を受けているのを知ってか知らずか、福島はさらに続ける。

「発症者は年々増えているんだ。潜伏期間が一定ではないからね。数日で発症する人もいれば、十年以上発症しない例もある。例えば、今起きてる怪死事件あるでしょ?今日も君の学校で死んだやつ。あれも多分、能力が発現した結果だね。だけど制御ができなくて、暴走してしまった。そんなところかな」

 新たな事実が、さらに香奈美を追い詰めた。まるで雷に打たれたような衝撃に、頭がクラクラしてくる。

 これまでの話を総合すると(といっても、話の信憑性も高いとは言い切れず、しかも内容のほとんどを理解できなかったが)、この男とお母さんが変なウィルスを作って、そのせいで変な能力を持った人がいて、そのせいで不幸になった人がたくさんいて、高嶺君も、その一人になってしまった。そういうことになる。

 そう、高嶺君が死んだのは、この男と、お母さんのせい。

 この男が……。

 そう、この、男が……。

 この、男が!

 香奈美の中に、短絡的な情報処理による、理不尽な怒りが爆発した。出来事の真偽、起因、意義、経緯、顛末、現状、それらの一割も理解できず、理解している部分すら整理できず、隙間だらけの思考は勝手に、都合のいいように補完されていく。

 パシンッ――

 乾いた音が響いた後、黒縁の眼鏡が、持ち主から離れてテーブルの上を滑り、カーペットの上に落ちた。

「おやおや」

 赤くなった頬を押さえもせず、福島は立ち上がった。意外と身長が高く、香奈美は思わず後退る。しかし、立ち上がった白衣は怯える少女に向かわずに、小さなテーブルの反対側、落ちた眼鏡を拾い上げるために三歩歩み、再び眼鏡をかけた。

「あ、あの…」

 段々頭が冷え、冷静さを取り戻すと、今自分がしたことを改めて自覚した。

「さて、嫌われちゃったみたいだし、退散するかね」

 それに対し、全く気にする様子もなく、福島はカップに残るコーヒーを飲み干すと、リビングを出ていった。まるで香奈美のビンタが退散の合図であったかのように。

香奈美が後を追う。

 玄関まで出ると、福島はすでに靴を履き終えていた。

「あの!」

「ん?」

 やっと絞り出した声に、白衣が振り返る。

「もう一回ぶっちゃう?」

「いえ、その、そうじゃなくて…」

 呼び止めたはいいが、何を言えばいいのかわからない。彼に対する怒りは本物だったが、だからといって全面的に責任の所在を福島一人に集めるのは違うと思う。

「謝るつもりなら、やめておくといい」

 なかなか話し出さないのを見かねて福島が言った。

「僕は頭がおかしいからね。常識的におかしいことをしてるのがわかるくらいには普通だけど」

「ご自分で普通と仰いますか」

「っ!?」

 と、第三者の声に、香奈美が身を竦めた。福島の方から聞こえた気がしたが、それは男のそれではなく、女性のアルト。しかし、この場にいるのは二人だけ。しかし、香奈美が口にしていない以上、女性の声がするということは、もう一人誰かがこの場にいるということに……。

「失礼いたしました」

 一瞬、福島の隣の一帯がぐにゃりと歪んだ。それから、まるで絵画から浮き出るように、人の輪郭が現れ、やがてそれは人の姿を取った。純白のジャケットとタイトスカート、肩までの長さの黒髪のボブカット、切れ長の目は今は伏せられ、整った顔立ちは、同性の香奈美が見ても思わず呆けてしまうほど美しい。

「お初にお目にかかります、香奈美様。わたくし、『福島総合遺伝子研究所』管理部所属、カノンと申します。時に〝光の使徒リヒトエンゲル〟とも呼ばれますが。本日は所長の突然の訪問、申し訳ございません。ご迷惑をおかけしたようで」

 カノンと名乗る女性は瞼を上げて、その見惚れるほどの容貌を香奈美に向け、頭を下げた。

 名前を聞いたとき、外国人かと思ったが、見た目も話し方も日本人そのものだった。それに、落ち着き払った態度や言葉遣いから年上の大人の女性かと思ったが、せいぜい香奈美よりもいくらか上程度、二十歳手前といったところではないだろうか。背丈も香奈美とあまり変わらないし、今は綺麗な人という印象を受けるが、私服を着ていれば、同世代の友人と印象は変わらないことだろう。

「あ、いえ。……え?わたしの名前……」

「はい、存じております。亡き舞様のご息女でありましょう?」

 端正な顔に仄かな笑みを浮かべ、カノンは言った。

「本日のお礼は改めて、と申し上げたいのもやまやまなのですが、何分、わたくし方と関わるのはあまりよろしくありません。此度限りの邂逅であることを、ご了承ください」

 またも頭を下げ、詫びを入れるカノンに対して、香奈美はどうすればいいのかわからなくなってしまった。先ほどと同じように、何かを言おうとして、しかし何を言えばいいかわからず、結局黙ってしまう。

 この人も、お母さんを知っているのだろうか?

 そんなことが頭を掠めるが、だからといって何が得られるわけでもない。母親のことを聞いても、ただ虚しくなるだけのような気がしたからだった。

「できればあの子も連れて行きたいところですが…」

 カノンはそんな香奈美にニコリと笑いかけると、

「生憎、管轄も違うため、わたくし共ではどうにも…。もし苦痛に感じていらっしゃらないのであれば、お手数ですが、あの子をしばらくお願いできますでしょうか?」

「あ、あ、はい」

 丁寧な口調にたじろぎながらなんとか答えるも、この時、香奈美は彼女の言うことの奇妙さに気づかなかった。香奈美の緊張とカノンの敬語が、それを隠すベールとなった結果だった。

 しかし、

「最後に、いいですか」

 香奈美は別のことに気づき、声を上げた。

「和人君のこと」

 福島とカノンはただ静かに続く言葉を待つ。

「『これ』って呼ぶの止めてもらえますか」

 カノンは『あの子』、福島は『これ』と、それぞれ同じ少年を指す言葉を使っていたことに言及した。リビングでの会話から気になっていたことであり、さっきまでのカノンの言葉でよりその差異と違和感を覚えたこと、もう言う機会もないだろうという考えから出た言葉だった。

 それを聞き、カノンは表情を変えないが、福島は苦笑し、

「やっぱり君は舞君に似て優しいね」

 それだけ告げて、玄関のドアに向き直った。

「帰ろうか」

「はい、失礼いたしました、香奈美様」

 もう一度頭を下げた後、カノンもドアに向かい、背を見せた。

 カノンによりドアが開かれる。それと同時、玄関が、正確にはカノンの体が光で満たされた。思わず腕で目を覆う香奈美。数秒後、光は収まり、二人の姿は消えていた。

 バタン、とドアの音だけが、最後に虚しく音を立てた。

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