第10話

 少年の眠っているものとは違う、L字に置かれたソファーに腰掛ける三十代と思しき男は、癖毛の頭を掻きながら、寛いでいた。

「誰……ですか」

 香奈美かなみは身構えながら、ドアの取っ手を後ろ手に取った。いつでも外に飛び出す準備をして。

「あれ?覚えてない?」

 男はそんな少女の様子をよそに、さも心外そうに眉根を寄せた。しかし、すぐにそれは嘆息へと移行され、

「まー、しょうがないか。葬儀の時はずっと俯いてたからね」

 どこか懐かしむように、男は香奈美の顔を凝視した。

「目元とか、全体の雰囲気が舞君にそっくりだ」

 なんともなしに男の口から発せられた『舞君』という言葉、名前に、香奈美の心臓が一瞬跳ね上がった。

「お母さん……」

「そう、君の母親である佐倉舞君が働いていた『福島総合遺伝子研究所』、そこで所長をしている福島孝一郎です。ところで、コーヒー貰える?」

 福島と名乗る男はソファーに体を預けながら、首だけ香奈美に向けて言った。マイペースな会話に、香奈美は毒気を抜かれつつあった。会話のペースもそうだが、なんとも眠そうな表情と声が、張り詰めようとしている気概を挫かせる結果となっていた。

 ここでふと、香奈美の中で何かが引っかかった。

(あれ?待って……)

 何か記憶か、もしくは心中に齟齬があるのか、どうも釈然としない。

「あの、もう一度言って貰えますか?」

 確認のため、ややか細くなった声で訊く。

「コーヒーちょうだい」

「いや、そうじゃなくて!」

 初めは緊張を緩めさせたマイペースさも、苛立ちへと変わっていく。その心情を顔に表すと、

「あー、はいはいわかってますよ」

 福島は両手を挙げて、少女の求める答を口にする。

「福島総合遺伝子研究所。ここが僕の所属。で、そのそっくりさんの組織が『福島総合科学研究所』。ちなみに、君の母親、舞君のいたところは、僕の『福島総合遺伝子研究所』。わかった?それと、コーヒー貰える?」

 あまりにしつこいので、香奈美はキッチンへと歩いていった。

 昨夜訪ねてきた黒服の男たちは『福島総合科学研究所』と言っていた。名刺を確認しなければならないが、記憶では『総合遺伝子』ではなく『総合科学』であったはずだ。実に紛らわしいが、これでは香奈美が間違うのも無理はない。

「あ、できれば焙煎で~」

 リビングから届く声は力の抜けるもので、インスタントの瓶を取り出した香奈美の手を止めさせた。確か豆で買ったものがあったはずだと戸棚の中を探る。別に無視してインスタントコーヒーを出してもよかったのだが、香奈美としては彼から訊きたいことがある。だから、ここは多少の我が儘にも目を瞑ることにした。

 思考が中断したので、改めて頭をシフトするよう努める。あの男は昨日来た男たちとは別の組織の人間なのか。いや、研究施設は違っても、『福島』という共通項がある。安易に考え、油断するのは得策ではないだろう。警察を呼ぶべきか。しかし、連絡したとバレた場合、どんなことをされるかわからない。この家には香奈美と和人の二人、そしてあの福島という男だけ。見た目はああだが、女子高生と小柄な少年の二人で抗えるかわからない。武器だって、何を持っているのかわからないのだ。外に出れば助けを呼べるかもしれないが、そもそも外に福島の仲間がいないとも限らない。無事に外に出られても、内と外から武装した大人に囲まれては、助けを待つまでにこちらの身が危うくなる。

 考えた末、結局普通に話を聞くしかないことがわかった。極力相手を刺激しないように、尚かつ欲しい情報を引き出さなければならない。こちらとしては持ちうる知識と状況が噛み合わず、現状の考察などできたものではない。ないならば、引き出し、得るしかないのだから。

「どうぞ」

 湯気の立つコーヒーカップを置くと、福島は満足そうにカップを持ち、しかしすぐにテーブルに置いた。

「飲まないんですか」

「いや、なんか火傷しそうだから、冷めるまで待つ」

 香りを楽しもうともせず、カップを置く福島。なんだか焙煎の意味の半分を失った気がした香奈美は

(だったらインスタントでいいじゃない)

 心の中で、声に出さずに愚痴るのであった。

「それで、どうしてその、福島さんはここに?」

 その怒りを隠しながら、香奈美はまず訊く。

「ああ、なんか学校に行ったらそれっぽい子を見つけたから、もしかしたらって思ってね」

 福島はカップを手にしてふーふー、とコーヒーを冷ましながら、質問に答えた。どうやら、学校で目が合ったのは気のせいではなく、この男も意識していたらしい。

「舞君にはお世話になったからね。優秀な研究者だったよ」

「そう、ですか」

「っと、あと、こっちももしかしたら、と思ってね」

 コーヒーを一口啜り、しかしまだ熱かったのか、顔をやや歪ませて舌を出しながら、視線は隣のソファーに毛布を被って眠っている少年へと向けられた。

「相沢和人君、ですか?」

 香奈美の呟きのような声に、しかし福島ははて、と首を傾げた。

「何、そう名乗ったの?」

 その予想外の反応に、香奈美は同じように疑問を浮かべる。

「そう名乗ったのって、どういうことですか?」

 福島の反応、その意味を求めて、香奈美の拳に力が込められた。

 対して福島はう~ん、と唸った後、「ま、いいや」と告げる。

「昔ね、ウチの研究所にいたんだよ。いわゆる試験管ベイビーってやつ。他にも、たくさんの人口受精児が、所内でされていた。かなり数が多かったからね、みんな管理番号で呼ばれていたよ。ちなみに、は『C―11』。相沢和人っていうのは、舞君と一緒にCブロックの担当をしていた人の名前さ」

 いきなりそんなことを言われても、正直困る。折角今起きている事態について何かわかるかもと期待していたところに、このよくわからない回答である。整理すると、つまり、彼――自称・相沢和人は偽名で、研究所で生まれた子供であるということか。そんな境遇の子供が他にもたくさんいて、香奈美の母親はその子供たちの面倒を見ていた(福島の言う『管理』という言葉は嫌いなのであえて香奈美はそう考えた)。

 福島はさらに続ける。

「で、三年前の事故で研究所が使えなくなっちゃって、その間に生き残った被験体は『総合科学研究所』に移送されてたってわけ。わかった?」

 わかるわけがない。そもそも、説明が急すぎるのだ。この説明は、今ソファーで眠る少年が何者で、なぜ研究所で生み出され、そもそも研究所ではどんなことが研究されていたのか、などなど、抜け落ちた情報があるのを前提に話を進めている。それは意図された様子もなく、福島はそんなことを気にせずに話しているようだった。

 ならばと、香奈美は『聞く』ことをやめて『訊く』ことにした。

「そこまで色々ご存じなら、昨日来た人たちのことも説明いただけますよね?」

「昨日?」

 はて?と福島が首を傾げる。

「この人です」

 名刺を取り出し、まだ首を傾げている男の鼻先へ向けた。

「ああ」

 その名刺は昨日の黒ずくめの男から受け取ったもので、福島は受け取らず、香奈美に摘ませたまま、『福島総合科学研究所 管理部一課主任 岡崎謙三』という文字だけを読んでいく。

「堂本君のトコの人だね……。の主任ってことは……〝鋼鉄の壁クリスタラー〟か。随分とまあ、気合い入ってるねぇ」

 何やらブツブツと呟いた。

「昨日、この子を探してるって、来たんです」

 ソファーで毛布を被る少年(福島の話を聞いて、改めて和人という名前を呼ぶのが憚られた)に目を向け、昨日の玄関先での出来事を思い出す。強行に話を聞き出そうとしていた一人と、冷静に話を聞こうとする一人。態度は紳士的ではあったが、何か逸物を抱えていそうな雰囲気を感じ取ることができた。

「まあ、単純にを連れ戻したかったんだろうね。『C―11』も、施設にいるのがいやになったんだろうし」

 その言葉に、香奈美は敢えて詳細を尋ねなかった。なぜ逃げ出したかなど、想像するに容易い。研究施設から逃げたのは、そこでひどい目に遭っていたからだろう。『C―11』なんて人を記号で呼ぶような場所など、ろくな所ではないはずだ。変な実験や検査をされたのではないかとも(映画や小説などで得た想像力の末のものだが)連想させた。そうでなければ、あんな薄着で、アテもなく、傷だらけになりながら空腹に苛まれ、行き倒れることなどないだろう。それほどまでに、その研究所は居心地の悪い所だったのだろうから。

「なんで、狙われたんですか?」

 そうなると、疑問も尤もだった。そこまでして、この少年に、見た目十五歳にも満たない子供を追う必要などあるのか。

 その疑問は、すぐに解決した。

「だって、能力者だからね」

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