第9話
結局、五時間目の自習も半ば、担任より下校の指示があり、二時前には校門をくぐることになった。結局、
家まで景子を送ると、香奈美はふと家にいるはずの少年のことを想った。別に藤丸のことをどうでもよく想っているわけではない。香奈美も、この現実から逃げたかった。だから、これも放っておけない事項なのだと言い訳して、別のことを考えることで、自己防衛として、友人の死から一時的にでも距離を置こうとしたのだった。
(お昼、ちゃんと食べたかな……)
ふと心配になる、か弱き少年を想う。キッチンの流し台の隣にお昼ご飯にと炒飯をラップしてあったのだが、うっかりそのことを伝え忘れてしまった。『温めて食べてね』というメモも添えているものの、気づかなければそのまま彼はお昼抜きの状態にあるかもしれない。さすがにそれは可哀相なので、家に向ける足取りをやや速める。
もう自宅が見えた頃、二人の主婦が談笑しているのが見えた。ちなみに、二人とも顔見知りであり、一人はボブカットの四十代前半の、一人はまだ三十になったばかりのショートカットで、それぞれ香奈美の隣に住む酒井さんと、向かいに住む野阪さんである。野阪さんは自宅の庭で、腕に洗濯物を提げながら、道路脇から顔を覗かせる酒井さんと何やら話をして、特有の手首を振る仕草をしながら、時に笑い、時に神妙な表情を、両者とも浮かべていた。
「あら、香奈美ちゃん」
早すぎる帰宅を見せる隣人に気づき、酒井さんは声をかけた。
「おばさん、こんちにわ」
香奈美は二人の主婦に近寄り、三者は軽く挨拶を交わす。こういった場所での会話は、大体が誰かの噂話か愚痴だと相場は決まっている。この場合、話題は例外に洩れず、後者であった。
「香奈美ちゃん、学校で何かあったんだって?」
事が起こってから一時間ほどしか経っていないというのに、すでに事件(事故という可能性もあるが)の存在が知れ渡っているようだった。もっとも、サイレンが鳴り、近所の高校へパトカーや救急車が向かったと知られれば、おかしくはないわけだが。
「だから、こんなに早く帰ってきたんでしょ?」
酒井さんに続き、野阪さんも訊いた。単純な好奇心が情報を求めている様がありありと伝わってきた。香奈美としてはあまり話したくはないというのが正直な心情であり、誰も友人が死んだ(確認はしていないが、状況を鑑みれば容易に想像できる)ことを、べらべらと喋りたくはない。
「ええ、まあ、ちょっと……」
曖昧な返事と、やや沈んだ声で、興味をはぐらかそうとする。しかし、どうやらその姿に何かを感じ取った野阪さんはより興味を引かれ、
「事件?暴力沙汰とか?」
思い浮かんだことを口にする。
「あの、なんていうか……」
より返答に困り、香奈美はどう説明すべきかを迷った。親しい部類の友人が火だるまになって死んだ、なんて言いたくない。思うだけでも辛いのに、言葉にしたら、胸が苦しく締め付けられるような気がしていた。
「ほら、あんまり訊くと悪いわよ」
そんな困惑する香奈美の姿を見かねてか、酒井さんが二人の間に入った。
「困らせたら可哀相でしょ。ごめんなさいね、香奈美ちゃん」
酒井さんとは十年来の付き合いになる。仕事が忙しい母の代わりに世話をしてもらったこともあるし、料理も彼女からかなり教わっている。ここ数年も、困ったことはないか、と気にかけてもらっているし、香奈美自身も彼女にかなりの好感を持っている。謂わば、この女性はもう一人の母と称しても差し支えない存在となっていた。酒井さんはすでに息子が自立し、夫と二人暮しをしている。酒井さんも、娘ができたようだと喜んでいた。
そんな女性が、言いよどむ香奈美の様子に気づき、話を打ち切り、香奈美をこの場から退場させるきっかけを与えてくれた。
「失礼します」
香奈美は頭を下げ、道路の反対側にある自宅へと早足で帰っていった。
玄関のドアを閉めると、どっと疲れが溢れ出たように、体が重くなった。緊張の糸が切れたせいだった。あまりそういった自覚はなかったが、どうやら思っていた以上に精神が張り詰めていたらしい。ひとまず深呼吸して、それから革靴を脱いだ。
まずはリビングへ。見回してみると、ソファーに掛けられた毛布、その中に少年の姿を見つけた。頭を半ば毛布に埋めているので顔は見えないが、僅かに毛布が上下しているのが確認できる。それからキッチンへ回ってみると、ラップをしてある皿がそのまま残されていて、少年がまだ昼食を摂っていないことがわかった。
(悪いことしちゃったかな)
いつから眠っているのかわからないが、もし昼になって昼食の存在に気付かずにそのまま寝てしまったのなら、悪いことをしたな、と罪悪感を覚える。隣のおばさんに面倒を見てもらうことも考えたが、そもそもどうやって説明すべきかを迷っていたので、結局独りにしてしまった。そのことをやや悔やみながらも、眠っているならば起きるまで待とうと、香奈美はそのままリビングを抜けて玄関脇の階段を上り、自室へと入った。鞄を置き、ブレザーをハンガーに掛け、リボンを解き、クローゼットから部屋着取り出す。その間も、思考は働いていた。
当座の問題として、彼―――
(このまま警察……でいいのかなぁ?)
昨日や今朝まではそうした方がいいと思っていたのだが、今になってくるとその選択が疑わしくなってきた。頭に引っかかるのは、昨日訪ねてきた二人の黒服の男たちである。別に理論立てて説明できるわけでもない。ただ、何かが頭に引っかかる。何か見過ごしがあるのか、それとも何かの矛盾に気付いているのか、それとも単に黒ずくめの男の存在が正常な判断を鈍らせているだけなのか。
「はぁ~」
着替え終わり、階段を降りるが、溜息しか出ない。グレーのパーカーとジーパン姿で一階へ。それから、テレビでも見ようとリビングの扉を開け、中に入った。
そこには、先ほども見た、毛布を被って眠る少年と、
「あ、お帰りなさい。ところで、コーヒー貰える?」
黒縁眼鏡をかけた白衣姿の男が座っていた。
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