第8話

 高校内は、騒然としていた。生徒は教室内で待機を命じられ、教職員は警察と消防に加え、どこから嗅ぎつけてきたのか、数人のマスコミに対応していた。

 男子トイレでの人体発火から三十分が経過した現在でも、警察の実況見分が行われている。四階男子トイレ周辺には黄色いテープが張られ、立ち入り禁止となっている。別室では当時トイレに居合わせた男子生徒三人が指導室で詳しい事情を聴取され、トイレ内では鑑識が僅かな証拠も見逃すまいとしている。

 香奈美かなみのいる教室でも、他クラスと同様、黒板に『自習』と書かれ、しかし噂話が絶えず続いている。皆、非日常的な状況に気分が高揚してのものだったが、中には心底動揺している者もいた。朝倉景子あさくらけいこもその一人である。

藤丸ふじまる、だよね」

 ぼそりと呟き、俯いた。トイレに居合わせていた三人の男子生徒の話はすでに広まっており、五クラスある一年生の教室にはすでに誰がどうなったのかが知れ渡っていた。

「多分……」

 目に見えて消沈している景子に、香奈美はかける言葉を迷い、曖昧な返事しかできずにいた。香奈美自身も、毎日顔を合わせているクラスメイトが火だるまになったと聞けば、ショックを受けずにはいられない。それにも増して、景子はより大きなショックを受けているはずだ。小学校時代からの幼馴染み(本人は腐れ縁と言い張っていた)があんなことになっては、心中穏やかでいられるはずもない。

 下手な気休めは言えない。校庭にはパトカーと救急車が停まっているが、救急車に誰かが搬送された様子はない。救急車到着から二十分は経過していると思われるが、それでも搬送が行われないということは、つまりはなのだろう。母が死んだと聞いたとき、自分がかなり気を落としていたことをわかっているからこそ、軽率な行動を取りたくはなかった。下手な言動や励ましは、本当の意味で救いにはならない。だからといって、何が救いになるのかもわからない。母を失ったあの当時、何を言って欲しかったかもわからない。とにかく、わからないことだらけだ。気をしっかり持たなければ、香奈美の方が過去に引き戻されて、崩れてしまいそうになる。

「あれ?」

 バババババババ、と窓ガラスを叩く、耳障りな音が教室中、校舎中を包み込んだ。どの教室でもその音源に視線を向け、窓にかじりつくように集まった。音の正体は、多くの者が思った通り、ヘリコプターのローター音であり、褐色の機体が校庭に降下しているところだった。機体はマスコミや観光などで使用されるシングルローター式ではなく、ローターが前後についているタンデムローター式のもの(機体がCH-47J であることまでは知るものは少ない)で、ついに校庭に着陸した。後部ハッチが開き、中から三人の白衣姿の男性が出てきた。一人は三十代と思しき癖毛の黒縁眼鏡、一人はまだ若く背の高い短髪の青年、一人はやや背の低い、眼鏡の男性よりも少し年上に見える男性だった。眼鏡の男性は手ぶらで、両手を白衣のポケットに突っ込みながら猫背で歩いていたが、他の二人はそれぞれ一つずつ大きなトランクケースを持っていた。そのまま校舎内へと入っていく。

 すると、

「え?」

 黒縁眼鏡の男性と、目が合った……気がした。



 四階男子トイレには、周囲に黄色いテープが張られ、中では背広姿の警察官が、鑑識官と現場について話していた。

「じゃあなにか?マッチもライターも、なんもなかったってのか?」

 四十過ぎの刑事が定年手前の鑑識へと、怪訝な表情を見せた。

「ああ、あの生徒の持ち物にも、トイレの中にもそれらしい発火装置はなかった」

 この道三十年以上のベテランは、足元で亡骸となった、変わり果てた少年を、かけられた白いシート越しに見ながら答えた。その視線を追うように、中年の刑事もシートを見下ろす。

「ってことは、誰かが火を付けたってことか。ここの生徒か、教師が」

「だが、目撃者の三人は、このボウズが火だるまになって出てきた、って言ってるんだろ?」

 当然の結論に行き着く刑事を、壮年の鑑識が疑問を投げかける。

「しかし、遺書らしきものは見つかってない。それに、発火装置がここにない以上、誰かが持ち去ったってことだ。こんなトイレで自然発火なんてあり得ないからな。つまり、誰かがなんらかの方法で、ボウズに火を付けて殺したってことだ。ったく、ひでえ殺し方しやがる」

 長い刑事人生の中でも、これは一二を争う凶悪な事件だった。遺書が見つかれば、これは自殺という可能性も出てくるが、しかしこれはこの少年の意志による死ではないと、熟練の刑事は見立てていた。手の込んだ、まるでミステリーのような奇怪なトリック。だが、そこまで単純な話でないような気がすると、どこか不安を抱えてもいた。それに、未だ遺体がここに放置されていることも気になる。通常、重度の火傷であっても即病院に搬送され、心肺停止状態でも蘇生措置が行われる。重度の火傷を全身に負うと、仮に蘇生しても四八時間以内にショック症状により絶命する。それはわかっている。この遺体がどんなにひどい状態に、見た目になっているかも、現場を見た瞬間に網膜に刻まれた。学生が見たら、あれはきっと一生のトラウマになってしまうだろう。あの惨状では助からないことはわかる。しかし、だからといってその場での処置で蘇生不可能とわかってから何もしないというのが、どうにも納得いなかった。救命士がこの惨状に苦い顔をしながらも担架で運ぼうとしたとき、何らかの連絡を受けた一人が、搬送の中止と現場保存を指示したのだった。それを不審に思って抗議し、すぐに上から却下されたことから、焦臭きなくさいことこの上ない。権力者の事情、それにより手が回されたのだと思うと、吐き気がする。

「あー、ここだここだ」

 そんな気分の悪いときに、場違いに陽気な男性の声がトイレに届いた。寝癖のような癖毛に黒縁眼鏡、ヘラヘラと笑う無邪気な、刑事にとってはどこか不快な笑顔を張りつけた、白衣の男。それに続き、白衣を着た男二人が重そうなトランクケースを一つずつ持ちながらトイレに入ってきた。

「どうも~、ごくろうさまです~」

 手をひらひら振りながら、眼鏡の男はズカズカとトイレに入り、周囲を見回し始めた。

「誰だ、あんたたちは?」

 当然の疑問を投げかける刑事に、男は陽気に答える。

「専門家の福島です。通達は……なかったみたいだね。まあいいや」

 福島と名乗る男は床に寝かされた不自然な白いシートの膨らみを見つけ、近づく。そして、何を思ったのか、思い切りシートを剥ぎ取った。

「おい、あんた!」

 刑事は突然の乱入者の肩を掴む。

 と、それを待っていたかのようなタイミングで、彼の胸が、背広の内ポケットが震えた。刑事は左手で白衣の男を掴んだまま、右手でポケットから携帯電話を取り出し、通話する。

「はい。……ええ、来てますが。……はい?いえ、確かに聞きましたが、それでは納得が…!……いえ、はい……」

 ほんの三十秒ほど話した後、刑事は携帯電話を仕舞った。

「いいですかぁ?」

 白衣の男はその内容を知っていたかのように不敵なな笑みを見せ、刑事は渋々ながらも手を離し、トイレの外に出た。

 それを見て、他の白衣二人はトランクケースの中身を広げ、いくつもの機材を広げ出す。

「さてさて」

 福島は眼鏡のブリッジを押さえながら、焼死した男子生徒を見下ろした。

 顔の確認は、まず難しい。下半身はそこまででもないが、上半身はかなり酷い。衣服が張りつき、見える部分は赤と白と黒、グロテスクな人間バーベキューといったところか。熱による筋肉の収縮により、胎児のように体を丸めた姿は、見るに耐えないものだった。

「上半身を中心にⅢ度DB以上。全身の約六○パーセント、といったところですね。呼吸器もやられているでしょう」

 それを見た背の高い白衣の男が、遺体を見て呟いた。

「右下腕に関しては完全に炭化しています。総合的に見て、蘇生に手をかけようとは思えませんね、これじゃ」

 背の低い方の白衣も、惨状から感想を洩らす。

「さてさて、この子はどうでしょう」

 福島は二人に目配せすると、彼らはそれぞれ黒くて四角い電子機器を取り出し、一人は周囲に、一人は遺体に、レジのリーダーのような機器のセンサーを向け、データを取り始めた。

「彼、能力者だと思う?」

 福島は遺体からを取りながら、二人の助手役に意見を求めた。

「時間が経っているので、周囲の状況からではなんとも。しかし……」

「証拠としては挙げられませんが、現状、状況だけなら可能性が高いかと」

 二人は知りうる情報から、可能性を示唆した。

「だよねえ。僕の考えでも、彼は間違いなく能力者だ。発火能力……か」

 福島は一人でブツブツと呟き始めた。

「かなり短時間で、高温で燃えたみたいだし、温度場遷移サーモトランス強制分子振動モレキュールバイブレーションの可能性は低い。周囲には電流痕を始めとした形跡も見当たらないから、誘電制御エレクトロンリード発電機ジェネレータの類でもないか。だとすれば、知る限りでは酸素濃度の変化と火種の発生、ってところかな。オーソドックスな」

 一通り考察すると、福島は立ち上がった。それに合わせるように、二人の助手も機器の操作を止めて片付けを始めた。

「じゃあ、回収よろしく」

「はい」

 福島の声に返事をして、二人は担架を用意し、遺体を載せ、元々掛けてあった白いシートを被せ、トイレから運び出した。

 福島がトイレから出ると、そこにはまだ刑事が佇んでいた。納得がいかないと、その眼光が訴え、納得できる説明を求めているようだった。しかし、眼鏡の奥の双眸を笑いの形にしたまま、福島は一言、

「では、ごくろうさまでした~」

 陽気な声で、手を挙げて去っていった。

「おい、ちょっと待て」

 刑事は何事もなかったかのようにその場から去ろうとする眼鏡の白衣を呼び止める。

 が、

「検死報告書は後で送っておくのでご心配なく~」

 それを無視して、福島はウキウキとした足取りで廊下を駆け、すぐに刑事の視界から消えていった。

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