第6話

 この高校の特徴を述べよと言われて、どれだけの人間が答えられるだろうか。校舎は別に大きくもないし、広い敷地を有しているわけでもない。四階建ての本館と三階建ての西館、校庭には二百メートルトラック、校舎裏には二面コートを有する体育館と、二十五メートルプールなど、特筆できるようなものは何もない。普通なのが特徴だと言えなくもないが、普遍的であることは確かなので、誰もそんなことを言おうなどとは思わない。

「こうしてサインの式をコサインに直すわけだが」

 四階にある一年生の教室で、壮年の数学教師がやや枯れた声を発しながら、黒板に数式を書いていく。教室内はほとんどの生徒が黒板をノートに書き写しているが、数名は居眠りしたり、興味なさそうにぼうっとしたり、机の下に隠したマンガを読んでいたりする。

 景子は黙々と教師の言葉に耳を傾け、ノートにペンを走らせ、藤丸は少年誌の単行本を読みながら時折笑いを堪えている。

 そんな中、いつもは真面目に授業を受けている香奈美はというと、窓から外の景色を眺めていた。窓際の席に座っているので、晴れ渡る空がよく見える。しかし、その目はそんな爽快な大空を見てはいなかった。いや、見てはいるのだが、その行為に対して脳が情報を処理していない。

「ここで、七十一ページの下にある公式を使う」

 教師の言葉も、耳には入っても、聴覚情報として処理しきれていない。香奈美の心は、昨日出会った少年のことで一杯だった。別に恋い焦がれているとか、そういうことではない。ただ、気になるのだ。突然現れた(香奈美が勝手に家に運んだわけだが)、傷だらけの少年と、それを探している黒服の男たち。傷だらけの少年も、翌日には全くの健康体で、傷などどこにも確認できず、本当に一晩で治してしまったようだった。

 こんなことがあり得るだろうか。どんなに健康な人間でも、極小の傷でもない限り一晩で治るなど不可能なはずだ。擦り傷や切り傷が外傷のほとんどで、数センチサイズの傷がたくさん刻まれたあの体が、一夜にしてまるで何事もなかったかのように、痕跡を一切消して完治しているのだ。

(本当に人間なの?)

 そんな馬鹿げたことが頭を掠めた。

 二○三○年の現在、少なくとも家庭生活においては二○一○年頃から特に何かが変わり、便利になったことはない。掃除機を使って掃除し、洗濯機に洗濯物を入れて、後で干す。料理だってボタンを押せば自動で料理が出てくるなんて全くないし、車だってガソリンで動いている。

 だから、そんな人外の存在を含めたSFじみた近未来的発想は、あまりに不釣り合いで、非現実的思考に過ぎない。人間のクローン技術も(技術的というよりは法的・人道的に)確立されたものではなく、宇宙人とかそういったことも、やはりどこのSFかと思ってしまう。

 フィクションとしてならいくらでも考えられるが、ノンフィクションでは納得できる回答が見つからない。

「なぜこうなるのか。まずはこうしてX軸とY軸を引いて、原点を中心に円を」

 なぜこういった考え方になるのか。それは現実として受け止められないからだ。しかし、現実にありそうな話で片付けられない。香奈美の気のせい、見間違い、大仰に言えば精神疾患など、現実的見解ではとても納得できず、自覚できない(それが精神的な疾患の特徴であるのだが)。

 ここでどうこう考えていてもしょうがない。

 それが、香奈美の出した結論だった。少ない情報であれこれ予想してみたところで、疑心と無責任な想像しか生まれない。帰ったら、あの少年――相沢和人と名乗る少年に訊いてみるしかない。まず、彼が誰なのか。なぜあんなところに倒れていたのか。

 しかし、香奈美本人の意志とは別に、心中で何かが、もう一人の、深層で語る意志のようなものが、告げていた。

 あの少年は、常識の範疇にある存在ではない、と。


 昼休みも残り十分かという頃合い、高嶺藤丸たかみねふじまるはトイレの個室に座っていた。深刻な表情で眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと右腕に巻かれた包帯を解いていった。包帯の下には適度に焼けた肌とは別に、手首から肘にかけて、赤く変色していた。軽度の火傷である。

「くそっ…」

 昨日、部活から帰り、夕飯を終え、入浴していたときのことである。頭を洗い、シャワーを止めようとしたとき、右腕に違和感を覚えた。くすぐったいような、ムズムズ感。それがやがてヒリヒリとしたものへと変わり、やがて――

 発火した。

 右腕の手首から肘にかけてが、いきなり。火が着くなど、ありえない。使用中のバスルームでの発火など、誰が予想できたであろうか。藤丸は慌ててシャワーをかけるが、それでも鎮火しない。耐えかね、湯船に飛び込んだことで、どうにか鎮火することができた。それからしばらく、発火現象に怯え、湯船から出ることができなかった。湯船から出たのは発火から一時間が経過し、外から母親に声をかけられたときだった。体は完全にふやけ、皺だらけ。腕には浅くも広い火傷の痕が刻まれていた。

 翌朝起きてみると、腕はなぜか日焼け痕のように赤くなっているだけだった。現実逃避していた思考が、あれは夢だったと、都合良く片付けていた。

 それでも、時間が経ち、冷静さを取り戻した思考が、昨日の出来事は何だったのだろうかと、真実を求めていた。確認させようとしていた。だから、トイレの個室で恐る恐る、自分の腕を確認しようとしたのだった。

 昨日のイメージが、強烈に蘇る。この腕が、突然、火の気もないのに発火した。そう、何の前触れもなく、いきなりボウっと――

「うぁっ!?」

 驚愕と、次いで苦痛が藤丸を襲った。

 腕が、燃えている。先ほどイメージした通り、昨日経験した通り、腕が激しく燃えだしたのだ。

「あ、あぁぁぁ!!」

 恐怖が、苦痛と共に膨れ上がる。熱い、熱い、痛い、なんだこれは!

 火の気など、もちろんない。ライターだって持ってないし、ガソリンや灯油だって触れていない。十月になったことで希に静電気が起こることもあったが、それだけで、それこそ燃料でも被ってないとこんな勢いの燃焼などあり得ようはずがない。このままでは、この火が全身に広がって火だるまに――

「ああああああああああああああああああああああああ!!」

 なってしまう。そう思った瞬間、火は勢いを増し、ワイシャツに引火し、ブレザーへと広がっていく。

 個室のドアを破り、藤丸は床に崩れ落ちた。

「うぉっ」「えぇ!?」「なんだ?」

 小用中の生徒一人と、手を洗っていた一人、頭髪にワックスをかけていた一人が、先ほどから奇声を上げていた個室に目をやっており、さらに大声を出しながらドアから転がり出てきた火だるまの同級生を見て、一瞬声を上げ、しかしあまりに現実離れした光景に、自失した。

 しかし、それも一瞬のこと。

「おい、水かけろ!」

「間に合わねえよ!」

「火事!しょ、消火器!」

「そんなのかけて大丈夫かよ!」

「バカっ、なんもしねえと死ぬだろうが!」

 昼休み、長閑な高校の一時は、容易く地獄絵図の一端を覗かせていた。

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