第4話

 香奈美かなみは紺のブレザーを着込み、鞄を片手に通学路を歩いていた。

 十月の朝は肌寒く、自転車に乗る人の中には手袋をしている人も多い。日中にはそれなりに気温が上がるにしろ、昇り始めたばかりの太陽が暖かさを与えてくれるにはまだまだ時間が必要だった。

「はぁ~」

 大きな溜息が香奈美の口から洩れた。

 朝起きたとき、「おはよう、ございます」という大人しい少年の声が聞こえたときなど、びっくりして思わず飛び退いてしまった。昨日のことが夢ではないか、と起きがけに思っていた矢先のことであり、大層心臓に悪い驚き方をしてしまった。

 そう、夢ではない。傷だらけ、泥だらけで倒れていた少年を見つけ、いきなり『母さん』などと呼ばれ、黒服サングラスの男が尋ねてきて……。

 夢であればよかった。しかし、生憎これは夢ではなく、現実だ。向き合わなければならない。

 だが、香奈美が溜息をついたのは単に昨日の出来事だけが原因ではない。問題は、少年と顔を合わせた朝のことだった。

 ご飯を食べて満足げに寝ていたのでうっかりしていたが、彼は全身傷だらけだったのだ。だから、まずは簡単な手当をして、それから異常がないか病院に行って看てもらって……、と思ったのだが、なぜか彼はそれを拒絶した。「ちゃんとお医者さんに看てもらわないと」と香奈美が諭しても、全く言うことを聞いてくれなかった。それどころか「治った」とまで言い出したのだ。さすがに香奈美も怒り、「そんなはずないでしょ!」と少年の細い腕を掴み、ぶかぶかの父のパジャマの袖を捲った。確か、昨日見たときにはここに長さにして五センチくらいの擦過傷があったはずだ。

「あれ?」

 拍子抜けの声が上がる。無理もない。露わになった白い腕に、傷などなかった。傷痕すらない。きめの細かい綺麗な肌が、そこにあるだけだった。慌てて脹ら脛や足裏を見るが、そこにあったはずの傷が一切見当たらない。

「治ったよ」

 なんでもないように、一つ年下の少年が言う。

 香奈美は納得いかないようで、うんうん唸りながら少年の全身に目をやった。しかし、そんなときにふと視界にあるものが目に入った。

 壁に掛けられた時計である。

「うわ、もうこんな時間!」

 時刻は八時十五分を指していた。ホームルーム開始が八時四十分、校門が閉まるのが八時三十五分、家から学校まで歩いて約十分。慌てるほどの時間ではなかったが、のんびりしていられる時間でもない。

「じゃあ、病院はいいけど、家でじっとしててね」

 香奈美はそれだけ言ってリビングを出て、すぐに革靴を履いて玄関を出て行った。見ず知らずの少年を一人家に残しておくのはあまりに不用心であろうが、あの相沢和人あいざわかずとという少年からは悪意は感じ取れなかったし、家にある現金はすべて香奈美の財布に入っている。通帳は金庫に入っているし、その鍵は今持っている鞄の中に入っているキーケースに家の鍵と共に所持している。貴金属は母が死んだときに父がみんな処分してしまった。取るものなど、せいぜい家電などだろうが、それこそあの少年がどうこうしようなどと考えているとはとても思えない。香奈美の部屋に侵入して下着を物色されたら、ということが頭を過ぎったが、やはり考えにくかったし、なぜかそんなことにはならないはずだという思いがどこかにあった。

 もう学校への道程も半分を過ぎ、周囲には紺のブレザーに赤いネクタイ姿が目立ってきた。

「おはよう、香奈美」

 香奈美の肩がポンと叩かれ、振り返る。そこにはノンフレームの眼鏡をかけた、左右に二つの三つ編みを垂らす少女が清々しい表情を見せていた。

「あ、おはよ、景子けいこ

 友人の挨拶に、笑顔が返る。

 彼女の名前は朝倉あさくら景子。高校に入ってからの香奈美の友人で、成績優秀・運動神経抜群、しかも人望厚い人物でもある。しかし実態は、丸みを帯びた顔、そこにかけられた眼鏡の中の瞳を光らせては友人間の噂話という名の情報をかき集めることを趣味にしている四月生まれの十六歳なのであった。

「う~っす」

 その二人の後ろから、今度は低音ながらもどこか爽やかな声がかけられた。

「お、藤丸ふじまるじゃん」

「おはよ、高嶺たかみね君」

 景子と香奈美がそれぞれ、声の主に振り返って挨拶する。

 彼の名前は高嶺藤丸。香奈美や景子と同級生で、健康的で、しかし焼きすぎない肌をした爽やかな印象を受ける少年である。彼はバスケットボール部に所属し、同級生だけでなく、上級生からも人気がある。彼が街を歩けば、十人中九人は振り向くほどのルックスを持ち、しかもそれを鼻にかけないところが人気の秘訣のようだった。一年生にして夏の大会にレギュラーで出場するほどの実力者であり、体育の授業では彼の妙技とパワーに感嘆させられる者が多かった。

 そんな凄い人となぜこんなに親しげに話すのか。それは単に同じクラスメイトだからというわけではない。藤丸と景子は小学校からの腐れ縁で、その景子と仲良くしている香奈美とは必然的に話す機会が増えたというだけのことである。

「藤丸、部活は?」

 部活に所属しているはずの彼がこんな時間に歩いていることを不審に思って尋ねる景子。

「ああ、実はさ」

 言って、藤丸は左手を挙げて見せた。手首に、幾重にも包帯が巻かれていた。

「高嶺君、どうしたの?」

「いや、ちっとな」

 なんでもないと笑ってみせる藤丸。景子はその顔に不信感を募らせるが、どうせろくな事ではないだろうと、この場での詮索を止めた。手首を怪我して部活を休む。今は先の問いに答えてくれたということで良しとすることにした。

「ほら、遅れるぜ」

 時刻はすでに八時三十分を回っていた。

「いっけない。行こう香奈美」

「うん」

 三人はやや早足になって校門へ向かい、やがて駆け足となって、チャイムの鳴る前に教室に着こうとやや焦り、しかし今このときを楽しみながら、脚を動かした。



 佐倉家のリビングで、少年はぶつぶつと下を向いて呟いていた。

「活性率プラス七・五○に設定。完全修復まで、残り予想時間二五二○○セカンド」

 着るものはサイズが大きすぎるパジャマしかないので、それをこのまま着用している。多少動きにくいが、体温の急激な低下を抑えることはできているので問題はない。

「体温を一時的に三Kケルビン上昇。心拍数、脈拍、血圧共に許容範囲内」

 朝食も食べたので、エネルギーの摂取には問題ない。安全かつ完全な修復のためにも、ここは予想修復時間まで休息するのがベストだ。

「演算開始」

 少年はさっきまで自分が眠っていたソファーに向かい、寝ころんだ。傍にかけてあった毛布を被り、目を閉じた。

「実行」

 少年は眠りについた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る