第2話

「さて、どうしたもんかなぁ」

 香奈美かなみは呟きながら淡い緑のエプロンを身に着ける。その耳に、かすかにシャワーの音が届いていた。

「変な子だけど、なにかあったのかな」

 トントントン、と包丁とまな板によって発せられた音が、一定のリズムを刻む。母が死んでからはずっと香奈美が家事を全て行っているため、料理も手慣れている。元々、仕事で忙しかった母の手伝いをよくしていたし、変わりにおこなっていたこともよくあったので、特に何ができなくて困る、ということはない。

 母の死を知ったのは三年前、それは父から語られた。

 研究所で爆発事故が起こり、お母さんは死んだ、と。

―――「お母さんはなんのお仕事してるの?」

―――「お母さんね、みんなのために働いてるの。みんなが平和に暮らせるために」

 確か、これは小学三年生の時の話。

―――「研究所っていうと、なにか研究してるんでしょ?」

―――「うん。病気の研究よ」

―――「病気?」

―――「ちょっと大変だけど、これが解明できればきっと多くの人が救われるわ」

 これは、多分小学六年生の時。

(あの頃から、時々わたしの様子を凝視しているような視線を感じたんだっけ)

―――「最近お仕事大変だね」

―――「ごめんね、苦労かけて」

―――「別にいいよ。でも、たまにはちゃんと帰ってきてよ」

―――「大丈夫よ。この研究が一段落したら、お休みもらえるから。

    そうしたら、久しぶりに一緒に出かけましょうか」

―――「うん。期待しないで待ってるよ」

―――「少しは信用しなさいって。じゃあ、戸締まりよろしくね。今日は泊まりがけになるから」

 あの爆発事故の前日のやりとり。電話越しでの会話。最後の会話。

(お母さん…)

 ギィィィ―――

「!?」

 突然の音に香奈美は驚き、振り向いた。その先にいたのは、ブカブカの服を着た、少し見違えた少年だった。

「あの……」

 少年が何かを言おうとしたが、それを香奈美が遮った。

「さっぱりしたね」

「あ、……うん」

 少年は小さく頷き、顔を朱に染めた。

「ありがとう、ございます。あと……」

「?」

「さっきは、あの、ごめんなさい」

 さっきとは何のことだろうと考えていると、すぐに少年は補足した。

「さっき、母さんって……」

「あ!いいよ別に気にしないで」

 と、ここで会話が途切れてしまった。香奈美は少し慌てながら会話を模索して、言った。

「とりあえず、座りなよ」

 香奈美はキッチンを挟んだ先にあるテーブルに少年を促す。

「ご飯食べよう」

「あ、でも、その―――」

 グギュルルル―――

「お腹の虫はうそがつけてないぞ」

「……はい」

 香奈美は手早く途中で止まった調理を進めていく。

 少年はそんな香奈美の姿をじっと見つめていた。

(やっぱり、似てる……)

 少年はかの人の面影を残す香奈美に見入っていた。

「お待ちどうさまー」

「え?」

 香奈美の声で、少年は我に返った。気づくと、目の前にはテーブルに所狭しと並べられた夕食たち。炊きたてのご飯に野菜炒め、白菜の浅漬けと玉子のスープが少年の視界に飛び込んだ。

「ちょっと作り過ぎちゃったかな、ははっ」

 照れ笑いをする香奈美をよそに、少年は目の前の光景にぽかんとしている。

「これは……」

「あ、なにか苦手なものとかあった?」

 少年の首はブンブンと横に振られた。

「お腹、いっぱい……じゃないよね?」

 ぐぅぅ~、と代わりに腹から返事が返ってくる。

「これ、食べていいの?」

 怯えたような少年の目に、香奈美は包み込むような優しい笑顔を返した。

「どうぞ。そのためにがんばったんだから」

 そう言って、香奈美は箸を取った。

「いただきます」

 少年もつられるように箸を取った。

「いただきます……」

 恐々と、しかも不器用に箸を使って皿に手を伸ばす。そして、それを一口。

「どう?おいしい?」

「うん!」

 初めて、少年が笑顔を見せた。

 それから、少年の箸は止まらなかった。

 すさまじい勢いでご飯をかき込み、さらに盛られたおかずが見る見る減っていく。

(相当お腹空いてたんだ…)

 そして数分後、三回のおかわりをもって、少年は箸を置いた。それは、テーブルの料理が全てなくなったからである。

 香奈美も箸を置き、満足げな少年を見てうれしくなった。

「ごちそうさま。どう?おいしかった?」

「うん」

「よかった」

 香奈美は素早く皿を下げ、手早く洗い物を済ませると、少年と改めて向き合い、テーブルを挟んで座った。

「で、君はどうしてあんなところで倒れていたの?」

「……」

「君、名前は?」

「し…」

「し?」

相沢和人あいざわかずと

「和人君、歳は?」

「……今年で十三」

「じゃあ、わたしの三コ下だ」

 香奈美は笑顔で接するが、目の前の少年、和人は俯いたままだった。

「どこからきたの?家の人、心配してない?」


 ピンポーン―――


 突然のインターホンに、香奈美は思わず振り向いた。時計を見ればもう八時を優に越えた頃である。こんな時間に誰だろうとイスから腰を上げると、和人は香奈美の袖を引っ張った。怯えるような、母に縋るような、弱々しい表情で見上げていた。

「大丈夫だよ。すぐ戻ってくるから」

 和人の手を取ってそう言うと、香奈美は玄関へと歩いていった。

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