VXZ
神在月ユウ
第一章
第1話
少年は走り続けた。
息が切れても、心臓が弾けそうになるくらい苦しくても、とにかく走り続けた。
アスファルトに擦れた素足からは血が滲むが、それにも構っていられない。
今止まるわけにはいかない。止まったら捕まる。だから、止まれない。
少年は走り続けた。後ろには誰もいない。でも、走り続けた。
しかし、少年は体の衰弱と空腹により、意識が遠のき始めている。
(早く、逃げないと……)
少年の心の中には、恐怖が渦巻いていた。
(遠くへ……)
バタンっ、と少年は倒れた。そこは、とある住宅街の路地の一角。
(できるだけ、遠くに……)
少年の意識は、そこで途絶えた。
十月の漆黒の空に月が輝き、夜の住宅街を照らしている。それに対抗するように、広大に広がっている家々の光が地面を埋め尽くす。まるでどちらが星空だかわからないくらい、住宅街は無数の明かりを洩らしていた。
「ただいまぁ」
一件の家のドアが開き、紺のブレザーを着た、後頭部で髪を左右二つ縛りにした少女が右手にカバン、左手にスーパーの袋を持って帰宅した。しかし、静まり冷え切った家の中、少女の声に答える者は誰もいない。
「……って言っても、返ってくるわけないか」
少女はパチっと電気をつけて靴を脱ぎ、すぐにリビングへと歩きだした。
少女の名前は
香奈美の母親は三年前に他界している。とある研究施設の研究員であり、その実験中に事故が起こり、それによって死んだ、と当時中学校に入学したばかりの香奈美は父親から聞かされていた。その父親も、ここ一、二年帰りの遅い日が続き、香奈美はほとんど一人暮らし状態である。
香奈美はまずリビングの照明を点灯させ、テレビを点けた。特にチャンネルは気にしない。あまりに静かだと気が沈んでしまいそうなので、とにかくなにか聴覚的刺激が欲しかった。テレビからは民放のニュースが流れていたが、それもあまり耳には入ってこない。何か音源があるだけで、香奈美は落ち着くことができた。画面内で、女性アナウンサーが新たな原稿を読み上げているところだった。
『東京都台東区で、男性が倒れているとの通報があり、警察と救急がかけつけたところ、男性はその場で死亡が確認されました。警察からの発表では自殺の可能性が高いとのことですが、遺書なども見つかっておらず、動機も不明のままです』
香奈美は片手間にニュースを聞いていたが、やはりあまり耳に入ってこない。どうしてわざわざ自分から死んじゃうんだろうと、断片的に聞き取った言葉から、そう思っていた。
台所に向かうと、スーパーの袋の中身を取りだし、冷蔵庫に食材をしまっていく。それから、野菜室からレタスやもやし、スーパーの袋から豚肉を取りだし、野菜を洗おうと水道に手をかけた。
―――どくんっ
香奈美の手が止まった。なにか、違和感を覚えたためだ。しかし、その正体まではわからない。瞬間的に跳ね上がる心拍に驚きながらも、それが肉体的変調でないことは確信していた。
(何?今の……)
再び手を動かそうとするが、なぜか異様にさっきの違和感が気になってしょうがない。
香奈美はなんとなく家の外に出てみた。
玄関のドアを開けて門扉を抜け、道路に飛び出した。
すると、自分の右側、ほんの三、四メートルのところに、なにか白い大きなものが電柱に
近づくにつれ、白いものの詳細が明らかになっていく。
まず、その白いものは人であるということ。その白いものはまるで病院で検査をするときに着るような簡素な服であるということ。
そして、その人は自分よりも少し下くらいの年頃の、どこか幼さを残す、いうなればかわいらしい少年であるということがわかった。その体には、無数の切り傷があり、腕には内出血も見られた。
「うそ。どうしよう…」
香奈美は動揺する。何しろ粗末な格好の少年が傷だらけで倒れているのだ。あまり関わり合いを持ちたいとは思わないが、放っておくわけにもいかない。
香奈美は少年の腕を肩に回し、引きずるように自宅へと運んだ。思ったより軽かったが、それでも一般的な女子高校生である香奈美には重すぎた。引きずる度に靴を履いていない少年の足がアスファルトに擦れるのが痛々しかったが、それでも十月の夜風に怪我人をさらしておくよりも良いと考え、早々に少年を家にかつぎ込んだ。
玄関に入れたところで、香奈美は気づいた。
「気づかなかったけど、結構泥だらけだ……」
少年の服には泥がこびりつき、足も血が滲んで痛々しかったが、その上から泥で汚れている。まるで山から下りてきたように連想させられた。
「とにかく、まずはお風呂かな」
香奈美は風呂を沸かそうと台所まで行き、壁についている電子機器のスイッチを押した。すると『お湯張りを開始します』という機械音と共に風呂場から水の流れる音が出始めた。
「これであと十分もすればお風呂はオッケーで……」
香奈美は必要なものを思い浮かべていく。
「あと、着替えかぁ……」
さすがにあの泥だらけの服をこのまま着せ続けるわけにもいかない。香奈美は二階の父親の寝室に向かい、服を適当に取り出して再び部屋を出た。少し大きいだろうが、そこは我慢してもらうしかない。問題はこの後だ。
(やっぱり、わたしが洗うのかな…)
気を失っていては風呂には入れない。そうなると、自分が入れねばならないが、目の前にいるのはいくらかわいい顔をしていてもやはり男の子である。しかも自分と同年代の。
―――などと行動を迷っていると、都合良く少年は目を覚ました。
「う……ん……。あ、れ?」
少年はゆっくりと目を開き、その目に見慣れない光景を捉えた。
「あれ?」
屋内であるのは理解した。それから、すぐとなりで自分を見つめている少女の存在に気づいた。そして、少女の顔を見て、呟いた。
「かあ、さん?」
「?」
香奈美はわけがわからない。
少年から漏れた言葉、かあさん。多分、母さん。お母さん。
「あの、大丈夫?」
とりあえず聞いてみる。どうして自分のことをそんなふうに呼ぶのかはさておき、このままの状態でいるのはよろしくない。
「とりあえず、その泥落としてきなよ」
少年はこくりと頷き、香奈美に促されるままに風呂場へと歩いていった。
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