Episode2





 大きく風がひと吹した。どこか心地よく、薬草の香りが吹き抜けていった。


「まったく」


 不愉快そうな声と共に、視界に明るさが戻る。

 頭上から降り注いだその声に、エマは上を向く。すると目の前に映ったのは、自身を睨みつけているアインハイトの呆れたような顔。

 美しいアメジストの瞳に吸い込まれてしまいそうなほど、その距離は近く、エマは思わず呼吸を止めた。


「あんなのに魅入られるとは」


 そういえばさっきの変なのは、と慌てて先程の奇妙なものに目を向けるが、なぜか姿は綺麗さっぱり消え去っていた。

 そこにあるのはそよそよと風に揺れる植物だけ。


「…あれ?」

「なに間抜けな顔しているんだ」


 すると突然、エマの両頬がアインハイトの手に掴まれ押しつぶされる。そして再びアインハイトの端正な顔が目の前に迫る。


「ひゃにふるんでふか(何するんですか)!!」

「何するんだ、だと?それはこっちのセリフだ」


 ひやりとする手。その手が先程の手を覆った正体だったのだと、エマは今更気付く。


「こんな所で1人で何してるんだ」

「ひるはーとひゃんにひじゅやひほ(ギルバートさんに水やりを)」

「何言ってるかさっぱりだな」

「ひゃっひゃら、ほのへほ(だったら、この手を)!!」


 何がさっぱりだ。あんたがこの手で掴んでいるせいだろう!とエマは怒鳴りたくなる。

 アインハイトの腕を掴み、頬を押さえる手を必死に離そうとするががっちりと力が入り、びくともしない。

 白く細い腕に見えるというのに、なぜこんなにも力が強いのだ。


「ははっ、間抜け面だな」

「ぐっ…!!」


 するとようやくエマの顔はアインハイトの手から解放される。強く掴まれていた頬は指の形に赤くなってしまい、じんわりとした痛みが残る。


「ほら離してやったぞ。…で、1人で何してる?」


 エマは頬を手で押さえながら、渋々答える。


「ギルバートさんに言われて、水やりを」

「それでどうして、あんなのにちょっかい出されるハメになるんだ」

「…あんなの?」

「エマ・ヴァイオレット、君との会話は本当に疲れるな」


 大袈裟なほどため息を吐き、腕を組んでアインハイトはエマを見下ろす。


「いただろう、魔物が。まぁ魔物とも呼べないほどの雑魚だけどな」

「ま、魔物!?あれ、魔物だったんですか!」

「分からないで、熱心に見つめてたのか」

「どうしたらいいか考えていたんです!」

「考えていたとは、実に悠長な事だ。あれが力のある魔物や邪悪な精霊ならば、君はそんな事をしているうちに連れ去られるか、命を奪われていただろうね」

「…え?」

「当然だろう。魔力があるものは珍しく、そういう者達に好まれる。ここでは常にその危険がある事を忘れるな。…まぁ僕がいる限り、そんな事にはならないけどな」


 さっきのでさえ、心の底から恐怖を感じたというのに、あれで雑魚とは。しかも相手が悪ければ、今こうして話すらできていなかったかもしれない。

 エマは一気に血の気が引く。なんて場所に来てしまったのだろうか。


「怖気付いたか?」

「…い、いえ」

「の割には顔色が悪いが?」


 よほど気に入らないのか。それとも早速辞めさせたいのだろうか。

 アインハイトはにやにやと顔を緩ませながら、エマに挑発的な態度を取る。しかしその手には乗らないぞ、とエマは唇を噛み締めた。


「平気です!」

「…そうか」


 少し残念そうに、アインハイトはエマの顔を覗き込んだ。

 その時エマはふと、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。


「…ところでなぜここにいらっしゃるのですか?」


 どこから突然現れたのか。今の今まで姿は見ていない。

 アインハイトは面倒そうな顔で少しの間エマの事を睨んでいたが、渋々屋敷の上の方を指差した。

 エマは不思議そうに指の先を見つめる。指していたのは、とある窓。

 どこかの部屋の窓のようで、大きな両開きの窓は開かれている。


「あそこは僕の部屋だ」

「はぁ…」


 その言葉にいまいちピンとこないエマは、はっきりしない返事をする。

 アインハイトはその反応が気に入らなかったようで、不満そうに腕を組み、ため息を吐いた。


「たまたま外を見ていたら、間抜けな愚か者が目に映ったんだ」

「間抜けな、愚か者。……って、もしかしてそれ、私のことですか?」

「もしかしなくても、君以外にいないだろう」


 確かに危ないところだったが、そんな言い方をしなくても、とエマは口を尖らせた。


「ただでさえ気持ちのいい朝ではなかったというのに、あんなものに魅入られているだなんて。放っておいても良かったんだが、せっかくの魔力持ちだ。…感謝するんだな」


 アインハイトはとにかく嫌味を言わなければ気が済まない人物らしい。次から次へと、息をするように、よくもそんなに嫌味が出てくるものだ、とエマは感心した。

 とにかく彼が言いたいのは、たまたま窓から見ていたら、魔物に魅入られているエマの姿が目に入り、わざわざ助けに来てくれた、ということのようだ。


「わざわざ助けに来てくれたんですか?」

「そうだ。この僕が、君なんかのためにな」

「…まさかあの窓から?」


 開け放たれ、気持ちよさそうにカーテンが風に揺らめく窓。

 アインハイトの部屋があの場所だとすれば、あそこは2階にあるため、地面からはかなりの高さだ。普通の人では、飛び降りたら怪我をしてもおかしくはない高さだろう。

 話を聞く限り、アインハイトがエマに気付いたのは、あの変な魔物が現れてからのようだ。

 あの魔物が現れてから、アインハイトが助けに来るまで大した時間は経っていない。

 ということはつまり。


「そうだ。何か問題でも?」


 けろっとした顔で、なにがおかしいんだと言いたげなアインハイト。

 どうやらエマの予想は当たったようで、彼はあの窓から飛び降りて、ここへ駆けつけたようだ。


「…いえ、問題はありませんが」

「ならなぜそんな不満そうな顔をするんだ。助けてもらったんだ、そのような顔は納得がいかないな」


 アインハイトは高いその背丈を、エマの目線に合わせるように腰を曲げて顔を覗き込む。

 

「お怪我は、してないんですか?」

「…僕が?」

「はい」


 あんな高いところから飛び降りたんだ。こんな態度をとっているが、足を捻るくらいしているかもしれない。

 さすがに自分を助けに来た人を心配しないほど、エマは鬼ではない。

 心配そうに、エマはアインハイトに問いかけた。するとアインハイトはその言葉が、相当面白おかしかった様子で笑い出す。


「あっはっは!!君が怪我をするなら分かるが、なぜ僕が怪我なんかするんだ」

「…だって、あの窓から飛び降りたんですよね」

「そんなことくらいで、僕が怪我なんかするものか」


 よほど面白かったようで、アインハイトは大きい声で笑い続ける。


「君は心配性だな」

「そういうわけでは。ただ、あんな高いところから降りたりしたら」


 万が一の事があったら、と聞いた事だったのに、こんな反応をされるとは思っておらず、エマの顔はますます不満の色に染まる。


(そんなに笑わなくても)


 膨らむ頬を押しつぶすかのように、アインハイトの手が再びエマの頬を掴む。


「君は僕が誰だか、もう忘れたのか?」

「…ユリウス・アインハイト、様、です」


 その答えは望んでいたものではなかったらしく、大きなため息が吐かれる。

 陽の光に美しく輝くアメジストは、まるで本物の宝石のようだった。その目は細められ、エマを貫く。


「僕は魔法使いだと言っただろう。…あんな所から飛び降りるくらい、なんて事ないんだ」

「……ほうひはへ、あひはへん(申し訳、ありません)」

「何を言ってるんだ」

「……!!」


 また起こるこの不毛なやり取りに、エマは怒りが湧き起こり、頬を掴む手を引き剥がす。


「っ!君は乱暴だな」

「乱暴はどっちですか!」


 アインハイトはわざとらしく、引き剥がされた手をさすりながら言った。

 そして意地悪そうな笑みを浮かべる。


「で、礼は?まだ君の方から、助けた礼を言われていないが」

「……ありがとうございました!」

「お礼を言っている態度ではないが、まぁいい」


 まるで怒鳴りつけるような礼を、嫌々言うエマ。冷静に考えれば、雇い主に言う礼の仕方ではない。

 けれどそんな心の余裕は今はない。

 アインハイトは呆れたような顔で、そんなエマを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法使いの使用人 雪月香絵 @mizuki_kae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ