勿忘草③

 教育プログラムが終わって二年が経った。

 大和は以前と同じ、都会の喧騒けんそうまれる生活に戻っていた。

 大和にとってはそれが日常だったため、違和感を感じることなく受け入れていたが、ふとした時に若菜がいた町でのことを思い出していた。

 あくまで仕事のためにおもむいただけだと自分に言い聞かせているが、あの温かさを知ってしまったからには、忘れることなどできなかった。

 大和の両親は早くに他界し、親戚に頼ることもなく、すべてのことを一人でやってきていた。

 だからこそ、大和には若菜や両親の温かさや、自分のいる環境とは別の環境で伸び伸びと育つ子供たちがなによりも新鮮で、ぽっかりと空いた大和の心を満たしていた。

 しかし、若菜やあの町にいた誰とも個人的な連絡先は交換しておらず、今さら連絡先を聞きに行くのもなにか違う気がする。

 それならば、あの一年は人生の素晴らしい出会いのひとつとして昇華しようと大和が心に決めたある日。

 守護者協会で勉強会があり、大和は一日協会の建物内にいた。

 勉強会が終わる頃には日も傾き始め、遅くならないうちに帰ろうと大和が協会の建物を出ると、誰かに声をかけられる。


「緑橋先生!」


 そこにいたのは誰でもない若菜の姿で、大和はまさかこの場に若菜がいるとは信じられず、その場に立ち尽くす。


「草壁先生?」

「お久しぶりです!」

「先生、どうしてここに?」

「都会ってすごいですね! こんなに人が多いの初めてですし、電車も乗り換えするのに一苦労でした!」


 見るものすべてが今まで自分の住んでいた環境にはないもので、若菜は戸惑う大和をよそに、子供のように興奮して話し続ける。


「ここに来る時も迷子になっちゃって、色んな人に聞いて来たんです」

「草壁先生。なぜ草壁先生がここに?」

「あ、すみません。えっと……長期休暇なので遊びに来ました!」


 興奮冷めやらぬ若菜を落ち着かせると、若菜は自分が思っていた以上に興奮していたことに気づき、申し訳なさそうに笑う。

 なにか行事があって休みができたのだろうか、それなら若菜がこの場にいることに納得できた。

 大和は内心では若菜にまた会えたという嬉しさでいっぱいだったが、同時にまさか会えると思っていなかった驚きで大和は半分放心状態になっていた。


「その……迷惑でしたか?」

「とんでもない。また先生に会えて嬉しいです」


 この時ばかりは表情があまり表に出ないタイプで助かった、と大和は若菜の問いにできうる限りの平常心で返した。

 その夜は大和も若菜も予定が空いていたため、大和が時々通っている割烹かっぽう料理店に若菜を連れて行った。

 そこはモダンな雰囲気と会話をさえぎらない程度の音楽が薄く流れており、大和は見知った顔の店員と挨拶を交わし、奥の半個室の部屋に案内される。

 若菜も最初は店内を見回してそわそわとしていたが、料理が出てくると目を輝かせながら嬉しそうに箸を進めていた。

 胃袋がそれなりに満たされたところで、若菜に近況を尋ねられ、大和はいつもより穏やかなトーンで答える。


「今は数年前とは別の学校で教頭をしています。教頭と言えど異能力を教える立場で、それなりに充実しています」

「そうなんですね。なんというか、緑橋先生が変わってなくて安心しました」

「相変わらず仕事人間ですよ。草壁先生の方はどうですか。あの子たちは元気ですか?」


 若菜に聞きながら、大和は異能力を教えていた生徒たちの顔を思い出す。

 今頃どうしているのだろうか、二年も経てば自分のことを忘れている子も一人くらいはいそうだ、と思い返してると、若菜はグラスを持ったまま話し始める。


「私、学校を……というか、先生を辞めたんです」

「先生を……なにかあったんですか?」

「いえ、辞めた原因は自分絡みのことなんですが……。自分が思っていた以上に病気は深刻みたいで、あれから体調が日に日に悪化していって、ちょっと前には異能力を使ってないのに倒れたんです」


 若菜が話す間にもグラスの中の氷は溶けていき、カランと小さく音が鳴る。

 この数年で若菜の病気がそれほどまでに重くなっていたとを知らなかったとはいえ、大和は迂闊うかつに近況を尋ねた自分を恥じた。

 しばらく店内に流れる音楽だけが空気を支配し、それに入り混じるような控えめな声で若菜はつぶやく。


「なので、これ以上周りに迷惑をかける前に辞めました。いつかまた倒れて、そのまま目が覚めないかもしれないって考えたら…………だから、死ぬ前に、もう一度だけ緑橋先生に会いたかったんです」


 そう話す若菜の声は震えていた。

 そんな若菜を見た大和の中に、ある決意が生まれた。

 この人を守りたい、この人が笑っている姿をずっと見ていたい。

 二年前のことが今でも忘れられなかったのは若菜がいたからだと、ようやく大和の脳内が理解した。

 ふとした時に笑顔がなくなる若菜は、いなくなったらそのまま消えていきそうな儚さがあり、思わず伸ばした手を理性で止め、その手をぐっと握りしめる。


「草壁先生、もう少しだけ待っていてください。今はようやく仕事が軌道に乗り始めました。その道を今外れるわけにはいかない。なので……どのくらい待たせてしまうかは私にも分かりません。ですが必ず、私の方から迎えに行きます」


 はっきりしないと言われてしまえばそれまでだったが、簡単に伝えられるほど気持ちも言葉も整理されていなかった。

 しかし、大和の言葉がなにを意味するのか若菜には伝わったようで、しおらしい表情は次第にいつも大和が見たい明るい表情に戻っていった。 


「先生、よかったら交換日記しませんか?」

「交換日記ですか?」

「はい。生徒たちの間で流行ってるみたいなんです。今なら簡単に連絡を取れますけど、あえてそういうのも楽しいのかなって」


 大和が教えていた生徒の中でも交換ノートと称してやり取りをしているのは見たことはあるが、まさか自分がやるだなんて大和は想像もしていなかった。

 それから二人はその日あったこと、食べたもの、小さな悩みなどを、文通をするようにノートのやり取りを始めた。

 最初は様子をうかがうような内容だったが、次第にお互いに踏み込んだ内容なども書くようになり、ノートの一冊目はあっという間に埋まった。

 その後も二冊目、三冊目とやり取りは続き、時にはメールに画像を添付するように写真を貼りつけることもあった。

 ノートが届いていないかとポストを確認して一喜いっき一憂いちゆうするのも二人の日課になり、ノートが来た日にはその日の疲れもすべて吹き飛び、今までのやり取りを読み返しながらペンを走らせた。

 ノートはすぐに届かないこともあったが、お互い必ず返事をくれると分かっていたために、返事の催促さいそくをしたことは一度もなかった。

 そして季節は何度か巡り、せみが一斉に鳴き始める頃。

 若菜はそろそろノートが返ってくる頃だろうと連日そわそわしながら家事をしていた。

 大和に会えなくても、唯一の繋がりである交換日記は大和と顔を合わせて話しているような感覚がして、罫線けいせんに沿って書かれた大和の整った字を思い出す。

 あの綺麗な字でどんな返事が来るのだろうかと、若菜は隠しきれずに鼻歌を歌いながら手を動かす。

 家事が一段落したところで、インターホンが鳴った。

 近所の誰かが遊びに来たのだろうか、と若菜は流れてくる汗を拭いながら玄関に向かう。


「はーい」


 普段ならインターホンは鳴らずに玄関から声が聞こえてくるはずだが、と思い返しながら引き戸を開けると、そこにいたのは大和だった。


「緑橋、先生……?」

「お久しぶりです」


 夏らしくワイシャツの袖をまくっている、見慣れていたスーツ姿の大和がそこにはいた。

 なぜ大和がここにいるのだろうか。

 大和に会いたい気持ちが幻を作っているのだろうか、期待させてしまう夢なら覚めてほしい、と若菜は願うが、目の前にいる大和はまぎれもなく本物だった。

 自分の記憶の中と変わらない大和が目の前にいて、若菜の目からは自然と涙がこぼれてきていた。


「遅くなってすみません。話す前に、場所を変えてもいいでしょうか」


 そう言って若菜を連れて大和が向かったのは、教育プログラムを行っていた当時、若菜が連れてきてくれたひまわり畑だった。

 大和は以前、若菜がノートに満開に咲くひまわり畑の写真を貼っていたため、どんな風景なのかは頭の中で想像ができていた。

 しかし今日、太陽に向かってまっすぐに咲くひまわりたちを実際に見て、これが若菜が見せたかった景色なのかと大和は心の中で感動を味わっていた。


「写真の通り……いえ、それ以上に綺麗ですね」

「先生、来るなら言ってくださいよ……」

「すみません、驚かせようと思っていたので」


 びっくりして泣いちゃったじゃないですか、と若菜は目に溜まった涙を拭いながら笑う。


「草壁さん」

「はい」

「今まで先生と呼んでいたから、なんだか不思議な感じですね」

「……先生、名前で呼んでください」


 居直った大和がどこかまぶしくて直視できず、恥ずかしそうにうつむく若菜に、大和は「分かりました」と微笑む。


「若菜さん。私と、結婚してくれませんか」


 夜景が見えるレストランでもなく、白い砂浜とコバルトブルーの海が見える浜辺でもなく、片田舎のひまわり畑で。

 普段の生活でなにげなく通り過ぎるような場所だが、二人にとっては思い出の場所であり、気持ちを伝えるならここしかないと大和は決めていた。

 大和の言葉に、若菜は「もちろんです」と大きくうなずいた。

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