魔女と下僕の物語
@CHUNO
第1話 断崖絶壁にて
「早く飛び降りてちょうだい」
まるで朝食のパンのジャムをねだるよう、当たり前に発した言葉に私は首を傾げた。
私たちは断崖絶壁の脆くも細い道を渡っていた。絶壁の下には荒々しく波立っている海があり、次の街に行くためにはこの道を通るほかなかったのだ。
長雨の影響で行商人が通る道が崖崩れにより通行止めとなっており、復旧の見通しが立っていない。
急ぎの旅路ではなかったのだが、次の街には彼女が楽しみにしていた秘湯があるらしい。長い旅の中でくたびれた身体を癒やす欲求に忠実となった彼女の命令で、大回りをすることになってでも出立することにしたのだ。
下を覗くことを躊躇ってしまうような絶壁を先行して私が歩いていると、彼女が私の背負ったバッグに手を伸ばしてお菓子を取ろうとしたところで事件が起きた。
私の足元にあった岩が不安定で身体のバランスを崩し、開いたポケットに入っていたお菓子が絶壁の下へと落ちていったのだ。
「諦めてくれないかな。他の食料ならまだあるだろう」
「食べるのを楽しみにしていたのよ。カチカチのパンで代用できると思っているとしたら愚かね。別の意味でここから飛び降りて欲しいわ」
私の眼を一点に見つめる彼女の瞳には感情が含まれているようには見えない。本気で取りに行くように命じているのだ。
「命じるわ、リュード」彼女がそういうと、私の意思とは関係なく操り人形のように身体が動き出す。「今すぐお菓子を取って来なさい」
なぜ女というのはこうも融通が効かず、人の話も聞かず、癇癪を起こしやすいのかと不思議に思う。
私はこの魔女と服従の契約をした。契約の対価として本来人生で得るはずのなかったかけがえのないものを手にしたのだ。
当時の彼女はまだ幼く、私は青年だった。世間も知らず、知識もなく、何より経験がなかった。あの日、契約をした時にこんなにも理不尽な女になるとは思わなかった。歳月は人の性格に残酷な変化を時にもたらす。人間の本質はある程度の年齢で成熟してしまうというが、魔女はどうなのだろうか。
私は交渉という賭けにでることにした。焦ってはいけない。どれだけ劣勢だろうと相手が納得するに至る材料を提示しなければならない。言葉を一つ間違えれば、私はお菓子の為に絶壁から海へと飛び降りることになるのだから。
「少し冷静になって考えてみないか。落ちたお菓子は紙包みされていて、海水に浸れば湿ってしまってると思う」
「今すぐ飛び降りて拾えばまだ間に合うかも知れないじゃないの」彼女の眼がギラつく。
「私が落ちてからお菓子を拾うまではそこまで時間がかからないよ。けれど湿っているお菓子をここまで運ぶまでの間にお菓子が駄目になってしまうのではないかな」私は言葉を畳み掛ける。
「そんなお菓子の為だけにここで足止めをしているくらいなら、次の街で温泉に入りながら新たに買ったお菓子を食べれば良い。目的地のセンタロスという街は小麦の生産地として有名だと聞いた。きっと気に入るお菓子があるはずだ」
前の街でリサーチをしておいて本当に良かった。知識とはこういう場面で役に立つものだ。もしこの情報を知らなかったら、既に私は海の中にいただろう。
彼女は変わらず私の眼を見ている。ゴクリと飲んだ私のつばの音は聞こえなかっただろうか。何にせよ私の交渉により稼いだ時間は、海に落ちたお菓子を駄目にするには十分な時間だったはずだ。そのことは彼女も理解しているだろう。
「それもそうね」
彼女はようやく目線をそらして少し考える素振りを見せると沈黙する。
我ながら関心する言い回しに手応えを感じた。なのにこの沈黙はなんだろうか。嫌な予感がする。
「あなたの言い分はわかったのだけど、一つ気になることがあるの」
「なにが?」
「あなた、謝ってないわよね」
致命的なミスをしていた。いやこれはミスなのだろうか。私は叫びだしたくなる気持ちを必死に抑えて、相手の言葉を遮らないように注意した。逆上する可能性があるからだ。
彼女はこちらを振り返り、再び私の眼を今度は敵意を持った眼差しでにらみつけた。
「確かにあなたの言う通りここで足止めするのは賢くないと思うのだけど」
「いや、ちょっ、ちょっと待って──」
動揺が隠しきれなかった。もう残された手段は──ないのか? 本当に?
「人のお菓子を台無しにしたのだから、まずは謝るべきよねぇ」
「申し訳なかった」そもそも私が悪いのかと思いながらも慌てて繕ったその言葉は、確かに彼女の耳に届いたはずだ。
「命じるわ。リュード・ファン・ベルダルク、それでも私の気が収まらないからお菓子を取ってきなさい」
出会った頃の彼女を思い出す。あどけない、天使のような笑顔を。
あぁタリア・リーン・エクセレス、君にこんな呪いの言葉を聞かせるのがつらい。
「このワガママ魔女が!地獄に落ちろ──」
静寂の世界の中、真冬の海は全ての思考をかき消していった
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