5.Welcome to the Eden/エデンにようこそ

 私の世界は非常に単純なものだった。白衣を着た人間たちの指示を聞き、その通りに行動するだけ。何も考える必要はない。そんな世界の中で、それでも私は思考を始めた。それはきっと、貴方がいたからだった。

 35番と呼ばれる被検体の様子は、一度気づいた後は本当に奇妙だった。指示の一つ一つに表情が変わる。返事をする前の間が指示によって変わる。眠れと指示された時間に眠らないことがある。そういった様子は、私の世界には無いもので、だからこそ気になった。もっとも、そういった自分の感じ方に気づいたのはずっと後のことだけど。

 彼に声をかけた後、私の世界は大きく広がっていった。読書をして、分からない部分を彼に尋ねる。彼はたまに答えを濁したけれど、大抵のことには答えてくれた。その優しい声色は私には新鮮で、不思議と胸の辺りが暖かくなる感じがした。そんな感じを伝えたくて、一緒に美味しいものを食べたいと言った時の彼の表情は特に奇妙だった。眉尻は下がっているのに、口元が笑っている。泣きそうなのに、笑っているように見えた。

 そして今、私は研究所から連れ出されて、肩に包帯を巻かれて眠る彼を見ている。研究所で、血だらけの彼を見つけた時の感覚は忘れられない。全身から暖かい感じが消えて、喉の周りにもやもやが溜まって呼吸が難しくなる。今でも少しその感覚が残っている。

 私は眠る彼の手を握る。早く目を覚ましてほしい。また私を温めてほしい。



 右手のあたりに冷たいものが触れた気がして、僕は目を覚ました。見慣れない、少し黄ばんだ天井が目に入る。

「ここは……」

 僕が声を上げると、視界が肌色に埋め尽くされた。これは……誰かの顔か?

「……起きた?」

「……39番?なんか近くない?」

 僕がそう言うと、彼女は僕から顔を離した。それから僕の顔をそっと撫でて、ふわりと微笑む。

「……」

「……えーっと。39番?ここが何処かとか、聞いてもいい?」

「……暖かい」

 どうしちゃったんだろうこの子は。全く状況が読めん。周りを見渡してみる。僕はどうやら診察台のような物で眠っていたようだ。近くには心電図などを表示するモニター類が置いてあり、治療器具もみえる。遠くを見ると、手術台のようなものもあるようだ。手術室と病室が合わさったような感じなのだろうか。その割には不衛生にみえるが。

「お、目が覚めたのか」

 ドアの方からしわがれた声がかかる。ドアの近くに老人が立っていた。老人はサングラスをかけて、くたびれた白衣を着て、煙草を吸っている。そこまでは変わった格好の老人というだけだが、妙な部分もすぐに見つけることが出来た。左腕が機械になっている。その腕が白衣に収まらなかったのだろうか、白衣が左腕の部分だけ切り取られ、黒い金属製の屈強な腕が露出されている。老人が煙草の煙を揺らめかせ、僕の近くまで来て言った。

「今どきの子供が全身生身とは珍しいのぉ。おかげで治すのに苦労したわい」

「……あんたは?」

「命の恩人に向かって随分いい態度じゃのう。お前さん、あのままじゃったら出血多量でくたばっておったぞ」

 にやにやと笑いやがって。この老人、怪しすぎる。口ぶりから言って僕を治療したのはこの老人なのだろうが、何が目的だ?見返りに何を求めているのだろう。

 僕が老人を警戒して考えを巡らせていると、再びドアの方から声がかかる。

「あまりその子をからかわないでよ、ドク」

 今度は女性だ。女性にしては長身で、ブロンドの髪を胸の辺りまで伸ばし、後ろで一つに結んでいる。青い瞳と相まって華やかな顔つきに思えるが、オーバーサイズの黒いジャケットを羽織っているのが何だかミスマッチだ。

「ドクのことは気にしないで。人をからかってニヤニヤするのが生きがいの老いぼれだから」

「ひどい言い草じゃのう。最近の若者は老人に対するリスペクトが足りとらん」

「……それで?気分はどうなの?」

 女性がドクとやらを無視して僕に話しかけてくる。それでようやく思い出した。

『助けてあげる』

 この人、僕を助けてくれた人だ。

「気分は悪くない……けど、どうして僕を……」

「ストップ。その辺の話はしてあげるから、取り敢えず場所を変えない?貴方もこの老いぼれと一緒に話を聞くのは嫌でしょ?」

 確かに嫌だ。でも僕は一応重症者だったよな。そう思ってドクの方を見ると、

「もう動けるはずじゃ。ただし1週間は安静じゃぞ。傷が開くからな」

と言った。

 ならさっさとここをお暇するとしよう。まだ状況を完全に掴めたわけではないが、おそらく僕たちをあの研究所を脱出したのだろう。となれば、そのことを知っている人間はできるだけ少ない方がいい。僕を助けてくれたであろう女性を完全に信用することはできないけれど、ここでついていかないという選択肢もない。何の狙いがあるのかわからないが、この人に見捨てられれば僕たちに生きていく術はない。

「それじゃあついてきて」

「行こう、39番」

 僕は立ち上がって、女性についてで口の方に向かう。39番もぴったりとついてくる。

「じゃあの、二度と来るでないぞ」

 ドクが僕の背中に声をかけてくる。言われなくてもわかってると心の中で呟きながら、診療所を出た。

 


 外は夜だった。街灯などはなく、通りには掘っ立て小屋のような貧相な家が並んでいる。人がちらほらと歩いているが、どの人も体の一部に機械が見えた。

 僕たちはその場に突っ立って辺りを見回していた。そんな僕たちを見かねたのか、女性が話しかけてくる。

「私の車があるから、そこまで行きましょう」

「……ああ、わかった」

 女性の車は大きな黒いピックアップトラックで、外装に分厚い装甲が取り付けられていた。ハンドルの周りにいろいろなスイッチやメーターがついている。戦闘機のコックピットのようである。助手席に乗り込むと、39番が僕の膝の上に座ってくる。危ないので、僕は39番を連れて後部座席に移動し二人で横並びに座る。

「……いつもそんな調子なの?」

 運転席に座った女性が不思議そうに尋ねてくる。何のことだろう?本気で分からなかったので首をかしげると、

「いや、まあ、分からないならいいわ」

と言って濁してくる。よくわからないが、言わないということは大したことではないのだろう。女性が車を発進させ、話し始めた。

「まずは自己紹介から。私の名前はカミラ。この街で傭兵をやっているわ」

「傭兵?」

「金をもらって依頼をこなす何でも屋ってとこね。大体が殺しや盗みなんかの汚れ仕事だけど。この街じゃ金がすべてで、ほとんどの金の流れは企業が握ってる。嘘や不正は当たり前。そんな街だから、汚れ仕事の需要は絶えないってわけ」

 なるほど。この世界は企業の力が強まっていて、法なんかの公権力があまり機能していないのか。だからこんな商売も成り立つ。カミラさんとやらの素性はわかったが、まだ気になることは山ほどある。

「あの研究所は何だったんだ?」

「あの研究所を運営していたのはアカツキ社。世界のトップ企業が集まるこの街のさらに頂点よ。あの研究所は表向きには遺伝子工学の研究を行っていることになっていたんだけど、実態は違った」

「というと?」

「あの研究所で実際に行われていたのは、兵器の開発よ。そしてその兵器っていうのが……」

 カミラがバックミラーで僕たちの方を見ながら言う。

「あなたたち」

 僕たちはお互いに顔を見合わせた。僕たちが兵器?

「企業は大手になると自分の軍隊を持っているんだけど、その兵士のほとんどが体を機械化しているわ。でも強力なテックはそれだけ心身に負担がかかる。今の兵士は消耗品同然よ」

 カミラがそこまで話すと、何やら思いついた様子の39番が口を開いた。

「……だから、テックに頼らない兵士を作ろうとした?」

「そういうこと。それがあなたたち。何か心当たりはない?人にはできないことが出来るとか、身体能力が高いとか」

 言われてみれば、この体はこの体格にしてはずいぶんよく動くような気がする。しかしそれよりも思い出されたのは、あの怪物と戦った時のことだった。あのスロー現象。あれが、あの研究者たちが期待していた能力だったのだろうか?

「……分からない」

 結局、そう答えることにした。あの現象は、僕が持つ唯一の手札のような気がする。やすやすと切りたくはなかった。

「それで、あなたはどうしてあの研究所に?何かの依頼?」

 39番が質問する。これはある意味一番の謎だ。話を聞く限り、アカツキ社は僕らの実験を秘匿していたはずだ。しかし彼女はあの研究所に現れ、僕たちという実験体を盗み出した。狙いが読めない。僕たちを誰かに引き渡すのだろうか。

「……まあ、そんなところね。安心して、あなたたちは商品じゃないわ。誰かがあなたたちを欲しがっているわけじゃない。追手もしばらくは心配しなくていいわ。研究所は今頃焼け野原で、あなたたちも死んだと思われているでしょうから」

 誰かに引き渡したいわけじゃないのか?ますます彼女の狙いが分からなくなって、僕も口を開いた。

「じゃあ、何のために僕たちを助けたんだ?金の為じゃなく?」

 僕がそう言うと、カミラは目を泳がせてしばらく考え込んだ後、ゆっくりと話す。

「……研究所の破壊が依頼された内容だったの。それであなたたちを見つけて……放っておけなかったのよ」

 ……嘘っぽいなぁ。研究所を破壊するだけの依頼にしては実験の内情に詳しかったし。とはいえ、今は彼女の言葉に従うしかないだろう。

「……分かったよ。これから僕たちはどうすればいいんだ?」

 僕の言葉を聞くと、カミラは嬉しそうに顔を綻ばせた。それから、心もち声を弾ませながら言う。

「まずは、この街で生きていけるように訓練を積んでもらうわ。この街で生きていくのは大変だけど、身分のないあなたたちがまともに暮らしていけるのもこの街くらいだから。ああ、それと大切なことを忘れてた」

「大切なこと?」

「あなたたちの名前を決めましょう。ずっと番号で呼ぶなんて考えられないわ!」

 名前か。思えば考えてなかったな。そう思って39番の方を見ると、彼女も僕の方をじっと見つめていた。

「私は、あなたに名前を付けてほしい」

 それは……いいのだろうか。でも本人の希望だしな。悩みながらも頭を捻る。

「じゃあ……ミク。ミクはどう?」

 39番だから、ミク。我ながら単純だ。

「ミク、ミク……、うん、気に入った」

 39番改めミクは、ふわりと微笑んでそう言った。この子はめったに表情が変わらないから、こうした表情の変化を見られると嬉しくなる。

「それで、あなたはどうするの?」

 カミラがミラー越しに僕の方を見ながら言う。僕は頭を捻るが、自分の名前なんて思いつかない。前の名前はなぜか思い出せなかった。ミクが何か思いつくかと彼女の方を見るが、

「……思いつかない」

 さすがに荷が重いか。そうして二人で唸っていると、カミラが運転席から言う。

「ケイ……なんてどうかな」

 ケイ。どうしてカミラがこの名前を提案したのかはわからないが、二文字で呼びやすいしいいのではなかろうか。

「うん。これから僕のことはケイと呼んでくれ」

「よし!じゃあ名前も決まったことだし、これからよろしくね」

 外を見る。流れる街の景色はかなり変わっていた。高層ビルが立ち並び、ネオンが光り輝いている。先ほどの貧困が目に見える光景との大きな違いに、僕はこの街の本質を見た気がした。

「この街の名前はエデン。ようこそ二人とも」

 軽く笑ってカミラが言った。

 

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