第5話『1884歳の老人 と 3+6』
節操のない映像。立体裁断のジャケットを着たアナウンサの顔にモザイクがかかっている。となりに機械にんぎょうがいるが倒れて伏せる。低い声が語る。
「キャスタがお昼寝中ですので。私が情報を提供してさしあげます。ワイン泥棒、バッコス・ガリオレリスの琥珀化石が発見されました。この寄生動物はパブの近くで見つけることができます。あらゆる種類のビンと缶を開くための完全装備を持っていて、ワインセラがこれに感染してしまうと非常にやっかいなことになります」
ガチャガチャガチッガチガチャガッチャン。
イビツな形の椅子に座す老人が顎をつき出してあわただしくタイプライタを操作している。蒸かした北極鰐の表皮のようにざらざらした皺が、青白い月ひかりが色濃くコントラストを纏っている。ミクロな砂鉄を無造作に何層も塗りたくったカンヴァスみたく、硬そうで柔軟な、肥沃であり枯渇した、ざらざらした表装。金縁の丸い眼鏡を低い鼻の上にのせている。眼鏡を通して印字をにらむ目は細められ、ひどく充血している。トタン染めの分厚い長背広をはおり、銀髪は無造作に後ろに流され背中の肩胛骨あたりで雑にくくられている。デコは禿げあがり、デコと銀髪の境界に四角い透明の箱がのっかっている。箱の中身は古い電子基盤や多本のリード線。基盤のところどころでランプが無数列に点滅している。点滅の分布は不均一。
バッコスの酒をこよなく愛す1884歳の老医者。1885歳になった瞬間にバッコスの酒で極限まで酔い、カサドラムから飛び降りて死ぬというのが彼の夢。タイプライタをはじく手が止まるたびに、指骨と指骨をつなぐ手の間接がボコボコと隆起しているのが見える。手に吊られる様に、指の下の印字機構一対一対も固くウゴきだす。滑るようではなく、詰まるように。画いているようではなく、押しこんでいるように。回転しているようではなく、織っているように。踊っているようではなく、闘っているように。無造作だが統制がとれている。
硬麻土壁に張り付いている彼の闇が印字をとのぞき込んでいる。その闇の背中をほんの少しよけるようにして、後ろの闇も印字をのぞき込んでいる。ほんの少し首をもたげて。その後ろの闇もしかり。硬麻土壁の向こう側には闇が永遠に連なっている。ほんの少し首をもたげて。印字はどんどん紙に撃ちこまれ、印字で埋め尽くされた紙が床の上に無数に落ちて重なり、堆積している。堆積する紙には、朽ち果てて姿を失いつつあるもの、生まれたてのもの、生まれる前のもの、生まれる可能性のなきもの、それらすべてが含まれている。つまり、時間と空間を、経験と可能性を、それらすべてを包括した姿がそこに実在している。とある気まぐれなものたちは、互いに寄りそい、互いに確かめあい、ハグし、密着する。かたちができ、角がとれ、脱皮したての北極鰐のようなやにこい皮になる。先頭の闇は皮を大事そうに腹箱にしまう。部屋の奥をジッとにらみ、部屋を北にとぼとぼと歩いてゆく。闇の廻りには、意志のない原始体、音の残骸、時空間の雛がた、光子の末裔が漂っている。血液が沸騰して脱皮が始まった冷血動物ように、左手が痙攣してくる。四角い透明な箱に居座っている基盤が点滅をやめている。そろそろ店じまいだ。
老人は走行機械で砂漠をつっきって、キャンディ・ハウスの重たい門扉をあける。日課だ。マスタがウィスキイ・ロックを静かにカウンタにおく。マスタの両手にはシルクの白い手袋がぴったりとはりついている。顔はピエロ。腕の悪い溶接工にピエロの面を顔に固定されたのか、元来そういう顔なのかはわからない。老人はウィスキイ・ロックを軽く口にふくむ。やはり例の匂いがする。長い鎖をもったアルキル基のあの匂いだ。どこかで嗅いだことがある。あいもかわらず、店のはじにはイビツな形の椅子がある。長いあいだ、だれも腰をかけていないのであろう。砂だらけだ。老人は砂花を置いて店をでて、走行機械でカサドラムにもどる。
帰る途中、砂漠の真ん中に大きなタイプライタが朽ち果てて在る。老人は走行機械の歩みをとめる。まわりには砂色の蟹虫の抜け殻が大量に落ちている。一つの抜け殻から金属製のボルトから手足をはやした奇形蟹虫がはい出て、タイプライタのハウジングをぎこちなくのぼっている。ボルトのネジ目がタイプライタに波型の傷跡を残してゆく。老人はカサドラムの前についた後にその情景を想いながら、走行機械が完全に停止するまで霞んだ空をみながら待つ。涼しい昼下がり。戦争がなく、人類がもっとも弱い時代。透明な丸い窓を開けて、走行機械のステップを降りる。
カサドラムの螺旋階段をのぼり、自分の部屋に戻ると、目の前に、頭がタイプライタで人類大の質量体が在る。タイプライタはさっきまで老人がせわしなく叩いていたものだ。ガチャガチャガチッガチガチャガッチャン。大きな獣のような両手で、顔の位置にあるタイプライタをたたく。泣いているようにも見える。およそ頭の位置で、カーボン紙に凸版をたたきつけ、裏にセッティングされた和紙に文字を転写する。3+6。不格好に大きな片手で、和紙を大きくひろげて示している。数字は何かの象徴?老人は、デコの上に取り付けている四角い透明な箱のスイッチをオフにし、痙攣している右手を固くにぎりしめ、全身の血と信仰と思考を回収する。顔が真っ青になり、右手が赤黒く腫れ上がってゆく。しばらくすると腫れがおさまり、手にビー玉サイズの物体を握りしめる。老人は、いつでも弾き飛ばせるように親指をしならせ、爪の表面にでこぼこしたビー玉をセットする。腕にくらべてほっそりした肢、その先端は束ねられた酒ビン。タイプライタ類が、老人に向かってゆっくりと歩を進める。コルク栓をしていない酒ビンから紅黄色の液体がこぼれ、ガチャガチャという音とともに床に痕をのこす(例のにおいだ)。両肢をつないでいる根元はラジオ。雑音とともに、比較的に高い声が話す。たったいまから第4機械時代にはいります。老人の耳にラジオの音源は入ってこない。四角い透明な箱のスイッチはオフのまま。思考停止している。次の瞬間、老人はビー玉を弾き飛ばし、腹部のラジオのスピーカを貫通する。スピーカが壊れたのか、音源を吸収したのか、ラジオの声と周囲の雑音は途絶え、沈黙だけが聞こえる。タイプライタ類は動かない。四角い透明な箱のスイッチはオン側。タイプライタ類は、さっきより明らかに大きくなっている。
病室の奥にはりついている油絵の脇から、パチ、パチ、パチと、拍手と呼びかけのあいだの様な手をかるく叩く音が聞こえる。内臓を露わにした上半身裸の怪物が部屋の奥からでてくる。先の折れたハットをかぶり、黒皮のズボンをはいている。ハットの下はほとんど頭蓋骨。顔には皮がなく、青い血管がはりめぐっている。目玉は見当たらない。
「私のいるところがよくわかったね」
歯がむき出しの口が動く。首には喉がなく脛骨が丸見え、骨にも青い血管がはりめぐっている。胸に肋骨はなく、胸から腹にかけて内臓が露出している。心臓から血を垂らしているようだ。怪物は右手に持った派手な機関銃で躊躇することなく老人の頭部を打ち抜く。ハットを被ったまま、手際よく老人の背広、シャツ、ズボン、下着を脱がせ、全身の皮をはぎ取る。皮には四角い透明な箱が居心地悪そうにくっついたままだ。老人の中身は機械と砂。頭から砂にまみれた緑色の潤滑油が垂れている。精密な機械油。怪物は老人の顔の皮をパリッと被る。
「たった今から私が彼だ。ということは、さっきまでは彼ではなかったことになるね。ほう、これは自殺というのかな」
怪物は、しばらく考えて、チッチッチと人差し指を左右に振る。
「いや、そんな訳はない」怪物は、うん、うん、うん、とうなずく。
「とにかく、君には私を殺せない。分かるね。殺せたらあれだ、ワンダフルだ」
怪物は自分の心臓を見やる。
「これなら大丈夫。右心室は閉めてある。とりあえず、私についてきなさい。ギャンブルをしよう」
怪物はしばらく下を向いている。
「君に言っているんだがね」
螺旋階段の最上段にツナギを着た男が腰をかけ、青い月を眺めながら白い林檎を食べている。螺旋階段の下。怪物は、やがて遠くの闇に向かって上品に手招きをする。闇が光を放ってこちらに近づいてくる。闇でできた横に長い走行機械。ずっとそこにいるかのように、上部にある何本かの煙突から鼠白の煙をゆったりとはきだしている。
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