第89話 戒律

 俺が朗らかに言い放った「戒律」という言葉に、リーネリアさまは呆気に取られておいでだ。


「戒律、ですか?」


「はい」


 すると、意表を突かれたてポカンとした真顔から、徐々にお顔が暗いものになっていく。


「それはつまり、私に課せられるべき戒律、ということですよね……」


 そう仰るリーネリアさまに、拒絶感はない。ごく当然のこととして、甘受なさろうとお考えのように映る。普通、戒律なんてものは、神が定めて人に課すものなんだけど……

 リーネリアさまは、今回のケースでは全く正反対のものをイメージしておられるってわけだ。


 で、それは実際、正解でもある。リーネリアさま向けの戒律を定めようというのが、俺の考えだ。

 どこか打ちひしがれた空気すら漂う女神さまに、俺の口から規則を作って言い渡すのも、なんとも気が引ける話だけど……

 仕方ないことと割り切って、俺は本題に入った。


「では、一つ目の戒律です」


「はい」


 俺の身の程知らずをとがめるでもなく、まるで裁きを待つ平民みたいなご様子のリーネリアさまに、俺としても背徳感的なものを禁じえないところだけど……

 俺から言い出したことだからと、揺れるものを表に出さず、あくまで平静を保って口を開く。


「リーネリアさまが、ご自身やお力、俺へのご加護について言及なさるとき、『こんな』とか、『役に立たない』とか、そういうネガティブな表現を使わないようにしましょう」


 それだけ口にしてから反応を待ち、数秒。リーネリアさまはただ、「えっ?」とだけ返してこられた。

 それからさらに間を置いて、「しかし……」と反論を入れてこられる。


「私がハルベールさんに対して、引け目や負い目を感じているのは事実ですから……」


「えっと……そうですね。俺の事を買っていただけているのは光栄ですし、お気遣いいただけてありがたくも思います。ですが……」


 言葉の続きを待っておられるリーネリアさまの、やや伏しがちなお顔、少し上目遣いな視線が、妙にドキドキさせてくる。

 それでもどうにか考えをまとめ、俺は続けた。


「いただいたご加護のおかげで、錬金術ってものに興味が湧きましたし、錬金術の先生もできました。でも、そのご加護について、リーネリアさまご自身の口から否定的なお言葉をいただくのは……なんかちょっと、こう、アレですよ」


「……アレ?」


「なんと言いますか……心苦しいというか」


 他にいい感じの適当な言葉が見つからなかったものの、言わんとするところはお察しいただけたらしい。俺の言葉を静かに受け止めておられる。


「確かに……私が自分を卑下するような言葉を聞いて、ハルべールさんがいい思いするはずもありませんよね」


「そういうわけです」


「自身の至らなさや申し訳なさが先に立つあまり、そういった配慮が欠けていたようです。申し訳ありませんでした」


 やはり沈んだ口調で謝ってこられるリーネリアさま。でも、ご賛同いただける雰囲気はある。

 実際、「では、戒律についてのお考えは?」と問うと、「善処します」とのご回答をいただけた。

 戒律に「善処」とか、そういうグレーゾーンなんて――というツッコミもあるけど、この際言いっこなしだ。

 切り出した俺としても、無理を言っている自覚はあるし。


「ま、明るくいきましょう」と口にすると、やや力ないながらも微笑を浮かべてくださった。

 さて……実を言うと、もうひとつ。戒律に加えようかと思っていることがある。


「リーネリアさま」


「何でしょうか?」


「俺の事、ハルベールさんって呼んでくださってますけど……」


「はい」


 どうやら、リーネリアさまとしては、この呼称に違和感とかそういうのはないらしい。

 一方で俺は、ちょっとどうなんだろうと思っている。


「神がご自身の配下を指して、ハルベールさんというのは……ちょっと、どうなんだろうって感じがしてます。ハルべールとか、ハルとか、呼び捨ての方がよろしいのでは?」


 この意見に対しては、意外にも「いえ、しかし」とハッキリ反対の姿勢を示された。


「いかに神といえども、他者に対する礼節は必要だと考えています。特に、私のような」


 そこまで仰った後、リーネリアさまはハッとなさったお顔で口を閉ざされた。「私のような」に続けようとお考えだったお言葉が、さっき決めたばかりの戒律に抵触するから、だと思う。

 言葉が途切れても、お顔に書いてあった。

 それから少しの間、お言葉を探し求められた後……


「――私はその、人間社会では無名ですから。とりわけ、第一印象を大切にする必要はあるものと思います」


 俺から言い出した戒律に、こうも真面目に向き合っていただけて、こちらとしては頭が下がる思いもある。

 というのはさておいて、リーネリアさまのお考えには一理ある。

 実のところ、俺以外の人たちへの丁寧なご対応については、むしろとても好ましく思うところだ。やや、腰が低すきるように思わないでもないけど……


「それに……私はハルベールさんに願いを叶えていただいたようなものですから。いかに私が神であっても、感謝の気持ちを込めて敬称をつけるのは……自然なことではないでしょうか?」


 こうまで言われると、無下にするのがものすごく失礼に思えてくる。

 いや、実際に失礼か。


 そこで俺は、もう少し正直なところを口にすることにした。ため息ひとつついてから、口を開いていく。


「目上の方に、名前をさん付けで呼ばれると、どうも落ち着かないというか……座りが悪いんです。もしよろしければ、聞き慣れた『ハル』で呼んでいただければ、しっくりきて助かるんですけども」


 俺の正直な請願に、リーネリアさまは「そういうことでしたら」と理解のほどを示してくださった。

 とはいえ、リーネリアさまにも主張というものはあるわけで。


「私としては、呼び捨てするのはやはり抵抗がありますし……双方の妥協案として、『ハル君』でどうでしょうか?」


 リーネリアさまのお口から「ハル君」と呼ばれて、背筋が少しゾクっとした。

 まー、そのうち慣れるか。

 対外的にも、この呼称であれば、リーネリアさまの方が上だというのが明白だろう。


「お聞き入れいただき、ありがとうございます」と頭を下げる俺に、リーネリアさまも「いえ、そんな」と頭を下げてこられた。


「仲間から人間社会について、伝え聞いたものはありますが……やはり、来てみないとわからないものばかりですね。私が馴染んでいけるようにとのご提案でしたら、今後とも喜んで」


――なんだろう。押しの強さとか威厳とかは全く感じられないけど、逆に身が引き締まるものがある。

 俺がしっかりして、支えて差し上げないと、みたいな。

 たかが人間にアレコレ言われても、真正面から受け止めてくださる。とても謙虚で誠実な女神さまを前にして、俺はそんなことを思った。


 片や、当のリーネリアさまは……俺をじっと見つめた後、口を開かれた。


「ハル君が言う『戒律』というのは、他には何かありますか?」


「いえ、このふたつだけです」


「えっ」


 結局、俺から言いたかったことは、リーネリアさまご自身で卑下なさらないようにつてのと、俺の呼称について。

 今後、何かあれば戒律が増えるかもだけど……その必要はないんじゃないかという予感はある。

 むしろ、何かあるとすれば――


「リーネリアさまから俺に、何かありませんか?」


「えっ?」


「いや、ご不満とかご要望とか、そういうのですけど」


 何かひとつぐらいはと覚悟や予感はあったけど……

 リーネリアさまは穏やかな笑みで「そんな」と口にされた。


「会ってまだ数日ですが、とても良くしてくださってますし……私の方から言うことなんて」


「そ、それならいいんですが……」


 これはこれで、ちょっと重いかも。

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