第86話 女神さまが見てる
改めてのご挨拶の翌日。街の外に広がる農地で、俺は朝っぱらから農具を振り続けていた。
春先は農作業で何かと忙しい。このタイミングで帰郷した大きな理由の一つが、これだ。
人手という点で言えば、別に俺一人の有無で大差なんてないとは思う。とはいえ、農作業からズレたタイミングで出戻りするのもなあ……っていう思いはあった。
それに、俺一人分の労働力はともかくとして、帰郷が間に合った意味は大いにあった。
さらに今年は、休憩所に神さまもいらっしゃる。
イスにちょこんと座っておられるリーネリアさまに、休憩に向かった面々が、ちょっとした談笑をしたり拝んだり。
勇者が拠出する魔力で顕現なさっても、こうした神々のお体は、人間みたいな生身とはまた勝手が違う。神さまご自身が意識しなければ物をすり抜けてしまうし、他の物体に働きかけて動かすこともできない。
歩かれたりイスに座られたりという所作は、あくまで人間社会に合わせるための、神々による意識的な努力によるものとのことだ。
だから、農具を手に農作業をというわけにもいかず――まあ、俺たちがそれを望むわけでもないけど――こうして見守っていただいているというわけだ。
リーネリアさまとしては、見ているだけでは少し申し訳ないとのことだったけど……例年の農作業と比べると、みんなの動きに張りがあるように見える。
一時的に駆り出されているだけの若手なんかは、だんたんとダルそうになっていくものなんだけど、今日は目に見えてモチベが違う。
逆に、少し話し込んで手が止まる人も、ちょろちょろいるけども……
リーネリアさまを取り囲む、ちょっとした人垣を見ると、思いのほか気持ちが安らいだ。
神の使徒は《昇進の儀》を通じ、格上げされて勇者となる。わざわざ称号を変えるほど勇者が特別視されているのは、人の世に神を顕現させられるというのが大きい。
特に、命のやり取りになるような状況においては。
自分たちに肩入れしてくださっている超常の存在が、すぐそこにいてお目をかけてくださっている。そうやって神をお呼びするだけでも、勇者の存在には大きな価値がある。
まぁ、今回は他愛のない農作業で、神徳を発揮していただいているわけだ。
休憩スペースの人が途切れた頃合いを見計らい、俺はリーネリアさまの方へと足を向けた。
「あ、ハルべールさん! お疲れ様です」
俺の接近に気づき、リーネリアさまの方から声をかけられる。すかさず俺も、「お疲れ様です」と声を張った。
農作業開始当初は、リーネリアさま曰く「見てるだけ」のお立場ということもあってか、少し居心地悪く緊張なさっているようにも見えた。
それが今では、随分とリラックスなさっているように映る。みんなともだいぶ馴染んできているようで、それは何よりなんだけど……
俺としては、ちょっとした悩みというか、考え事がないこともない。
もっとも、ここで言うことじゃないな。今のところ、みんなとの関わり合いはいい感じだし、俺が水を差すわけにも。
結局、その場では余計なことを言わないことにした。コップを
「頑張ってくださいね」と穏やかな口調でのお言葉を背に、俺は受け持ちの方へと戻っていった。
持ち場に着くなり、隣を耕している悪友が、なんとも人の悪い笑みを浮かべてくる。
「おいおい~、実は照れてんのか~?」
「はあ?」
「だってさ~、お前がお付きの女神さまだってのに、何も話していないじゃんよ」
ああ、確かに。みんな普通にリーネリアさまとお話してる中、会話らしい会話がないのは俺だけかもしれない。
逆のパターン……つまり、俺とリーネリアさまだけ駄弁ってて、他のみんなが寄ってこないってのよりは、比べ物にならないくらい良いことだと思うけども。
☆
昼頃、農家の方々主催の昼食会が開かれ、農作業は一段落となる。
まだまだ作業自体は残っているんだけど、他にも色々とやるべきこと、やりたいことがあるであろう若手を縛り付けるのも――ということで、もともと農家の方々だけが続きの作業を行い、俺たちみたいな協力者はフリーになるわけだ。
暇を持て余してる奴は、この後のおやつだとか夕食目当てで農作業を続行することになる。
俺はというと、帰郷したらやりたいことはいくらでもあって、ここで農作業から離れることに。
ただ……俺が抜けるってことは、リーネリアさまも抜けるってわけで。
まだ農地に残る人、特に年配の方々からは、リーネリアさまの離脱をかなり惜しまれた。
「ハルはいいから、リーネリアさまだけでも……さあ?」
「さあ? じゃねえよ」
農家生まれの友人が、だいぶ失礼なことを言い出す始末。
とはいえ、リーネリアさまが慕われ、敬われる分には喜ばしい限りだけど……
慰留を願う農家の人たちと俺の間で板挟みになり、困惑したご様子のリーネリアさま。「ど、どうしましょう?」と俺に判断を委ねてこられる。
何なら、ご自身で決めてしまっても――と思わないでもないけど、言わずに胸にしまっておいて、と。俺は農家の方々に小さく頭を下げた。
「申し訳ないんですけど、ちょっと用事が……明日また来ますんで」
「リーネリアさまも?」
農場を取り仕切るオジさんが、真顔で問いかけてくる。
なんだか、俺は
実際、これが本気だとしても気持ちはわかる。リーネリアさまがそこにおられるだけで、進み具合が結構違ったし。
念のため、リーネリアさまにもご意向をうかがってみると……「ハルべールさんさえよろしければ、喜んで」との快諾をいただけた。
この言質に、場の空気が軽く上向いて明るくなる。
なんというか……今の俺にとっての農作業は、リーネリアさまを取り巻く、この雰囲気が主産物ってカンジだ。
「明日また来る」って言ったのはいいものの、それでもやっぱり惜しまれ、視線を背に受けながら一時帰宅。さっさと着替え、手荷物一式を携えて再び外へ。
農作業からいくらか人手が戻ったおかげか、町中にはそこそこ人通りがあって、俺たち――いや、リーネリアさまへと視線が注がれる。
「リーネリアさま、こんにちは!」と、方々から向けられる挨拶に、律義にも声の方へ向いて「こんにちは!」と声を返される。
俺の方へと声がかかることはないけど……ま~、そういうもんだろう。
顕現なさった神さまは、魔力を供給する勇者から余り離れられないとは伺った。
でも、そういう制約が許す範囲内で、リーネリアさまおひとりで街歩きしていただくのもいいかもしれない。今度、提案してみようかな。
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