9

 九月中頃のある早朝、靄の掛かった空にはまだ欠けた月が居座る時間帯。宿舎を抜け出したトーレスは、裏通りを歩いていた。

 人々の大半はまだ寝静まっている。昼間はひっきりなしに車輪で揺れる街並みも静かなもので、一人きりの解放感に浸れて心地良い。

 やがて、小さな映画館の前に到着した。手元のチケットに書かれた奇妙な上映時間にはもう間も無いが、当然客が入ってゆく様子も無い。

 どうしたものかと首を傾げていると、中から従業員らしき老人が顔を出した。

 彼はこちらの顔をまじまじと見てそれから、手元の雑誌──今月号の『マルティロ』を開いて見て一言だけ喋る。

「入ってくれ」

 ぶっきらぼうな指示にトーレスは素直に従って歩み寄る。その後、促されるがままチケットを手渡して半券をもぎられた。



 一人きりの上映室に着き、席に座って開演を待つ。

 下調べによると、あのチケットで見る事が出来るのは国境戦争時代を再現した『実録』もの。家族や恋人達の別離と再会、愛と絆の物語、だそうだ。

 やがて映写室の気配──恐らく先程の老人が機材を動かし、上映が始まる。

 数十分、あくびを噛み殺しながらスクリーンを眺める。己の感性と今一つ噛み合わない時間が過ぎてゆく。

 感光フィルムを用いた映像と、録音水晶の音声を遅延無く繋ぎ合わせて上映される最新の娯楽体験。そんな謳い文句があっても尚、この退屈を押し潰すには不十分らしい。

 ふと、背後に何者かが立ったのを感じた。物音は無かったが、いきなり人体の形をした熱がそこに現れた。

 それが真後ろの席に座る。同時にふわりと、眠たくなるような花の香りが舞った。どこかで嗅いだことのあるものだ。

 気配の主がトーレスの首筋に尖った金属らしきものを押し当てた。そして透き通る女の声で囁く。

「どうも、初めまして」

「──じゃないでしょ、アンブロシアさん。おはようございます」

 冷静にその人物へ、アンブロシア・アードベッグへと顔を向ける。今日はベージュの外套に細い身を包み、洒落た街娘のような服装をしている。

 彼女は突きつけていたペンを胸元にしまい込む。

「あら、バレちゃいましたか」

 いつもと同じように微笑んだ。自身が手紙の主である事を隠す気は無いらしい。

「ほら、映画はまだ続いていますよ。前を見て」

 そう言って彼女はトーレスの頭を両手で掴み、スクリーンへと向き直らせた。

「実話を元にした話で結構な予算も使ってるとのことですが、どうです? 戦争を垣間見てきた、本物の炎術師としては」

 首を固定したまま訪ねてくる。そのどさくさに紛れて髪を撫でられ、全身の肌が粟立つのを感じた。

「酷い映画だ」

 トーレスは一言で切り捨てる。

 言葉のプロフェッショナルたる記者と相対してしまってはうまく言語化は出来ないが、どうにも面白くないのだ。

 それを聞いたアンブロシアの表情を見ることは出来ない。彼女の言葉だけが背後から響いてくる。

「悲劇の後の何も考えなくていい幸福な結末。大衆からの受けは良いみたいですけどね」

 まだ全てを観終えた訳ではないのにそれとなく物語の行く末を語られた。しかし別段興味がある訳ではないので構わない。それよりも、トーレスはどうにかこの映画に腹が立つ理由を思案し、伝える。

「自己犠牲だかなんだか知らないが、死をいたずらに肯定しちゃいけない。あんなもの、自分から進んで被っていい訳がない」

 祖国に捧げる死を甘美に描く、いわゆるプロパガンダとして作られた映画だ。そこに作りクリエイターとしての狂気は介在しない。

 アンブロシアが頷く気配がした。

「ええ、私の感性にも合いませんね。まあ私はただ、他人が幸せそうにしてるのを見るのが嫌い、というだけですが。それでもメイディオス市民の愛国心ナショナリズム高揚が目的であるなら十二分に機能している。良い作品ですよ」

 この歪んだ女は続けてトーレスの忘れたかった過去と、分からなかった内面を同時に抉り出す。

「あるいは、知らないものには共感の仕様が無い。十歳に満たないうちに軍へ放り込まれた未子である貴方には『家族愛』が得体の知れない絵空事に映る。だから、この物語の骨子がそもそも理解出来ていない。とか」

 演目はまだ続いている。雨霰と降り注ぐ鋼鉄を避けて、演者の男が愛おしそうに手元を眺める。自身と妻、そして子供らしき人物がこちらに向かって微笑んでいる写真が見えた。

 その構図を与えられてどんな気持ちになれば良いのか、トーレスには分からない。だからアンブロシアへ返す言葉も思い付かなかった。

 彼女のペースに付き合うべきでないのは重々承知している。であれば今度は質問をこちらから投げかけてみる。

「……こんなのを見せるためだけに呼んだ訳じゃないでしょう。要件は何ですか?」

 トーレスが問うと、アンブロシアは彼の頭から手を離した。そして、自分の手元を探る音がした。

「一つは、これを見せるためです」

 正面を向いたままのトーレスに、彼女は何かを提示した。

 その瞬間に、後頭部を強く殴られる感覚がして視界が揺れる。だがそれにしては物理的な感触は一切無い。

 同時に、映画の音声が聞こえなくなった。映像の方は滞りないために耳がおかしくなったのかと思ったが、電動式映写機の作動音は聞こえる。録音水晶に不具合でも起きたのだろうか。

「何、それ?」

 トーレスは背後に問い掛ける。彼女が何かしたのは間違いない。

「貴方はこの力をよく知っていると思います。というより、産まれてからしばらくはこの力の庇護下にあったのではないでしょうか」

 答えたのちに彼女は少し笑った。

 自分の身体に起きた現象と、魔法に依って動く機材の不調。その二つを合わせれば、嫌でもそれを思い出す。

 そして再び後ろを振り向いたトーレスが目にしたのは、小さな立方体を抱えて座るアンブロシアだった。

「『法典』か! でも、その小ささは……」

 思わずトーレスは声を上げ、音声が途切れた室内で大きく響いてしまう。アンブロシアが人差し指を差し出して彼の口元に立てて黙らせる。

「そう、法典。本来これらはもっと遥かに大きくて、本国にある大法典パンデクテンを中心にして網の目、ないし泡状にいくつも配置することで影響範囲を広げてゆく、という運用をするものです」

 支配地に置く事で問答無用にその領土の法を書き換え、奪る事が出来る仕組み。大軍での陣取りを得意とするシラクスの戦いを根幹から支える技術だ。

「しかしこれは最新形態の『遠隔法典』、あるいは分かりやすく『小型法典』と呼ぶ方々も居ます。とにかく、ある特定状況に必要であろう条文テキストを絞り込んで予め入力しておく事で、小型化と、親となる法典無く単体での運用スタンドアローンが可能になったものです」

 法典を用いた攻撃戦術の弱点、それは飛び地を作れない事だ。絶大な制圧力を持つものの、僅かな損傷でも効力を失うこの構築物は散兵線の後方に置く事しか出来ない。侵略戦を仕掛けておいて受身の姿勢を取らざるを得ないために、結局は戦線の硬直を引き起こしてしまう。

「元々は敵地で『起爆』する事で混乱を引き起こすのを目的に開発されたそうです。しかし小ささ故にごく短い時間と範囲でしか効力が保たず、期待した効果を発揮するのは不可能と判断された。その後計画は凍結され、この試作品はしばらく保管庫で眠っていたそうです」

「なんで俺にそんなものを見せに来たんですか」

「貴方なら活かせるんじゃないかと思いまして。例えば、魔法で空を飛ぶ物体を落としに行く。とか」

 トーレスの眉間に皺が寄る。思いつくものなど一つしかない。

 アンブロシアは悠々と、語り続ける。まるでトーレスの意志がそこに無いかの如く。

「テレゴノスは一般に想像されるような豪放で野蛮な攻撃手段ではありません。繊細な行程を踏んだのちに浮上、航行する『兵器』と言えましょう。その習熟難度の高さ故に飛行が確認されたのは歴史上ただ一度のみ。だからそのバランスを少し小突く事が出来れば、落とす事も不可能ではない」

 薄暗闇の中でアンブロシアの瞳孔が大きく開いている。肚の底まで見透かされる恐怖と対峙しながら、トーレスは言葉を選んでゆく。

「そんな事まで分かるのか」

「大昔に落ちたテレゴノスの死体はそのまま向こうに残ってますからね。解析ぐらいは済んでます」

 話が大きくなり過ぎている。所詮は一介の技師に過ぎないトーレスが聞いて良い情報なのかも分からない。

 ふとスクリーンを振り返ると、映画はいよいよ佳境に入っていた。追い詰められたメイディオス市民らによる反抗──炎術師たちの誕生を英雄的に描く。

 アンブロシアは構わずに話し続ける。

「シラクスは一度、勝利の限界点を踏み越えてメイディオスに負けた。でもだからこそ、今度は本気で落としに来ますよ」

 向き直ると、彼女の顔からは微笑みが消えていた。崩していない彼女の顔を初めて見た。

「サンジアからシラクス領内までのテレゴノスの侵攻ルートとして想定されるのは大きく分けて二つ。海から直接上陸するか、ポーレ側から上陸してメイディオスを経由してシラクスに入るか。しかし百年前ならともかく、海岸線まで法典で固められた現代で前者を採るのは不可能です。あれは重力に反発して浮かぶもので、イメージとしては巨大な磁石に近い。だから海岸というスロープに障害物が置かれていては駆け上がれないし、急峻な山脈も越えられない。ここで重要になるのが要衝『セレコ峠』です」

 セレコ峠とはメイディオス市街地の東部に位置する山峡地帯。旧帝国よりももっと前から大陸の東西を繋ぐほぼ唯一の陸路だ。

 地図を思い浮かべながらトーレスの思考がやっと、避けられない最悪の事態に至る。

「そこまでの道中、メイディオス上空を魔法汚染の塊が通り抜けるのか」

「ただの汚染だけではありません。異常な重力が街を一直線に押し潰します」

 思わず天井を仰いでしまう。急に言われて咀嚼出来る話ではない。

「誰がこんなこと考えたんだ。ポーレのどこかの軍は止めに行かないのか?」

 トーレスが尋ねると、アンブロシアの顔に感情が戻った。それは誰も傷付けない微笑ではなく、目を見開いて口角を吊り上げる好戦的な笑いだ。

「今のシラクスが採る協調路線の実態は、南方戦線が前進したお陰でメイディオスとやり合う余力が無くなったからというもの。でもそれじゃ困る人たちが居るんですよ。山の向こう側にも、こちら側にも。名前は出せませんが、そういう人たちがテレゴノスを使ってまた戦争を起こそうとしています」

「テレゴノス。ちょっとした町ぐらいは覆い尽くせるものを、そこらのゴロツキが今の今まで隠し通せる訳が無かった。つまりは……」

 同盟国内の軍、あるいは国家規模での計画と考えるべきだろう。トーレスが言い掛けて止めた後に、アンブロシアは頷いた。

 しかし、納得のいかないトーレスは反論する。

「メイディオスが受けるのはとばっちりだけで、戦争じゃない」

「いいえ。シラクスにとってはメイディオスもサンジアもポーレも、等しくポーレ諸国連合です。よって、彼らシラクスが切れる手札は──」

 言いながら、アンブロシアは手元の『遠隔法典』とやらを弄ぶ。いつまたあの力に晒されるか、トーレスの方は気が気ではない。

 上空に投げ、落ちてきた法典を掴み、アンブロシアはまだ話す。

「メイディオスの中心まで行かずとも、その外縁であるセレコ峠に法典を設置してテレゴノスを迎え撃つこと。しかし、メイディオスはそれを許さないはず。不可避の災害が来るのが分かるなら、双方共に武力行使を厭わないでしょう」

 法典を構えた軍隊が山を越えて領土を奪いに来る。戦争の記憶がまだ色濃く残るメイディオス市民たちからすれば、喉元にナイフを置いたまま眠る日々が訪れるようなものだ。

「私の見立てだと近日中にシラクスが声明を出して軍を編成、移動させ、半月もしないうちに緩衝地帯への配置を完了させる……といった所ですかね」

 アンブロシアの語る、なんとも納得のいかない情勢。それを聞いてトーレスに何が出来ると言うのか。首を振ってぼやいてしまう。

「そういう話は俺じゃなくて、アデルとかベイロンさんにして欲しかったな……」

 彼らならもっとうまくアンブロシアと渡り合えたのだろう。しかしここまで話を聞いてしまえば、引き返せる地点はとうに過ぎている。後はこの女にどんな姿勢で引き摺り込まれたら怪我が少ないかをトーレスは考えねばならない。

「アデレード女史には恐らく不可能です。確かに操縦士としての適性は高いでしょうが、体力的に。ベイロン氏はそもそも戦争への積極的な加担を拒否するでしょう。お二人とも、護るべきものがある大人ですからね」

 何故か、『大人』という一部分を強調したアンブロシアがこちらと目を合わせた。含みのある言い草だ。

「だから、今回のお話はあくまで私から貴方への個人的なお誘い。これを聞いた貴方がどう動くか、私は陰ながら常に見守るつもりですよ」

 長い付き合いになる、ということか。言葉の意図が分かっただけうんざりする。

 トーレスはまた一つ、彼女に問うてみる。

「貴女は、何処に立つ人なんですか? ポーレの人間が法典を手に入れられるとは思えない。シラクス側なら尚のこと、亡命者なんかにそれを持たせようとする訳がない」

 彼女の目的は分かってきたが、その素性がまだ見えない。正体不明の女は勿体つけるように黙る。

 映画はまだ続いているが、静寂が耳鳴りを呼ぶ。しばらく待つと、話す内容を定めたアンブロシアは語る。

「色々な所に立ってましたよ。メイケー音楽団のクローズドコンサートとか、『評定衆』アヴェレン議員の不倫現場とか、テレゴノスが餌を食べている所とか、貴方がビーンスープを飲んで咽せている横とか」

 聞かなければよかったかもしれない。トーレスの背に冷たいものが走った。

 緞帳裏の舞台袖や街を騒がす事件現場だけではない。自分が居たあの日常の何処かにも、この女は既に紛れ込んでいたらしい。

「私は何処にでも居ます。そして、私に出来る事は何でもします。だから貴方も、貴方の世界を守るための協力を惜しまないようにして頂けると幸いです」

 要は『お前の居場所に何をするか分からない』という脅しを、使命という薄皮に包んで投げ渡す。

 守るべきものがあるトーレスはこれに従う他無い。

「俺は何をすればいい」

「最終目標としてはテレゴノスを堕として欲しい──のですが、まだプランは固まっていません。怪物たちが空を飛ぶ頃までに、また改めてお話しましょう。その時は貴方が望もうが望むまいが、『英雄』を演じていただきますよ」

 穏やかながら異論を挟む余地の無い断定的な口調。女という生き物は、どうしてこうも強い意志を抱けるのだろうか。

 語るべきは語ったのか、アンブロシアは席を立った。そして、トーレスに微笑みかけて手を振る。

「私はこれにて失礼します。ご縁がありましたらまたお会いしましょう」

 鐘の鳴るような爽やかな声で別れを告げる。その直後、そこにあった筈の気配が消え失せた。

 座席には誰も居ない。劇場内の気配に気を張るうちに、出入り口の扉が軋んだのが聞こえた。

 エンドロールの劇伴が意気揚々と流れる中、トーレスは眉を下げて思わず呟く。

「縁って……」

 そんな生優しい言葉では言い表せない、逃れ得ぬ呪縛そのもののような女。最初に出会った時の不安がより確かな形で蘇った。

 


 数分後、トーレスは半ば呆然としながら映画館の外まで出てきた。

 到着時より人通りは増えている。懐中時計は朝とも昼ともつかない時間を指しており、意識せず欠伸が出る。

「……帰るか」

 一人で呟き、工場への道を歩んでゆく。

 そんな彼の様子を、一ブロック先にある建物の狭間から伺う者が居た。地面に新聞紙を敷き、つば広帽を被った浮浪者のような格好。

 陰に隠した視線から辺りを見回したのちに寝床を踏みにじって首を伸ばす。息を殺し、あらゆる情報を盗ろうと努める。

 その男の後ろから『私』は世界に映り込んで近寄る。

 体格差はあるが問題ない。無警戒な首筋に手を回し、やっとこちらに気付いた獲物の脇腹目掛けてナイフを突き立てる。

 男の帽子が落ち、隠されていた犬の耳が露わになる。私はその耳元に口を近付けて囁いてやる。

「やっぱり、動いてくれると思っていましたよ。私と、彼の動向は気になりますものね」

 ナイフは引き抜かない。首から右手にかけて撫でてやる。

「浮浪者にしては肌に張りがある。役作りには体作りだって不可欠なんですよ?」

 シルエットの分かりにくいぼろの服で隠してはいるが、鍛え上げた体躯は彼の出立ちが嘘であった事を雄弁に語る。

 腹斜筋をすり抜け、腰部に集中する門脈の類も避けて栓をするよう深々と捻り込んだ傷口は、彼我の衣服が吸って大袈裟な出血はない。これで多少の猶予ある致命傷は作れただろう。

 彼が唸る。必死の思いで振り抜かれた肘が、そこにあったはずの私の影を貫く。

 その後、こちらを見失った彼は辺りを見回す。私は再び意識の外から接近し、今度は真正面から襟を掴んでナイフを首に突きつけ、女神の慈愛よりも深い声で語りかける。

「焦らないで、私はここに居ます。それと、貴方たちの敵にはなりませんから」

 主導権が私にあるのは火を見るよりも明らか。男の表情には苦々しい観念の色が窺える。ほどなくして脱力し、抵抗を放棄する。

 そうしてようやく、彼は口を開いた。

「アンブロシア・アードベッグ。やはりお前が首謀者か……」

 右手で傷口を抑え、怒りと苦痛を混ぜた声が搾り出される。あの記事が出てから僅か数日で私の動向を嗅ぎつけるに至ったのは褒めてやりたい。追跡に関する技術も低くはない。

 少々、彼の反応を見ることにする。

「最初に企んだのは貴方たちポーレの軍ではありませんか。私たちはただ、それらを暴いただけのこと」

 彼は返答に詰まった。やはりラムスドルフ公を担ぐボゼリアのタカ派で間違いないだろう。

 そのまま責めるように言葉を重ねてやる。

「貴方は、桑の木の下に居座るライオンじゃ無い。私とトーレスの逢瀬に横槍を入れる事は出来なかった。でも貴方は誇り高い人狼種とお見受けします。犬死になんて、したくはありませんよね?」

 折角、映画を見た後だ。芝居がかった言い回しでもって、私はこの芋役者に交渉を持ちかける。

「これから貴方には二つの択を与えます。肝臓からの出血を放置して死ぬか、すぐそこの病院まで来てもらうか。その病院も我々の提携先です。開腹手術くらいは出来る設備はあるし、秘密も守る。悪いようには致しません」

 こうしている間にも血は流れ続け、思考の余地を奪う。話し合いとは機を見て始めるもの。であればまさに今が、その機であろう。

「治療の条件は『貴方を動かす人と、私の接触を取り付ける』こと。如何でしょうか?」

 目の前で死にかけている人間に対し、最悪の天秤を差し向ける。なんと心地良い時間だろうか。

 男が膝をつき、頭を垂れる。普段は戦いの誇りだ名誉だと吠え立てているはずの軍人であっても、いざ迫る本物の死に対してはあまりにも無力だ。

「──分かった。条件を飲む」

 屈服し、歯を食い縛る音が聞こえた。私はいつもより少し口角を上げ、その男に微笑みかけた。

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