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 山峡のダムに程近い丘には大きな図書館がある。夕刻そこへ到着したトーレスは工場で借りた社用車を停め、降車する。

 無骨で逞しい旧帝国様式のコンクリート建築を眺めていると、街の年寄り連中の信仰を一手に担っているのも頷ける強かさを感じた。

 重たい樫の扉を開けて中に入り、貸出受付で座っている年配の女性に話しかける。

「すみません、うちのアデレードを見ませんでしたか?」

 何かの書籍に没頭していたらしい。女性はこちらに気付いて顔を向け、老眼鏡をずらした。

「二階の旅行記を置いてる辺りだったかしらねえ。まだ居るか分かんないけど」

 ゆったりと話す彼女はアデレードと顔見知りであるため、名前を出せばすぐに理解してくれた。

「ありがとう、行ってみます」

 トーレスが礼を言うと、女性は手を振って手元の本に目線を戻す。

 館内は埃っぽくはあるが小綺麗で、本棚の隙間に置かれたガス灯が彩る無数の人影がゆらめいている。

 書き物をこなす男性。

 子供と絵本を読む母親。

 案内を見ながら右往左往する学生。

 ここは街から外れた場所ではあるが定期バスも出ているために、多様な住民達が日々集う。

 階段を登り、ささやかな談話スペースを横切った先、古ぼけた安楽椅子に揺られる翼を見つけた。

「アデル、帰ろう」

 トーレスが呼びかけると、深紅のコートを纏った老婆は栞を取り出して本に挟み、腕時計を確認する。金属細工の粋を集めた外殻にランプの炎が優しく反射した。

「おや、もうこんな時間かい。」

「うん。車で戻って、ちょっとのんびりしたら夕飯だね」

「悪いが用事がまだ終わってない。ちょっと待ってくれないかい?」

「いいよ」

 随分と本に没頭していたらしい。迎えが来る時間を

「レオはどうしたんだい?」

「代わりに僕が来た。今日のことで話がしたくて」

「暇なんだねえ」

「学校は休みだし、取材があるから仕事も休み貰ってるから」

 今この図書館には長期休暇であっても勉学に励んでいる同年代の少年少女らが大勢いるが、見ないふりをする。今日はこれ以上何かをやる気力が無い。

 椅子の横に置かれた机上には数冊の厚い本が積まれており、旅行記やら空想小説らしき背表紙が見える。

「これ全部借りるの?」

「ああ。あとはこいつらを借りる手続きをしてから最後に、『大聖堂』で本を探すだけだ。ついて来るかい?」

「うん」

「よし、じゃあ行こうか」

 トーレスが答えると彼女は椅子から立ち上がり、本を抱えようとする。

「持とうか?」

「問題ないよ」

 思わず声をかけてしまったが、アデレードはなんともないように断った。

 それなりの重量がありそうな荷物だが、頑強な体は動じない。軽々と持ち上がったそれらは脇に収まり、翼を使って器用に固定された。

 そうして出立の準備を終え、彼女は最後にランプに片手をかざしてガラス越しに火を消した。



 二人は館内奥の扉から、別館までの渡り廊下へと進む。屋外に出た瞬間、むせ返るような芳香に迎えられたトーレスは思わず顔を引き攣らせる。

 渡り廊下の両側はラベンダー畑になっており、香りの正体がこれである事がすぐに分かった。

「図書館のこっち側に来るのは初めてだったかい?」

 本を持ったまま先導するアデレードは振り返らずに尋ねてくる。

「特に用事も無いからね」

「『墓』に用が無いのは良い事さ。何も失わなくていいのなら、それに越した事はない」

 この街に来てまだ年月の浅いトーレスに死んだ知り合いは居ない。しかし、この図書館が持つ独特な宗教的意味合いはなんとなく知っている。

「図書館が墓地を兼ねる、か。話には聞いていたけど、なんでまたそんなことを」

「行きゃ分かるさ」

 中庭にはラベンダーだけでなく、ローズマリーやゲラニウムなどの香りが強い花が植えられており、ここを聖域たらしめている。防虫と、埋葬された死者への鎮魂も兼ねているのだろうか。

 そんな花々に彩られた道の終わりに、大きな両開きの扉があった。

「さて、これがあたしらの『大聖堂』だ」

 アデレードが扉を押し開け、中へ入ってゆく。

 トーレスはそれについて歩み、扉を閉める。

 円形の広い空間。最初に見えたのは壁面に沿って敷き詰められた本棚だった。

 手の届く高さだけでなく、木製の仮足場が設けられて更に上階へと新しい棚の層が作られている。

 光源は各所に置かれた燭台と、ドーム状になった天井に設けられた無数の小さな採光口だけ。

 その光点が主要な星座を模して、天球図として機能している。星を神聖視した旧帝国シラシアの遺構をそっくりそのまま移築、復元したような場所だ。

 また室内の中央に置かれた台座には無数の蝋燭があり、アデレードはそこまで一人で歩んでゆく。

 片手をかざすと、蝋燭が彼女の力を借りて一斉に灯る。そうすることで、鎮座していた一体の石像が照らされた。

 右手に剣と、左手に天秤を携えて翼を広げる女性。メイディオスの守護者とされる星女神だ。

 女神は体をこちらへ向けながらも顔面は空を見上げており、今まさに天へと飛び立つ瞬間のようだ。

 眺めながら、アデレードはおもむろに語り始める。

「あの戦争よりもずっと昔の、星女神が降り立った時代、この街はとにかく沢山人が死んでいた。でも、硬い岩ばっかりの地面には人間一人埋めるのにも骨が折れる。だから当時の人らは、いつまでもそれに拘泥する労力を切り捨てるために、死体を焼いたんだ」

 建国時代の御伽噺だ。ぼんやりと聞き覚えはあるものの、この場所との文化的繋がりを聞くのは初めてだった。

 よく目を凝らすと他の参拝客がちらほらと見受けられ、それぞれが本を手にしており、燭台の火を頼りに懐かしむように眺めたり、涙を拭ったりしている。

「あの下が納骨堂。アタシらは基本、立ち入らない。焼いた後の骨はみんなそこに仕舞っておく」

 彼女が指差す先には下に降りる階段があり、ロープで閉鎖されている。

「墓のための土地を拓くくらいなら、そこで牧草を育てればいい。祈りの儀式を考える暇があったら星を眺めて暦を合わせていればいい。死者はあくまで死者だ。残された生者の背中を押すだけの存在でしかない」

 アデレードは自分で点火した台座の蝋燭たちを一斉に消灯させた。そして振り返った先のトーレスに対し、それらを顎で示す。

 やってみろ、という事か。

 そう理解して歩み出たトーレスを見ながら、アデレードは思い出すように話を続ける。

「それでも、死者は忘れ去られるだけじゃあ冷淡過ぎる。人間の心ってのはそこまで機械的じゃない。だから、家族、隣人、友人、仕事仲間。そいつを知ってた奴らの寄せ書きを束ねて『本』にするんだ」

 トーレスが手をかざして意識を集中させると、火はまばらに灯る。それを見た老婆は短く笑った。

「精進しな」

 諭され、ため息をつく。一人前にはまだ程遠い。

 顔を上げ、改めて辺りを見回す。

 見渡す限り本棚の世界。収められた書の一つ一つがこの街で生きて、死んでいった人々の足跡。ドームの奥にある柱時計は秒針を進め、死者の安寧を守り、刻の流れを着実に数えている。

「真っ当に生きて死んだ奴の本は分厚いね。惜しまれていたのが一目で分かる。逆に碌でもない生き方をした奴の本なんかは紙切れ一枚だったりする」

「死後の裁定か」

「そう。星女神が飛び立ってしまったこの街で死んだ人間を最後に評価するのは、置いていかれた人間なのさ」

 女神の前でアデレードは膝をつき、額に右拳を当て目を瞑る。その沈黙が死者の為なのか、生者の為なのかは、当人にしか分からない。

 女神への礼拝を済ませた二人は、とある故人の本を探しにゆく。

 階段を登って足場を歩き、比較的新しい年代の死者達が並ぶ棚を見る。

 手すりに打ちつけられた鎖で掛けられた案内板には『持ち出し禁止』の文字。そこでトーレスはふと思ったことを尋ねてみる。

「借りる訳では無いんだね」

「死者は死者のまま、ここで眠らせておかないと。私らは時々来てやって、思い出すだけでいい」

 アデレードはそう言うと借りる本をトーレスに預け、代わりに棚から一つの本を手に取る。背表紙に書かれた名には見覚えがある。彼女の夫であったという人だ。

 本を開き、文字を目で追う。それと同時にまた昔話を始めた。

「昔、あの工場にも沢山の術師が流れ着いた。酷い戦争の後だったからね」

 なんらかの生命が脅かされる状況では魔法が生まれやすい。強い意思を持ち生きる人間という種なら尚のことだ。大勢の人間が殺し合う戦争はまさに、道理のひずみを生み出す格好の土壌となる。

「でも、炎ってのはいつかは消える。五年経ち、皆で金を得た。十年過ぎて、皆が恨みを忘れていった。二十年越えた頃には、アタシの横にはもう誰も並んでいなかった」

 炎が出せなくなり一般職人へ転向した炎術師は工場にも何人か居る。そして本棚を懐かしむように眺める彼女の様子からすると、ここに眠る者も少なからず居るのだろう。

 アデレードは今や、数少ない『生き残り』だ。

「それでも三十年。新しい仲間が増えた」

 文字列を愛しげに指でなぞり、アデレードは横目で一瞬だけこちらを見た。

 その瞳に浮かんでいたのは、僅かな安堵だろうか。

「アタシも遠くないうちに骨と本だけになる。だからそれまで、あんたは居なくなるんじゃないよ」

 気丈な彼女にしては珍しい、懇願するかのような声色。

 未来なんて分からない。紆余曲折を経て落ち着いたこの場所からも、いつかは飛び立つのかも知れない。それに飛行機といういつ落ちるかも分からない発展途上の存在に命を預けてもいる以上、気軽に頷くことは出来ない。

 それでも。

「……分かった」

 約束と言うにはあまりに軽薄過ぎる回答だと、トーレスは自覚する。

 それを見透かしたように、老婆は口角を引き上げて静かに笑った。

 しばらくそこで待つ。時計の音とページをめくる音だけが、天球に響いている。

「よし、帰ろう」

 数分経った頃、アデレードが本を棚に戻す。死者との対話は終わったらしい。

 コートを翻し、彼女は足音高く去ってゆく。トーレスはそれを追いかける。寄越された本の重みに戸惑いながら。



 山風吹き荒ぶ峠道を、自動車で帰路につく。拭き晒しの運転席は地面の起伏を直に伝えてよく揺れるため、空で気流に揉まれた時よりも居心地が悪い。

 後部座席で腕を組んでいるアデレードがいつもの調子で口を開いた。

「で、話っていうのはなんだい?」

 その声は風が打ち付ける車上においてもはっきりと聞き取れるほどよく通る。

 ここでトーレスはようやく、わざわざ迎えに来た意味を思い出す。そして風の音に負けないように声を張る。

「あのアンブロシアって子、怪しい。最初に会った時、握手を求められた。でも手を汚す仕事ばっかりのメイディオスの人って、昔からそれは嫌がったらしいじゃないか」

 メイディオスにおいて親愛は拳を突き合わせる事で示す。彼女はその慣習を知らないのか、敢えてそうしたかのどちらかになる。

「それから、体温が若干この街に居る人より低い。よく遠出をするのか、最近余所から来たか、どっちかだ。」

 雑誌記者を名乗る気品に満ちた少女。彼女に対するトーレスの印象は、『胡散臭い』の一言に尽きる。

「そんなもん分かってるよ。でも、ブンヤなんざ全員怪しいだろ」

 アデレードの答えは元も子もないもの。しかしトーレスが感じたのは、もっと底の冷えるような、本能的な恐怖だ。

「何かを喋る度に表情はころころ変わるくせに、温度がブレないんだよ。堅気の人間とは思えない」

「修羅場を潜った人間はそうなるもんさ」

「アデルもか?」

「ああ」

「嘘つけ」

 感情に流されやすい自覚はあるらしい。彼女は冗談めかし、喉から絞り出すように笑ったのちに言い聞かせる。

「今更ガタガタ言っても始まらない。あいつらがポーレだかシラクスだかの手先かもしれない、ってのは百も承知の上で出資を受けたじゃないか」

 その通りだ。産業スパイが蔓延るこの街で金を受け取るということは、その利害の渦に飲まれるリスクを背負う事に等しい。しかし、そうしなければ飛行機はポーレまで飛べなかった。

「気に入る気に入らないはこの際関係無い。全部飲み込んで燃やしてしまえ」

 単純明快なアデレードの気質と、慎重が服を着て歩いているようなトーレスの生き方は正反対と言っていい。

 だからこそ、自分は彼女に憧れたのを思い出した。


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