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試験飛行から数日経った午前。炎術師トーレスはスーツを着て、とあるホテルの前に立っていた。
鉄筋コンクリートを用いた最新鋭の高層建築が生え揃う中央区では、自分と同じようなスーツを纏ったビジネスマン達と自動車が忙しなく行き交う。いつもの仕事場のように油まみれで酒を飲み、大口開けて歌いながら鉄を叩く昔ながらの職人達の姿はどこにも見当たらない。
現場の知恵と学者の知識を使って産業をシステム化し、人々を管理する人間だけが金を稼いで社交界で身を踊らせる。これが学問の都、メイディオスの現在の姿だ。
入口のガラスに映った自分の出立ちを見る。結んでもらったネクタイが息苦しく、フォーマルな衣装に『着られている』自分がどうにも情けなく思えてくる。
視線をガラスから外して重い扉に手を掛ける。その時、背後に誰かが立った。覚えのある体温だ。
「お久しぶりです、トーレスさん」
透き通った少女の声がする。
「この前会ったばかりですよ、アンブロシアさん」
トーレスは振り返って挨拶を返す。やはり今回の仕事相手だった。
前触れなく現れたアンブロシアの格好は以前とは異なり、周囲の大人と同じく白いシャツに紺のジャケットを羽織っている。しかしそれが他の誰よりも様になっているのが怖い。
「お知らせしていた時間よりもきっかり三十分早い。真面目な方なんですね」
アンブロシアにそう言われ、メイアンに叩き起こされ身なりを整えて飛び出した朝を思い出す。自慢ではないが、自分は他人に褒められるほど殊勝な人間ではない。
「たまたまです。今は学期間休暇だから。普段だったらまだ寝ている時間ですよ」
明け透けに日頃の生活態度を話してしまう程度には落ち着いている。大丈夫だ、と己の心に言い聞かせる。
「折角ですからもう中に入ってしまいましょう。お仕事だけでなく勉学にも励まれているなら、時間を無駄には出来ませんから」
「恐れ入ります」
アンブロシアからの嫌味の無い提案がなされ、トーレスはすぐに食いついた。一刻も早く帰りたい。
まず最初に立ちはだかっているのがこの重厚なガラス扉だ。このような場ではまず女性を先に通さねばならない。それだけはしっかり覚えていたトーレスは扉を押し開けてアンブロシアに中へ入るよう促す。
「ありがとうございます」
彼女はこちらに微笑みかけ、奥へと歩んでゆく。意を決し、トーレスもその後ろをついて行く。
エントランスの天井は通常の建物ならば三階までは届く高さを有しており、金細工と白熱灯を用いたシャンデリアが光る。
下を見れば、自分の顔が映りそうなほどに磨かれた大理石の床に朱のカーペットが敷かれている。
アーチとトラスを多用し、幾何学模様を思わせる内装を最初は豪奢に思ったが、華美な装飾は思いの外少ない。どことなくメイディオス市民が持つ合理主義の精神がちらつくようだ。
しかしいずれにしろトーレスにとっては見知らぬ世界だ。呆気に取られている彼を尻目にアンブロシアはフロントでの受付を済ませている。
鍵を携えた彼女がこちらへ戻り、話しかけてくる。
「四十階までエレベータで向かいます」
普段は三階建ての工場に寝泊まりしているトーレスにとっては眩暈のするような高さだ。アンブロシアはエレベータを指し、二人は搭乗口まで進む。
壁面の呼び出しボタンを押して待つ。柵が開き、アンブロシアに一歩遅れてエレベーター内に乗り込む。
コントロールパネルの前に立った彼女がボタンを押すと、籠は上昇を始めた。
他に乗客はおらず、途中で乗り込んでくる者もいない。柵の隙間から見えるフロアの境目が幾度となく通り過ぎる度、それを示す頭上のランプが一つずつ切り替わる。
その間、無言という訳ではない。アンブロシアがおもむろに尋ねてくる。
「ここに来るのは初めてですか?」
昨年末まで街で最も高かったこのビルには来賓のためのホテルのほか、商社や金融業者が入っている。当然トーレスにそんな場所との縁など無い。
「はい、中央区に用事は殆ど無いので」
「貴方ぐらいの歳ならみんなそうだと思いますよ。どうか緊張なさらず」
見たところアンブロシアの年齢もトーレスと変わらないように思えるが、女性に歳を訊かないという鉄則もアデレードから叩き込まれているので決して口にはしない。
「貴方は今や街の英雄。コンタクトを取りたい人々は大勢いるでしょう。なのでこういう所でもなければ満足にお話する事も難しい。慣れないかとは思いますがご容赦願います」
英雄、という言葉にどこかやるせない気持ちになる。功名心のために空を飛んだのでは無いのだが。
そうしていくつかのやりとりの後、エレベーターが上昇を止めて柵が開いた。
「ここです」
案内されたのは最上階。フロアに降り立ち、両開きの扉を開いた先はビルの冠部分の内部にあたるペントハウスだった。
そこに降り立ったトーレスはそばのガラス窓から街を見下ろす。
このビルよりも高い建造物が何本か建とうとしており、今まさに鉄の骨にコンクリートが肉付けされている最中だ。摩天楼はこぞって空を目指し、神の怒りとやらに触れる事もなくいまだ成長を続けているらしい。
さらに下へ目をやれば、道路は盆地をゲーム盤のように這い回り、自動車と煙突の黒煙が住居のレンガを汚す。
メイディオスは決して狭く無い都市であるが、ここ以上に『内緒話』に適した場所は少ないのかも知れない。
少しの間だけそれを見物していると、アンブロシアがトーレスに好奇の目を向けていた。
「やはりもっと高く、『飛行機』からの眺めの方がお好きですか」
一瞬考え、答えを出す。
「どっちも好きです。空からは空からの、陸からは陸からの眺めがある。飛んでいる時の景色は確かに壮大で美しいけど、平面的過ぎてどこかもの寂しいから」
ビルの上だろうが、飛行機の上だろうが空は変わらない。誰の悪意も届かない場所からなら、人々の欲望が密集した都会も愛しく思える。
「こちらです。どうぞお掛け下さい」
アンブロシアが示したのは窓際の小さなティーテーブル。トーレスは促されるままに席に着き、次いで彼女も腰掛ける。
一呼吸を置いたのちにアンブロシアの方から口を開く。その手元にはいつの間にかペンとメモ帳が握られていた。
「では改めまして。私『マルティロ』の記者を務めております、アンブロシアと申します。どうぞよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「まず初めに、今回の長距離飛行の成功に対する賞賛を。そして私共マルティロ誌の独占取材に快いご返答とお時間を頂戴している事に深い感謝を」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございます。あなた方からの出資があったからこそ、今回の試験飛行が実現して、成功したんです。だったら、相応の態度で臨まないと」
マルティロは多くの歴史と実績を残し、野心渦巻く現在のメイディオスでは最も信頼の置ける情報を扱う新聞社と言っていい。だからこそ、トーレス達は話に乗った。
「さて早速ですが、あなたがあの『飛行機』なる機械に出会ったのはいつでしたか?」
「三年前。僕がまだこっちで言う中等科が終わったばかりの十六、七の頃です」
「お若いですね。その時は何を?」
「シラクスの国境警備隊に居ました。警備隊と言っても、軍隷属の実動部隊みたいなものだったんですけどね。その時に色々あってこっちに渡って来たんです」
「ほう。それ、今喋って大丈夫そうですか?」
わざとらしく小声で囁く。普通の男なら易々と引っ掛かりそうな魔性の魅力を纏わせる少女である。だがメイアンというブレない軸があるトーレスは揺るがない。
「ちょっとだけなら大丈夫です。でも本題の飛行機とは何も関係の無い話になりますよ?」
「大雑把でいいのでお願いします。英雄の過去というものは大衆が共感するため、引いては記事を売るための分かりやすいドラマですから。むしろ複雑な技術論を並べ立てるよりも受けが良い」
アンブロシアは笑顔で売文屋全員の本音をあけすけに語った。しかしその真意は依然として見えない。
少し考え、自分の過去の喋っていい部分を頭の中で繋ぎ合わせてみる。ある程度は事前に社長やアデレード達と打ち合わせをしてある。そのため大きな問題は無いと祈りたい。
「えっと、端的に言えば、メイディオスとの緩衝地帯に侵入して山脈の登山ルートを探れっていう偵察任務の途中で『時間溜まり』に巻き込まれて、死にかけながら帰って来ました」
「なるほど。『魔法汚染』の一種ですね。理外の理の一片、その中でもとびきり珍しい時間に関する歪みだったと」
魔法という圧倒的な暴力は、あらゆる場所に現れて既存の物理法則を根底から歪ませる。それが時間という絶対的支配者であっても関係無い。
真剣な面持ちで話を聞いていたアンブロシアがここで一旦流れを止める。
「一応ここは購読者の為にメモをしておきましょうか。『時間溜まり。特定条件が満たされる極々一部の場所に起こる、時間ないし空間の歪み。それに巻き込まれた者は過去に飛ばされる事になる』と」
大仰に、誦んじるように彼女はメモをとり、それが終わるとこちらを向き話を続ける。
「往々にして古戦場や災害跡など大勢が死んだ場所で起こり、かつその渦中に突然放り出されるという危険なものですね。実体験として聞くのは私も初めてです」
「僕はそいつに三十年前の国境戦争の時代に飛ばされて、帰ってきました。
その帰ってきた瞬間の空を飛んでいたのが、アデルの飛行機だったんです」
かつて高原の廃村で見上げた空は広く澄み、そこで聞いたタービンの音は恐怖に怯え竦む彼を奮い立たせるに十分なものだった。
「その後も色々ごたごたがあったんですけど最終的には飛行機に憧れて、警備隊から逃げ出して一人でセレコ峠を登って、メイディオスで飛行機を探していました」
指先に火を灯してみる。擦ったマッチのように儚い火は、無風の室内でゆらめいた。
「この炎は、その時に得たものです。今はこれをエンジンに組み込んで気楽に空を飛んでいます」
だから、余計な邪魔だけはしないで欲しい。そう付け足したかったが、理性は言葉を押し留めた。
アンブロシアはトーレスが話すのと同じスピードでメモを取り終える。速記術らしきものを使ったその紙は、話していた側であるトーレスには読めない。そして、彼女が催促するように話題を提示する。
「では次の質問に参りましょう。風船のように『浮かぶ』のではなく、自らの意思で『飛ぶ』飛行機。ベイロン・ワーカーズ社が世界で初めてそれを実現出来た理由は何だとお考えですか?」
「メイディオスに古くから居た有翼人種達は滑空は出来ても飛翔が出来ない自分達の翼について、ずっと研究を重ねていました。その空力に関する膨大な量の先行研究が残っていたおかげで羽ばたきという手法を早々に捨てて、回転翼の採用に踏み切る事が出来ました」
鳥のように羽ばたくには強靭な筋肉と徹底的な軽量化が必要となる。しかしその改良は人体も機械にとって荷が重すぎる。
「後は『炎術』という属人性の極めて強い技術のせいでしょうかね。まだ発展途上にあるディーゼル機関に比べ、タービン機関は馬力が圧倒的に違う。それに燃料も載せなくていい。軽さが命である空においてこの優位性は大きい」
熱と遠心力による変形という課題を乗り越えればこれほど頼もしい力は現状他に類を見ない。構造自体は比較的シンプルではあるものの、人類の叡智をあと二十年進めたようなこの技術は炎術師だけが使えるものだ。
「とはいえ今は、空を研究しているのは僕たちだけじゃない。シラクスは飛行船を作ってるし、ポーレや南方の技師だって居る。偶然最初に空へたどり着いたのが僕らの方法論だったというだけです。もう二、三年しないうちにディーゼル機関の改良が進んで、炎を使えない人間でも空を飛べる時代は来るかも知れない」
自動車や機関車を始めとして、現在の人々は様々な分野で急速に工業を発達させることで『機械の時代』を推し進めている。この想定もあながち間違いではないだろう。
「僕らはその前に、先駆者としてイニシアティブを取らないといけない。だからこそ、地盤が固まるまでこの技術を秘匿しようと考えています」
これ以上の情報は渡さない。トーレスが露骨にそう伝えるとアンブロシアはそれを理解したように頷き、自身の考えを示す。
「先駆者は偉大であっても成功者と同義ではない。横から掠め取られ、日の目を見ぬまま消えていった人たちを私もたくさん知っています」
メイディオスに住まう金の亡者達はあらゆる新技術に眼を光らせ、隙あらばつけ入り、盗もうとしている。彼女がその尖兵でないことを証明出来る手立ても無いだろう。
「そういう事でしたら仕方ありません。先にも述べた通り、大衆が求めるのは『論』ではなく『物語』ですから大丈夫ですよ」
「そう、ですか」
事情を酌み、フォローをしてくれたが素直に嬉しいかは怪しい。自分達の努力が大衆に物語として消費される。分かってはいたが、その事実にトーレスは改めて気が削がれそうになる。
「この話はここまでにしましょうか。次はちょっと……刺激的な話になるかもしれません」
アンブロシアが話を切る。不穏な前置きにトーレスは無意識に拳を強く握り締める。
「戦争と空、と言えば古くは生物兵器『テレゴノス』が当時のシラクス首都に落下し、壊滅的な被害を与えました。現在はそう、さっきトーレスさんが仰られた通りにシラクスはテレゴノスに対する切り札として『飛行船』──要は巨大な風船に機関部を搭載した乗り物、を保有していますね。ベイロン・ワーカーズの飛行機は、それらの脅威に対抗出来る存在になり得るでしょうか?」
考えてみる。化学と力学、産業については僅かに齧っている。しかし軍事組織に準ずる場所に居たとはいえ戦争について自分は殆ど素人である。己の愛機が出来る事を、どうにか捻り出す。
「偵察に出たり、敵陣に爆弾を落として帰ってきたり、機関銃を乗せたりやりようは色々あると思います」
アンブロシアが頷く。戦う意欲があると納得されるのも嫌なので『出来ない』要素も重ねておくことにする。
「しかし少なくとも、今の僕は戦えない。あの機体はそういう作りにしていませんし、訓練も受けてもいません」
「ほう」
「加えてシラクス領内は法典の影響で魔法が使えないから、偵察として飛ぶとしてもこちら側の領域──つまりは停戦ラインからかなり侵攻を許している状態になる。あまり考えたくありませんね」
「なるほど確かに。魔法の排斥というイデオロギーを掲げるシラクスという国家はそれを叶えるための、魔法を排する魔法を擁していますからね」
法典の影響がどれくらいの高度まで届くかは分からない。検証するための手立ても無い。
「飛行機はまだ、兵器としては向いていないという事でしょうか?」
アンブロシアが小首を傾げて尋ねる。戦争は確かに、これまでのメイディオスの産業においては重要な要素だった。しかし現在、ここまで聞かねばならない情勢ではないように思う。
「僕らじゃない誰かなら。でも……」
トーレスは言い淀み、考え込む。
それを見たアンブロシアは思い付いたと言わんばかりに人差し指を立て、問いを重ねた。
「じゃあちょっと切り口を変えてみましょうか。『大切な人を失うかもしれない』と。そうなった時、あなたは飛ばずにはいられますか?」
大切な人。そう聞いて思い浮かぶのはあの有翼人の少女。彼女のためなら、或いは。
「飛びます」
反射とも言える早さで答えが出る。慌ててトーレスは次の言葉を繕う。
「──今は緊張緩和の時代だけど、十年、いや数十年先にはそうせざるを得ないかも知れない、という事です」
アンブロシアが珍しく驚いた顔を見せている。よほどおかしな振る舞いだったのかもしれない。
口元に手を当てて笑い、元の余裕ある穏やかな表情に戻る。
「失礼。確かに。私達が生きているうちには戦争が起こらないかも知れないし、半年後には皆が銃を握って前線に居るかもしれない。知らない未来を無責任に喋らないのは良い事だと思いますよ」
客観的に、両方の可能性を提示して語る彼女の姿勢にはやはり記者らしいものを感じる。少し悲観的過ぎるきらいはあるが。
「やっぱり貴方は、『英雄』ですよ」
付け足すように彼女が呟いたのは褒め言葉であって欲しいと、強く願う。
「それでは次は──」
質問攻めはまだまだ終わりそうに無い。少しげんなりし始めたトーレスの様子をアンブロシアは見逃さず、ウィンクを一つ見せ、インタビュー用の原稿を読み上げていった。
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