第三十二話「揺れる感情」
***
「ロイド様、紅茶のご用意ができました。少し休憩なさってはいかがですか?」
朝からずっと書斎で机と向かい合っていたロイドの視界の隅に、そっとカップが置かれる。
その香りに誘われるように顔を上げれば、少し呆れた様子のエマが立っていた。
「エマ?…あれ?もうそんなに時間が経ったのか…気づかなかったな」
「ええ、とても集中されていましたよ。私のノックにもお気づきになりませんでしたもの」
「すまない。どうしてもこの書類を午前中に終わらせたくて必死になっていたんだ」
「その集中力を褒めるべきか呆れるべきか、私は毎回判断しかねております」
どこか茶化すような口調のエマにロイドは微笑んで返す。そうしてぐっと背伸びをして紅茶を口にすれば、初めてそこで自分の喉が渇いていたことに気づいた。
「今日はすっきりと晴れていて気持ちがいいな」
窓から差し込む光を見上げ、その眩しさにロイドは目を細める。
「はい。今日はちょうど庭の手入れを行う予定でしたので、いい日になりました」
「そうだったのか。ここからでも手入れしている様子が見えるだろうか?」
気分転換にその様子でも見てみようかと、ロイドは席から立ち上がる。
窓辺に立って下を覗き込めば、ちょうど近くの植木の手入れがされているところだった。
「――ん?ノアがいるな」
手入れをしている庭師の一人とノアが話している姿がそこにあった。
何を話しているのか時折楽しそう笑うノアの姿に、ロイドの口元も自然と弧を描く。
「ノアも随分と屋敷に慣れたようだ」
「ええ。他の使用人たちの間でも優秀だと言われていますよ。特に女性たちからは、ロイド様と張り合うほどの人気ぶりだとか」
「……そうなのか?」
きょとりとした顔で振り向いたロイドを見て、エマが笑う。
「なんでも、一度でいいからノアに相手をしてもらいたいという者もいるそうです。あの見た目ですからね、そう思う者がいても不思議ではありません」
「………」
「ロイド様?」
黙ったまま外にいるノアへ視線を戻したロイドに、エマが不思議に思って声をかけた。
「…そうだな。確かにノアは誰が見ても魅力的な人間だ」
裏通りの出身で、客を取っていたノア。
本来であればもっと擦れているだろうその性格は、意外なほどに素直だった。
クリスから褒められれば、くすぐったそうな顔をするその姿。
エマから頼られれば、嬉しそうに笑うその姿。
ロイドから礼を言われれば、照れ臭そうにするその姿。
そしてロイドと二人きりのときに見せる、気を許し、年相応の表情を見せるその姿。
そのどれもが鮮やかに思い出せるほど、ロイドにとってノアは、同じ出身だとは思えないほどに魅力的な人間だった。
――『最期まで、ロイド様の傍で仕えさせてください』。
――『私が貴女様のお役に立てるなら、それがどんなことでも私には幸せなことです。貴女様の為に尽くせるということが、何よりも幸せなのです』。
――『――私はロイド様に、永遠の忠誠を誓います』。
ロイドは、真実を話したあの日にノアがくれた言葉を思い出す。
その言葉のどれもがロイドの心を温かくさせ、最期までノアが一緒だと思えばとても安心できた。
「―――、」
けれど同時に思う。
もし、ノアに愛する誰かが現れてしまえば、恐らく彼はその誰かを愛した心を捨てるだろう。
――誓いを守り、生涯をかけて、たった一人にしか尽くさない。
それは今までのノアは見ていれば、簡単に想像できる未来だった。
何でもそつなくこなせて器用かと思えば、思わぬ不器用な面を見せる。
ノアのロイドへの忠誠心は本物で、ロイドか恋人か選ぶとなれば間違いなく前者を選ぶだろう。
それを思えばロイドは、自分の心に喜びが湧き上がるのと同時に、どうしようもない罪悪感も覚えた。
――自分の存在が、愛し合うだろう二人を引き裂く原因となる。
もしそのときが来ても、自分には到底ノアの背を押して送り出してやることはできそうにない。
「っ、」
自分でも驚くほど身勝手に思える感情に、ロイドは思わず息を呑んだ。
「どうかなさいましたか?」
「いや…少し考え事をしていただけだ」
そう曖昧に笑ってみせたロイドの顔を、エマはじっと見つめる。
「それならいいのですが…ロイド様。何かあれば私はいつでも聞き役になりますからね。勿論クリス様もノアもです」
「…ああ、ありがとう」
――それでも、こんな仄暗い感情を話すわけにはいかない。
ロイドは席に戻り、ぐっと紅茶を流し込む。そして気を紛らわせるように、再び机と向かい合った。
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