第三十一話「漠然とした不安」

「…ロイド。そいつには十分に気を付けろよ」


「急にどうした?私なら大丈夫だ。幸いにもあちらが私を嫌っているからな」


「だからこそだろ。どんな手段で食って掛かってくるか分からない」


「…分かったよ。パクストン伯爵には十分注意する。ノアに迷惑が掛からないようにするよ」


「迷惑が掛かる、掛からないの問題じゃないぞ」


 忠告を真剣に聞き入れているのか分からない態度のロイドに、ノアは不安を覚える。


 そして、ロイドの近くにあの欲にまみれた男がいるのかと思うと、ひどくぞっとした。


 ちょうどロイドが紅茶を飲み終えた頃、エマがロイドの部屋へ現れた。


 ロイドの就寝までの手伝いをするエマと役目を交代したノアは、その足でクリスの部屋へと向かう。


 ――コンコンコン、


「ノアです。このような時間に申し訳ありません。少しお話したいことがあります」


「入るといい」


「失礼いたします」


 ノアが扉を開ければ、書類を整理していたらしいクリスが、机に向けていた顔を上げた。


「お仕事中に申し訳ありません」


「気にしなくていい。…どうした?」


「…お耳に入れておきたいことがありまして」


「………」


 クリスが持っていたペンを置く。そして真っ直ぐにノアに視線を向け、話を聞くという意思を態度で示した。


「ハリー・パクストン伯爵のことです」


「………」


「先程ロイド様から、パクストン伯爵はタイラー家を毛嫌いしているとお聞きしました」


「…そうだな。目の敵にされているようではある」


「そのことで気になることがありまして…。――実は、パクストン伯爵は私の客だった男なんです」


「―――、」


 ノアの言葉に、クリスがすっとその目を細める。


「…週に一度は必ず、多いときは二度、あの男は私を買っていました。あの男はなんでも綺麗なものを好んでいて、私以外の男を買っていたときもあったようです」


 思い出すだけで吐き気がするほどの嫌悪感が湧く、パクストンの執拗な行為。


 何度もノアの容姿を褒め、ときに苦痛に歪む顔が見たいと、嬉々として告げてきたその濁った声。


「……あの男がロイド様に目をつけないわけがありません。嫌っているなら尚更です。ロイド様を、どんな目に合わせるか…」


 あの汚い手がロイドに触れるのを想像すれば、身体が沸騰しそうなほどの怒りが湧き上がった。


 あの欲にまみれた目が、ロイドを映すことさえ腹が立つ。


 そんな行き場のない怒りを抑えるように、ノアはその拳を強く握った。


「…確かにパクストン伯爵は、決して評判がいいとは言えない人物だ。今までタイラー家に対して大きな動きはなかったが、用心するに越したことはない。私からも探りを入れておこう」


「ありがとうございます」


 ノアがそう頭を下げれば、クリスはふっとその目元を和らげた。


「嫌なことを思い出させてしまったな。すまなかった」


「…いえ。私の過去よりも、ロイド様の未来の方が大切ですから」


 クリスが味方についてくれれば、こんなにも心強いものはない。


 けれどそれでもなお、ノアの胸には言い知れない漠然とした不安が残っていた。

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