第三十話「貴族の中の厄介者」

***


「おかえりなさいませ」


「ああ、ただいま」


 夜会から戻ったロイドを出迎えたノアは、すぐにその表情の変化に気づいた。


「どうかしましたか?随分とお疲れのご様子ですが…」


「ん?…ああ、分かるか?」


 苦笑するロイドから上着を預かり、その言葉を肯定するように頷く。


 そうして自室へと歩き出したロイドの少し後ろを追って、ノアも歩き出した。


「夜会で何かありましたか?」


「いや、そういうわけではない。いつも通りだったよ。ただ…」


「ただ?」


「少し苦手な人物と会ってしまっただけだ」


「…ロイド様にも苦手な方がいらっしゃるんですね」


「なんだ?いないように見えていたのか?」


「はい。ご当主としての貴女様は、とても世渡り上手に見えておりましたので」


「ははっ。それは褒めてくれているんだよな?」


「ええ、勿論でございます」


 少し声を立てて笑ったロイドの姿に、ノア口元もつられるように綻ぶ。


 自分と話す中で、時折見せてくれるロイドの年相応な笑顔が、ノアは密かに好きだった。


「でも実際、私が苦手というよりはあちらが私のことを嫌っているんだ」


「ロイド様を?」


 自分が開けた扉をくぐるロイドが零した言葉に、ノアは思わず目を見開く。


 欲目で見ていると言われれば否定はできないが、それを差し引いてもロイドは決して他人から嫌われるような人間ではない。


 もし嫌う人間がいるとするなら、それはロイドに理不尽な嫉妬心を抱いているのだろうと、ノアは推測した。


「…いや、違うな。私をと言うよりは、タイラー家を毛嫌いしているんだろうな」


「…何か因縁でも?」


「さあ、どうだろう?ただ彼は、前タイラー伯爵夫妻にも突っ掛かるような態度だったな」


 ノアは上着を掛け、椅子に座ったロイドの隣で紅茶を淹れる用意をする。


 疲れている身体が少しでも休まるようにと、蜂蜜を少し垂らした。


「どうぞ」


「ありがとう」


 テーブルに置かれたソーサリーを持ち上げ、そっとカップに口をつけるロイド。


 そうして一口飲んだあとに、柔らかい微笑みをノアへと向けた。


「蜂蜜を入れてくれたのか。おいしいな」


「ありがとうございます」


 おいしそうに一口、また一口と紅茶を飲むロイドの姿を見つめる。


 自分の淹れた紅茶をおいしそうに飲んでくれるロイドの姿を見るのもまた、ノアの好きな瞬間だった。


「――それで、そのタイラー家を毛嫌いしてるって奴は誰なんだ?」


「―――、」


 二人きりでノアの口調が砕けた瞬間、ロイドはいつも隠れて嬉しそうに微笑む。


「ロイド?」


 しかし、ノアはいつもそれを見逃していて気づかない。


 気づいていれば間違いなく、ノアの好きな瞬間のひとつになっていただろう。


「…ああ、悪い。その人の名は、ハリー・パクストン伯爵だ」


「―――、」


 よく聞き知ったその名前に、ノアは言葉を失った。


 ――その瞬間に蘇る、ロイドと出会う直前の記憶。


 自分の手の上に乗せられた重みのある布袋。


 趣味の悪い、見せつける為だけに作られたような大きな宝石の指輪たち。


 歩く度に揺れる、大きく肥えた腹。


 自分を見る、欲にまみれギラついた目。


「…ノア?」


「っ、」


 ロイドの声に、ノアは我に返った。


「どうかしたのか?」


「…いや、あまりいい噂を聞かない奴だったなと思って…」


「ノアの耳に入るほど悪名高いのか…」


 確かにハリー・パクストンという男は、貴族の中でも特にいい噂を聞かない男だった。


 むしろ悪い噂がほとんどと言ってもいい程だが、それでも伯爵の地位のままいられるのは、噂が噂でしかないためでもあるのだろう。


 本音を言えば、パクストンに関わりたくない者が多いだろうが、その地位ゆえに蔑ろにすることもできない。


 貴族の中の厄介者――それがハリー・パクストンという男だった。

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