第六章 男装伯爵と元男娼、警戒する
第二十九話「欲に塗れた目」
それからしばらく経った、ある夜のこと。ある貴族の招待を受け、ロイドはその貴族の屋敷の夜会に参加していた。
時計は午後十時半を指していて、それはあと三十分ほどで夜会が終わる時刻でもあった。
「――失礼。楽しい時間についワインが進んでしまい、酔いが回ってしまったようです。少し夜風に当たって来てもよろしいですか?」
十人そこらで歓談している最中に、ロイドは隣に座るこの屋敷の女主人へ、そっと問いかける。
お酒のせいか、それとも少し近くなったロイドのせいか。
ほんのりと赤らめた顔で、女主人は許可を出した。
「ありがとうございます」
薄い微笑みを浮かべて礼を言えば、物音を立てずに立ち上がる。そうしてそっと窓を開けベランダに出れば、心地よい夜風が静かに吹き抜けた。
「―――、」
そこでロイドは小さく息を吐く。
いくら貴族社会慣れをしたとはいえ、やはり他の貴族たちとでは根本的なものが違うらしく、こういった貴族同士の集まりがある度にロイドはいつも気疲れしていた。
あと三十分という時間が長く感じる。
幸いにも、ベランダからは玄関口が見えていて、時間的にもそろそろ迎えの者が来る頃である。
家の者が来たのを確認したら一足先に帰ってしまおうかと、ロイドは思った。
そのとき。
「こんなところで何をなさっておいでか?」
「………」
背後から掛けられた声に、ロイドはゆっくりと振り返る。
「――これはパクストン伯爵。少し酔ってしまったので夜風に当たっています」
そうして対外的な笑みを浮かべ返事をすれば、三歩分ほどの距離を開けたところで、パクストンと呼ばれた男はその歩みを止めた。
「さようでしたか。私はてっきり、貴殿のような若い者に我々の話はつまらなかったのかと思ってしまいましたぞ」
そう言って笑った顔は、ひどく歪んでいて。しかしその目は笑っておらず、ギラギラとした光を宿していた。
「…何を仰いますか。いつも皆さんのお話には、勉強させていただくばかりですよ」
物腰柔らかいままにロイドがそう言えば、途端にパクストンは鼻で笑う。
それは、自分の皮肉が通じなかった相手に見せる態度だった。
「―――」
ロイドはそれを薄く微笑んだまま見つめる。
――貴様のような若いだけの小僧がこんな場所まで来おって。
言葉裏にそう言っていたパクストンの皮肉を、ロイドはきちんと理解していた。理解した上で、あえて気づいていない態度を取っていた。
パクストンは、年齢で言えば六十の歳になるあたりだろうか。
あまり高いとは言えない身長に、大きく前に突き出した腹。その丸々とした指には、これを見ろと言わんばかりに主張した宝石の指輪がいくつもはめられていた。
――まさに裏通りの人間が描く貴族の、最も貴族らしい人だ。
それがパクストンと初めて会った、ロイドの第一印象だった。
そのとき馬車の近づく音が聞こえてきて、ロイドは視線を下の庭先へと向ける。
そうすれば玄関口に向かう一台の馬車が見えて、それに乗る見慣れた御者の顔に、自分の迎えが来たことを知った。
「――どうやら私の迎えが着いたようです。…それではパクストン伯爵。私は一足先に失礼させていただくことにします」
「………」
自分の横を通り過ぎて室内に戻っていくロイドを、パクストンは黙って見つめていた。
他の貴族たちと挨拶を交わすロイド。
洗練されたその所作と合わさって、ロイドの美しさを余計に際立たせているようだった。
「………」
そうしてしばらくすれば、今度は玄関からロイドが出て来る。
この屋敷の主人と女主人に見送られて、馬車に乗り込むその姿。
来たときと同じように車輪の音を響かせながら遠ざかっていく馬車を、パクストンは最後まで見つめていた。
「――ああ、やはり美しい…」
ぼそりと呟かれた声は、ただの称賛の響きだけではなかった。
「美しい…。実に美しいぞ、ロイド・タイラー」
ニタリと吊り上げられた口角。そして、パクストンの目に宿るギラついた光の奥で、どろりとした欲の色が滲んだ。
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