第八話「訪問客への初給仕」

***


「今日はここまでにしよう」


 クリスのその一声に、ノアは疲れを吐き出すようにそっと息を吐いた。


「ノア。今日は十七時にお客様がいらっしゃる予定だ。その際にお茶の給仕をしなさい」


「え?私がですか?」


 外部の人間の前に出るように言われたのはこれが初めてで、それはノアが屋敷に来て二ヶ月が経った頃のことだった。


「今のお前なら、十分にお客様へお茶を出せるだけの腕はある。私も後ろに控えているから、失敗を恐れずやってみなさい」


「っ、はい」


 クリスの言葉に、ノアは自分がひどく喜んでいるのを感じていた。


 ノアの人生の中でこうして純粋に褒められたことなどなかったし、何よりも『期待されている』という感覚がこんなにも嬉しいものだとは思ってもいなかった。


 裏通りに住んでいるときは、誰かに期待されるようなことなど一度もなかった。


 むしろ、裏通りの人間は『何かを期待すること』を諦めている節さえあった。


 取っていた客の中にはノアの顔立ちを、身体を、仕事の腕を褒める者もいたけれど、それはどれも隠しきれないほどの欲望を孕んでいて、喜びどころか嫌悪感しか感じることができなかった。


「少し休憩を取ってから、応接間で来客の準備を」


「はい。承知いたしました」


 ノアは頭の中で丁寧にお茶の淹れ方を思い返していた。どうすれば、うるさく音を立てることなくお茶を入れられるか。どう茶葉を扱えば、美味しいお茶が入れられるか。


 クリスに教わったことを全て実行できるように、ノアは何度も何度も頭の中で繰り返した。


 そして十七時。


 ノアはロイド、クリスと共に玄関ホールで客人を迎えていた。


「お待ちしておりました、フルード卿。ご足労いただきありがとうございます」


「ふぉっふぉっふぉ。こちらこそ押し掛けるような形ですまないね」


「とんでもない。いつも懇意にしてくださっているのに、なかなかご招待が叶わず申し訳ありませんでした」


 ロイドと親しげに話しているのは、目尻が下がった優しい顔つきの初老の男だった。


「ようこそいらっしゃいました、フルード伯爵」


「やあ、クリス。久しぶりだね。――おや、」


 フルードが目をつけたのは、クリスに倣ってその隣で頭を下げていたノアだった。


「見慣れない顔だ。新しい使用人かね?」


「ええ。二ヶ月ほど前からクリスの従僕として働かせています。――ノア、ご挨拶を」


「―――」


 ロイドに優しく促され、ノアは緊張で小さく喉を鳴らした。


「ノアと申します。お会いできて光栄でございます、フルード伯爵」


「そうかそうか。よろしくな、ノア」


 ノアの挨拶にフルードは満足そうに笑って頷く。


「どうぞ中へ。応接間まで案内いたします」


 そしてクリスを先頭に歩き出したロイドとフルードの後を追うように、ノアもその歩みを進める。


 ノアは密かに粗相なく挨拶できたことに、小さく安堵の溜息をついた。しかし、ノアの本当の出番はこれからで、応接間に入った瞬間から緊張は最高潮に達していた。


 ――少々の失敗であれば、フルード伯爵は笑って許してくれるだろう。けれど、それではこの仕事を任せてくれたクリスに顔向けができない。


 必要以上に肩に力が入っていることは分かっていても、ノアにはそれをどうにかする術が見つけられなかった。


「―――」


 ふと視線を感じて目線だけを上げて見れば、ロイドが優しい眼差しでこちらを見ていた。

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