第二章 伯爵と男娼、見極める
第七話「伯爵の評判」
「昼食の配膳の準備までに、これを一通り読んでおきなさい」
ノアがロイドの屋敷に入ってから数日が経った、ある午前のこと。朝食の片付けを終えたノアに、クリスが一冊の本を手渡した。
「昼食の片付けを終えたあとにその内容の復習をするから、そのつもりで」
「はい、分かりました」
ノアが了承をしたのを見届けたクリスは、次の仕事へと向かい歩き出す。その背を見送ってから渡された本の厚さを見て、ノアは思わず苦笑した。
教育係となったクリスのそれは、なかなかに厳しいもので。けれど、その教え方はとても分かりやすく、ノアが理解に苦しむことはなかった。
ただ、如何せん一日に教わる量が多い。
それさえ除けば、ノアにとって使用人として学ぶことは苦痛になるどころか、むしろ楽しみを覚えるほどだった。
「………」
ノアは与えられた自室に向かって歩き出す。使用人のためのものだと与えられた部屋は、どれを取っても裏通りで生活していたときのもの以上だった。普通の裏通りの人間なら一生味わうことのない豊かな生活を送っていることを、ノアは改めて自覚していた。
「――今日の昼食は、ロイド様のお好きなものばかりだそうよ」
「ふふっ。料理長ったら、本当にロイド様に甘いんだから」
下階へと続く階段に差し掛かったとき、他の使用人たちの楽しげな声が耳に届く。
そっとそこから覗き込めば二人の女の使用人が立ち話をしていて、ノアはこのまま階段を下りずに彼女たちの会話が終わるのを待つべきかと考える。
「ロイド様に『美味しかった』って言われるたびに、いつも嬉しそうな顔をしていらっしゃるものね」
「でも、あんな風にロイド様に言われたら私でも嬉しくなっちゃうもの。料理長のお気持ちも分かるわ」
「私はすれ違ったときに声をかけてくださるだけで十分よ」
たった数日、この屋敷で生活をしただけで明確に分かったことがノアにはあった。
それは、いかにロイドがこの屋敷の使用人たちに好かれているか、である。
彼ら全員が、ロイドが裏通りの人間だったことを知っているかどうかは定かではない。けれど、この屋敷で聞くロイドの話はどれも、人として、当主として、主として、立派な存在そのものであった。
そしてふと、ノアはロイドの姿を思い浮かべる。
初めて会った日に『物乞いだった』と告白されるまで、ロイドからは少しも裏通りの人間の『匂い』はしなかった。
その後、ロイドがクリスと仕事の話をしているのを何度か見かけたことがあったが、その出生を知ったあとでも、やはり裏通りの人間の『匂い』がすることはなく。
――どれだけの努力をすれば一体、あれほどまでに貴族として十分に振舞えるのだろうか。
ノアがロイドに抱いたのは、尊敬の念だった。
今こうして使用人として教育されている自分のことでさえ、大変だと感じることが多々ある。けれどロイドは、使用人よりさらにその上の立場として教育されていたに違いない。それが、どんなに血の滲むような努力を必要としたのか、ノアには想像もつかなかった。
ただ分かるのは、表通りの人間の世界と裏通りの人間の世界は、全く違うということ。
常識が異なる世界へ貴族として遜色なく溶け込んでいるロイドに、ノアはやはり尊敬の念を抱くしかなかった。
「――あら、いけない。早くこのシーツを洗濯しなければ」
「随分話し込んでしまったわね。クリス様に叱られてしまうわ」
「………」
使用人たちがこの場を去って行く音を聞き届けてから、ようやくノアは階段を下りる。
――できればあまり、女の使用人には会いたくないのが本音だった。
別に彼女たちのことが嫌いなわけでもないし、彼女たちから嫌な態度を取られるわけでもない。ただ、自分の容姿が他の人より人目を惹くことを知っているノアは、それを理由に騒がれるのが嫌なのだった。
「………」
他に誰とも出会う気配がないか、静かに辺りを見渡す。
そうして誰もいないと判断すれば、足早に自室へと真っ直ぐに向かって行った。
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